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 花魁 

時代小説『花魁』は、遊廓に売られた女たちの物語です。
華やかな歴史の裏側、貧しさゆえに身を売る女たちの
文章として記録されない日本史の一部。

一作目
『白猫』廓に売れて、外へは出れない少女は、やがて美しい花魁になった。飼い猫だった「ゆき」が、初恋の人に手紙を届けてくれる。
『花魁』(原題は「白猫」)は公募用に一度推敲しています。最近、花魁言葉に変換するアプリを見つけて会話文だけを加筆しました。

二作目
『廓の中』貧しい村で生まれたはお袖は家族の犠牲となって廓に売られた。そこは女に取って正しく苦界だった。好きな男と足抜けをしようとしたお袖だったが……。

三作目
『怪談 時雨番傘』雨の山中、古いお堂で雨宿りをした男が出会った、女の正体とは……!?

四作目
『花簪』花魁鈴音は馴染みの客から、野暮な男の相手を頼まれる。気の進まない鈴音だったが、一夜の男に何故か惹かれてします。

 
(表紙の絵の著作権は鶴田二郎氏に帰属します)
カットのイラストはフリー素材 [ 四季の素材 十五夜 ] 様よりお借りしました。http://ju-goya.com/


     初稿 趣味人倶楽部・創作広場 2009〜2010年頃 文字数 26,896字

     カクヨムに投稿するために推敲加筆しました。
     その時に『怪談 時雨番傘』も花魁くくりで作品に加えました。
     2016年5月 文字数 31,511字







白猫


   第一作 白猫 

 お春は十二歳のときに親の借金の形で廓に売られた。
 当時、お上が遊郭と認めていたのは、吉原、島原、新町の三つだけである。吉原遊郭は大門をくぐって入っていくと仲之町、通りを挟んで左右に江戸町、京町と続く。夜にもなると不夜城は客と女郎たちの嬌声で華やぐ。
 吉原では大門から入って奥にいくほど、妓楼の格式は高くなっていくのである。お春が売られた嵯峨野屋は吉原でも一、二を競う老舗の妓楼であった。お抱えの遊女たちは花魁太夫と呼ばれ、町人風情では到底抱けない高級女郎なのだ。
 貧しい家の娘とはいえ武家の生まれで読み書きのできるお春は、客筋の良い、この妓楼で奉公することになった。

「あらっ」
 格子窓の向こう側、隣の棟の廂に白い猫がいる。
 先ほどから、こちらを見ている白猫と目が合った。お春はその猫に釘付けになった。
 まさか……?
 そのまま猫はこちらの窓に飛び移り、格子をするりと抜けて座敷に上がってきた。
「ゆき、おまえはゆきじゃないか!」
 驚いた。その白猫はまぎれもなく、お春が廓に売られるまで飼っていた、ゆきだった。ゆきは両眼の色が違う金眼銀目の珍しい白猫である。
「ゆき、どうして?」
 足元で喉をごろごろ鳴らして、お春に擦り寄ってくる。
「あたしのことを覚えていてくれたんだね」
 吉原に売られてから三年の歳月が経つ、日々の暮らしに追われてゆきのことを思い出すことすらなかったお春だったのに……ゆきは違う。猫は人に懐かない薄情な生き物だというが、お春のことをちゃんと覚えていてくれたのだ。なぜ、ゆきが自分を捜しあてたのか不思議でならない。
 人間にはわからない動物の勘みたいなのがあるのだろうか――。 
「おまえ、あたしに逢いに吉原まできてくれたのかい?」
 手を伸ばすとゆきは大人しく抱っこされた、毛艶もよくずっしりと重い……たぶん誰かに大事に飼われているようだ。
 ゆきは赤い布を首に巻いていた。緩んでいたので締め直そうとはずすと布の内側に、

 ― 深川町 佐吉 ―

 と、墨で書いてある。
 ゆきが迷子になった時のために、飼い主の名を書いてあるのだろう。
『佐吉』それは懐かしい名だった。お春が吉原に売られるまで暮らしていた長屋の幼馴染あの佐吉に違いない。ちゃんとゆきの面倒をみてくれていたのだ。  
「佐吉さん、ありがとう……」
 ゆきを抱きしめて、お春はうれし涙が止まらない。

 お春は深川町の長屋で生まれた。
 父は武士だったが国元の藩が御取り潰しになったがために失職、江戸の知人を頼って支藩の口を探しにきたのだ。母はいいなづけの父に呼ばれ、国元から江戸にきたが所帯を持ってから、ずっと貧乏暮らしだった。
 父は寺子屋をして長屋の子どもたちに読み書きを教え、たまに道場で稽古をつけたりして、幾ばくかの日銭を稼ぎ、母は着物の仕立てと茶屋の賄いで働いていた。そうやって、家族三人身を寄せ合うように暮らしていた。

 それでも貧しい夫婦は家賃が払えず、長屋の大家に追い出されそうになったが……大家の三人の孫に読み書きを教えるという約束で長屋に置いて貰っていた。
 佐吉は大家の孫で総領息子。
 たいへん利発な子どもで、大家の爺さんが特に目をかけて可愛がっていた。お春が長屋の悪餓鬼にいじめられると、いつも佐吉が助けてくれた。
「お春をいじめる奴はおいらがゆるさねぇ!」
 そう言って、いじめた相手に突進するのだ。なぜか佐吉はいつもお春には優しかった。そんな佐吉のことをお春も好きだった。

 そんなある日、お春はお堀で捨て猫を拾った。
 それは真っ白な仔猫で見つけた時、今にも死にそうに弱々しく、にゃーにゃーと鳴いていた。このままでは死んでしまう……放って置けずに長屋に連れて帰ったら、たいそう父に叱られた。
「猫など飼う余裕などない、今すぐ捨てて参れ!」
 そう云って、頭ごなしにお春を怒鳴った。
 しかし、涙ぐんでいるお春と白猫を見て母が、「旦那さま、この白猫は金目銀目の猫でございます」という。
 やっと目の明いたくらいの仔猫である。
「古(いにしえ)より、金目銀目の白猫は吉兆の使いと申します……」
 その言葉に支藩の夢が叶わず腐っていた父は、『吉兆』ならば捨てるわけにはいかぬ……と、飼うことを許してくれた。そして猫は『ゆき』と名付けられて、お春の飼い猫になった。

 母が病弱で兄弟のいないお春にとって牝猫のゆきは妹のような存在だった。
 見目の良いゆきは気品の漂う美しい白猫で、両目の色が違うせいか神秘的な……霊力のようなものを感じさせた。
 ゆきが来て半年ほどたった頃、母が病にかかった。
 時折、こんこんと力なく咳をするようになった。どうやら労咳のようだ……父は母が労咳だと知って、家に寄り付かなくなってしまった。
 支藩が叶わぬ浪人の父は、最近ではやくざの用心棒のようなことまでやっていて、賭場や遊郭など……悪い遊びを覚えたようだ。
 何日も父は家に帰らない――。
 心配した大家の孫の佐吉が、わずかだが食べ物を届けてくれた。母は日々痩せて衰弱していく、父を探しに吉原界隈まで行ったこともあるが、結局、父は見つからなかった。

「お春、おいで……」
 寝床から起き上がり母が呼ぶ、呼ばれたお春に、「お堀の近くに真っ赤な曼珠沙華が咲いているだろうか?」と訊く。
「はい、母上」
 こんこんと咳をしながら、「曼珠沙華の花が見たい、おまえ摘んできておくれ」
 珍しく母がそんなことをお春に頼んだ。「たった今摘んで参ります」と、お春は家を飛び出した。
  
 秋の夕日に染まった深川堀の周辺には、真っ赤な曼珠沙華が毒々しいほどに咲き乱れていた。球根には毒があり、彼岸花、死人花(しびとのはな)とも呼ばれる。こんな不吉な花をなぜ見たいと母がいい出したのか不思議に思いながらも、十輪ほど手折って急いで家に持って帰った。

 長屋の前では、ゆきがお春を待っていたように、にゃーにゃーと鳴いていた。
「ゆき、おまえ閉め出されたの」
 そう言いながら戸口を開けて、お春が見たものは……。
 真っ赤な曼珠沙華の中で眠る母の姿だった。だが、その赤いものは母の流した血で、懐剣を喉に突き刺し、武士の妻は自害していたのだ。
 お春は上がり框(かまち)にへなへなとへたり込んで、母の死体を凝視していた……。あまりのことに、これが現実なのか夢なのか判らない。
 嘘? これは夢……? 母上、曼珠沙華を摘んで参りました。ほらっ、こんなに赤い……赤い……。
 にゃーにゃーとしきりに鳴くゆきの声に正気を取り戻し、お春は張り裂けんばかりに絶叫した。
 その声に長屋の住人たちが飛び出してきた。お春はそのまま倒れて気を失った。その足元には真っ赤な曼珠沙華が散らばって、秋の夕暮れを彩っていた。

 いつ書いたのか、『旦那様、申し訳ありません、お春をお願いします』と書かれた、母の遺書が残されていた。
 しめやかな葬儀を長屋の人達がとりおこなってくれた。妻が死んだことを長屋の者が吉原で遊んでいる父に伝えに行ったが、それでも父は帰ってこなかった――。
 葬儀を終えて三、四日経った頃、父の代わりに女衒が長屋にやってきた。父の博打の借金の形に、娘のお春が売られたのだ。

 お春が売られたと聞いて、佐吉が目を真っ赤にして泣いた。
「おいらがもっと大人だったら、お春をどこにもやらねぇー」
「佐吉さん……」
「すまねぇ、おいらはお春に何にもしてやれない……」
 そういって、佐吉は肩を震わせて泣いた。
 どの道、父も帰らず行くあてのないお春にとって、今さら売られたとて落胆するほどのことでもない。どうにでもなれという自棄っぱちな気持ちだったが……。
 ただひとつ、飼い猫のゆきのことだけが心残りだった。
「佐吉さん、ゆきをどうかお願いします」
 そう頼むと、ゆきをお春だと思って大事に面倒みるからと佐吉が約束してくれた。
「お春、おいらが大人になって稼げるようになったら、きっと迎えにいくから……」
「佐吉さん……」
「絶対に、お春を迎えいくから待っていろよ」
 佐吉は着物の袖で何度も涙をぬぐっていた。
「うん、きっと……待っているから……」
「きっと、きっと、おいらが迎えにいく……」
「きっと、きっと、佐吉さんを待ってる」
 お春の目からも大粒の涙がぽろぽろ零れ落ちて、まだ幼いふたりは抱き合って泣いていた。
 ――その姿をゆきが足もとで静かに見ていた。





 あくる日、女衒に廓( くるわ )に連れて来られたお春。
 吉原遊廓に入るとき入り口に大きな門があった。大門を呼ばれる、その門は女郎たちが逃げ出さないように、いつも門番が見張っていて、お春が女衒と遊廓の中に入ると後ろで、がちゃーんと門を閉める音が響いた。
 自分は生きて、ここからは出られないのかも知れないとお春は悟った。
 ――ここは苦界なのだ。
 お春が売られた御見世は、吉原でも奥に位置する御店(おたな)で、吉原遊郭では奥に入るほど格式の高い御見世になる。「嵯峨野屋」と金文字看板のかかった、豪勢な造り妓楼だった。
 奥から出てきたこの御見世の主は、廓の女将と思えないほど気品のある女だった。

「おや、利口そうな娘だね」
 女衒が連れてきたお春をしげしげと見て、女将がそう云う。
「おまえ、読み書きはできるのかい?」
「はい、できます」
 その返答にうんうんと頷いて、「うちの御見世では器量良しより、読み書きの出来る利口な娘の方が調法するんだよ」どうやら女将はお春がひと目で気に入ったようだ。
 その後、女衒と女将はお春のことで商談を始めた。お春は御見世の玄関先でぼんやりとその遣り取りを眺めていたが、こんな立派な御店(おたな)に奉公できて良かったと内心思っていた。
 胸に抱いた小さな風呂敷包みには、お春の身の周りの品と母の形見の懐剣が入っている。
 母は病気になって、父に見捨てられて自害した。最後まで武士の妻としての誇りを捨てたくなかったのだ。
 父の借金はお春が死ぬまで奉公しても到底払えるような額ではなかった。
 ――二度と娑婆には戻れない。
 この廓の中で、生きていくしかないのだと覚悟を決めていたが……それでも心細くて涙が零れそうになった。――誰にも見られないように、お春は慌てて袖で涙を拭った。

 その時、しゃなりしゃなりと絹ずれの音が聴こえてきた。
 仄暗い座敷の奥から、目も醒めるような綺麗な着物を着た女郎が出てきた。いわゆる花魁と呼ばれる高級な女郎である。
 あまりの美しさに思わずお春は息を呑んで佇んでいると、その花魁も立ち止まって、お春の方をじっと見ていたが……。
「おまえ、名はなんというかえ?」
 凛とした美しい声で訊ねた。
「春と申します」
 どぎまぎしながら、ぴょこんとお辞儀をするお春だった。
「春っていうんだね……そうかい、お春かい……」
 美しい顔でお春を覗きこんで、花魁がひとり言のように呟く。
「お母さん、その娘はうちの御見世に奉公するんでありんすかぇ?」
 廓では『女将』のことを女郎たちは『お母さん』と呼ぶ仕来りである。
「皐月(さつき)太夫、そうだよ。利口そうないい娘だろう」
「でありんしたら、あちきの部屋で修業させんす!」
 花魁が急にそんなことをいい出した。
 突然の申し出に驚いた女将だが、「おやまぁー、皐月がこの子の面倒みるのかい?」その真意をはかりかねて、「別に構わないけど……いったい、どういう風の吹き回しだい」あきれ顔で問う。
「あちきがきちんと仕込みんす」
「そうかい、それじゃあ、皐月太夫に任せるよ」
「お母さん、今日からその娘はあちきの妹でありんす!」
 これでお春の嵯峨野屋での身の振り方が決まった。

 お春が修業についた、姉女郎の皐月(さつき)は、吉原女郎の中でも上臈(じょうろう)皐月と呼ばれ人気、美貌、聡明さ、共に一目置かれる花魁である。
 馴染み客も大名旗本など幕府の要職についている者ばかりで、歌を詠み、書を嗜み、馴染み客とも機知に富んだ会話ができなければ、吉原屈指の妓楼、嵯峨野屋の看板花魁は務まらない。
 その皐月太夫が素直で聡明なお春のことが、ことのほか気に入って、特に目をかけて、行儀作法、芸事も一から叩きこんで一人前の遊女に育て上げてくれた。

 ――吉原に来て三年目、今年で十六になるお春の初見世である。
 女郎がお客を取って初めて寝ることを初見世の御開帳という。いっぱしの女郎になるための大事な仕来たりなのだ。お春の初見世の準備に姉女郎の皐月は江戸中の呉服屋、仕立て屋を呼んで自ら着物を見立てて準備を整えてくれた。
 それらの着物は目の醒めるような紅緋色の仕掛けや絹の寝具など、贅を尽くした品々だった。

 上臈皐月の妹女郎の初見世の御開帳と聞き、初客の申し込みが殺到し相手を選ぶのに姉女郎と女将は頭を悩ませていたが、結局、姉女郎皐月の古い馴染み客である旗本のお殿様が選ばれた。
 お春には何も分からないまま初見世の準備は刻々進んでいく。そして豪勢な花魁道中も予定されていた。吉原で権力を持つ姉女郎の後ろ盾がついた、お春の初見世を羨ましがらぬ女郎は吉原中に誰一人としていなかった。
 いよいよ後、ひと月でお春は御開帳で“女”になるのだ。

 金箔張りの襖を開くと、清々しい青畳の匂いが立ちのぼる。
 初見世からひとり立ちして、振袖新造から花魁、春日(かすが)太夫になる。そんなお春のために嵯峨野屋の女将が座敷をあてがってくれた。
 座敷は襖も畳も新しく入れ替えられて、豪華な調度品も運び込まれていた。後は主人(あるじ)である、お春が座に就くだけの状態なのだ。
 この部屋で、これからお客の接待をし、自分の元に付く新造や禿たちの面倒を見ていかなければいけない。嵯峨野屋の花魁春日になったからにはしっかりとやらねばならないのだ、身が引き締まるお春だった。

 振袖新造のお春は皐月の座敷で舞いや三味線、お客にお酌をすることはあるが、まだ生娘である。
 女郎がお客と寝所ですることは頭では分かっている、だが経験がない、不安だらけなのだ。これだけの支度をして貰って、ちゃんとやっていけるのか……実は重圧感で逃げ出したいお春だった。
 そんな気持ちで格子窓の外を眺めているところに、白い猫と目が合ったのだ。
 ……まさか飼い猫のゆきだったとは!

「ゆき、おまえと逢えてうれしいよ、佐吉さんは元気にしているの?」
 お春の膝の上でゆきは気持ち良さそうにごろごろと喉を鳴らす。
 ふわふわとした真っ白なゆきの毛並みを撫でながら、売られる前の日、佐吉と泣きながら抱き合って別れを惜しんだ、あの日の自分を思いだしていた。
 ふと思いついて、ゆきの赤い首紐を外すと、

 ― 佐吉さん、ゆきをありがとう 春 ―

 青い布に筆で書いて、ゆきの首にしっかりと結んだ。

「春姉さん、皐月姉さんが呼んでいます」
 座敷にいると、禿(かむろ)がお春を呼びに来た。その声に反応するように、ゆきはむくっと立ち上がり、来た道からさっと外へ出ていった。
「あっ、ゆき!」
 その後ろ姿を目で追いながらも、今の自分はそんな感傷に浸っている時期ではないのだと、現実に立ち戻ろうとするお春だった。

「お春、どこへいってたんだい?」
 襦袢姿で花魁髷を髪結いに結って貰いながら、皐月が怪訝そうな顔で訊く。
「座敷にいっておりました……」
「そうかい、いよいよだね」
 うれしそうに姉女郎はいう、自分が育てた妹女郎がひとり立ちするのは一入(ひとしお)の感慨だろう。
「なんだかここのとこ、おまえ元気なくて……心配していたんだよ」
「こんな立派な支度をお母さんや姉さんにしていただいて、ちゃんと、やれるかと心配で……」
 そういって俯くお春に、「心配ないさ、お春、おまえならやれるよ!」温かく励ます皐月の優しさにお春の胸は熱くなり、涙がぽろりと零れた。
「お春は生娘でありんすから ……御開帳が怖いのかえ?」
「……はい」
 こくりと、首(こうべ)を垂れた。
「おまえの御開帳の相手をしてくださる、お殿様はいいお方だよ、決して無茶はしないから、安心おしよ!」
「…………」
 皐月の言葉に、何故かお春の胸に佐吉の面影が浮き上がった。
 そんなお春の心の動きを皐月は見逃さない、「……おまえ、まさか好きな男でもいるのかい?」と訊いた。
「いいえ、そんなんじゃないんです……」
「女郎は好きな男がいても、お客に抱かれなければならない因果な商売さ」
「はい……」
「けれど ……お客に抱かれるときは、好きな男に抱かれてありんすと思って相手をすればいいんだよ 」
「はい、姉さん」
 皐月はお春のことを実の妹のように目をかけてくれる。
 嵯峨野屋にきてから、お春は皐月太夫のお気に入りの妹女郎というだけで、決して苛められたり、粗末に扱われたことがない。まるで身内のように、いつも自分のことを見守ってくれている。
 その温情に感謝しながらも疑問に思っていた。

 一度、皐月に訊いたことがある、
(どうして、こんなに可愛がってくれるんですか?)
 おまえは死んだあちきの妹に顔も性格もそっくりでね、おまけに名前まで同じ『 お春 』っいうんだよ。それで運命を感じてさ、放って置けありんせん、早死にした妹の分までおまえを幸せにしてやりたい。
 そういって、気丈な皐月が珍しく袖で涙をぬぐっていた。

 陽が暮れ、長屋に夕餉の匂いが立ち込める頃、表で猫のゆきがにゃーにゃー、と鳴いている。その声に裏木戸を開けて餌をやろうと出てきた佐吉である。
 ゆきは不思議な猫でお春が売られてから、ずっと佐吉が面倒をみているのだが、決して佐吉の家には上がってこない。あれから、ずっと空家になっているお春の長屋で寝泊まりしているようだ。
 まるでお春の帰りを待っているかのように、あの家から決して離れようとしない。
「おや……?」
 ゆきの首紐の色が変わっているのに気がついた。
 おかしいなあと解いてみて、佐吉は驚いた。なんと自分宛の手紙がしたためられていた。……信じられない。
 これは夢ではないかと自分の頬っぺたを叩くと痛い。紛れもなく、それはお春の筆だった。
「ゆき、お春のところへいったのか?」
 うれしかった! まさかこんな形でお春の手紙を受け取るとは……猫のゆきが吉原に行ってお春を見つけ出したに違いない。
 そういえば、金目銀目のゆきのことを吉兆の猫だとお春がいっていた。だから捜していたお春とおいらを引き合わせてくれたんだ。
「猫の身で飼い主を捜すなんて……おまえは不思議な猫だ」
 知らぬ素ぶりでゆきは餌を食べている。
 佐吉はお春が吉原のどこの御店に売られていったのか知らなかった。あれから三年、お春の消息を長屋の誰ひとりとして知らない。
 お春が売られた半年後にお春の父親が死んだ。賭場でやくざと揉めたらしく腹にどすで何箇所も刺されて深川掘に浮かんでいた。自業自得だと長屋のおかみさんたちは噂した。その時もお春に知らせる伝手(つて)がなかったのだ。

 あの日から、一日としてお春のことを佐吉は忘れたことがない。
 売られる前の日、抱き合って泣いたお春のことが今でも好きだった。いや、物心ついた頃から佐吉にとってお春は特別な存在だった。絶対に自分が守ってやらなければいけない女なのだ。それなのに三年前……何もしてやれなかった。そんな自分が不甲斐なくて悔しかった。
 絶対にお春を見つけ出して、助けあげたいとそればかりを願っていたのだ。お春に逢いたい、さっそく新しい布に手紙を書いてゆきの首に捲いた。
 止まっていた刻(とき)が、再び動き出す――。

「ゆき、お春に届けてくれ!」





 不夜城吉原の明けの六つ時、大門近くでは遊女が客と別れを惜しんで見送りの儀式を行う。嵯峨野屋の花魁皐月は振袖新造、禿引き連れ総勢八名で昨夜の客、幕府の重職に就くお大尽のお見送りをしていた。豪勢な駕籠(かご)が迎えにきて、ご満悦で帰っていく。
 皐月の座敷に通って、やっと三度目で寝所に誘って貰えたのである。格上の花魁になると一度や二度くらい通っても、おいそれと寝所を共にしてはくれない。やっと想いが叶って、皐月を抱くことができて男は有頂天である。
 ――なんと単純な生き物、女と寝たら……その女の全てを手に入れたと勘違いしている。

「あぁー疲れた……」
 首をぐるりと回し、ため息まじりに皐月が云う。
「皐月姉さんお疲れさまでした!」
 禿たちが大声でねぎらった。
「ほんとにしつこい客でうんざりだよ」
 吉原遊郭では、皐月ほど位の高い花魁と遊ぶ時には、一回目では口もきいて貰えない、飲んでいる席に呼んでそれでお仕舞いなのだ。二回目を『裏を返す』という、三回目になったら『馴染』と呼ばれて、初めて床を共にすることができるが、それでも客を気に入らなければふっても構わない。
 花魁にふられたことを怒るような客は『野暮』と呼ばれて、御店や遊女ばかりではなく、仲間内からもばかにされる。――だが、そうはいっても相手が身分の高い武士だと無碍にするわけにもいかない。
 しょせん花魁も女郎ゆえ寝所の相手は慣れたことである、しかし朝までの何度も挑まれるとさすがに疲れる。これから先、何年、この身を売って生きていくのだろうか?
 漠然とした不安で皐月の心は曇った。
「あちきは帰って寝るよ、おまえたちはこれで温かいものでも食べてお帰り」
 そういって、皐月は客がくれた祝儀袋を連れの者たちに渡した。祝儀を貰った連れの女たちは、その銭でおしるこでも食べようと大喜びだった。

「皐月姉さん」
 さっさっと、御見世に向かって歩いていく皐月の後ろ姿を追いかけた。
「姉さん待って……」
 その声にやっと振り向いた皐月。
「お春、みんなと食べに行かなかったのかえ?」
「はい、姉さんがお疲れみたいなので、春も一緒に帰ります」
「そうかい……」
 いつもの艶やかな座敷で見る皐月と違って、朝日に照らされて見る皐月は疲れてどこか寂しそうだった。看板花魁の命は短い、昇りつめたら、後は落ちていくだけだ……。
 ふと思った、皐月姉さんは心の中で慕う人がいるのだろうか?
 他の御見世の花魁の中には間夫(こいびと)を作って、遊んでいる女郎もいる。皐月ほどの花魁だったら……間夫くらい作っても御見世は文句をいわないだろう。暗黙の了解で許してくれるはず、だけど姉さんがひとりでこっそりとお見世を抜け出しているところを、一度も見たことがない。
 皐月姉さんは好きな人はいないのかな? いったい誰が心の支えなんだろう? そんなことを考えながら、皐月の後をついて歩くお春だった。

 嵯峨野屋に帰ると、御見世の玄関の前にゆきが座って待っていた。にゃーにゃー、お春を見つけてうれしそうに鳴いた。
「ゆき……」
「おや、きれいな白猫だね」
 目を細めて皐月もゆきを見ている。
「昔、飼っていた猫が逢いに来てくれたんです」
「おや珍しい! 金目銀目の猫じゃないか、きっと弁天様の使いだよ」
「ゆきはとっても不思議な猫なんです!」
「厨房の賄いにいって魚のあらでも食べさせてあげな……」
 皐月も猫好きらしい、そういい置いて御見世の中に入っていった。
「皐月姉さん、よく寝られるように後で生姜湯を持ってあがります!」
 中央の階段を上がって自分の座敷に戻ろうとする皐月の背中に、お春は声をかけた。その声に皐月は手を振って応えた。
 ゆきの首紐の色が変わっていた、佐吉さんはあたしの文を読んでくれたんだ!
 なんだか心が華やぐ――。

 ― お春達者だったか、おいらも達者で暮らしている。
   どこの御店で奉公している、お春にあいたい。 佐吉 ―

 若草色の布に書かれた文字を目で追いながら、お春の目頭が熱くなった。佐吉さんが、今でも自分のことを想っていてくれたことがうれしい。
 お春は父が死んだことを知っていた――。御見世の男衆が知り合いのやくざから賭場で父を殺めた話を聞いてきて、こっそり教えてくれた。母が亡くなった時と違って、それほど悲しくはなかった……。
 たぶん、自分は母のことで父をひどく憎んでいたのだろう。
 廓の外で自分のことを覚えていてくれているのは佐吉さんしかいない。その佐吉さんとあたしをゆきが取り持ってくれているんだ。吉原の大門から出られないお春の代わりに文を運んでくれている吉兆の猫、なんと不思議な運命だろう。
 お春も佐吉に逢いたくて仕方がない、もうすぐ初見世の御開帳だというのに……こんな浮ついた気持ちを、どうすればよいのかお春には分からない。
 厨房の片隅で魚のあらを夢中で食べている、ゆき眺めて。
「ゆき、どうしたらいいんだろう?」
 ぽつりと呟いて、佐吉へ書く手紙の文面を考えていた。

 ――佐吉はお春から届いた返事の文を読んでいた。
 ゆきの首に捲かれた、薄桃色の布には細く折った紙が挟んであり、お春の筆で詳しい事情が書いてあった。奉公している御見世のこと、もうすぐ初見世があること、吉原で花魁道中をするので見にきて欲しいと……そのようなことが面々と書かれていた。
 佐吉は、お春が売られた翌年から、飾り職人の親方の元に弟子入りしていた。
 深川界隈では顔の利く長屋の家主の爺さまに頼んで、吉原遊郭の遊女たちの簪(かんざし)を作っている、この親方の元に弟子入りして修業させて貰っている。
 いつか自分の作った簪をお春の髪に挿したいという願いから、吉原出入りの飾り職人を志した佐吉である。

 親方は還暦近い年寄りで、昔堅気な職人気質なので弟子は取らないというのを、無理無理に頼みこんで通いの弟子になった。
 最初は、いつでも辞めちまえ! と、つっけんどんな態度だったが、佐吉の熱心さと真面目な素直さに、序々に絆(ほだ)されて……。
 今では孫ほど年の違う佐吉に、「わしが生きてる内に、おめぇに技を叩き込む!」そう云って、親身になって教えてくれるようになった。

「嵯峨野屋だって?」
 親方にお春が奉公している妓楼ことを聞いてみた。
「幼馴染の娘がそこに奉公しているんだ」
「あの御店(おたな)は吉原でも格の高い妓楼で、あっしら町人が足を踏み入れるようなところじゃないさ」
「…………」
「わしも、一度だけ出入りの小間物屋と商いで覗いたことがあるが……そりゃー豪勢な造りの店だったなぁー」
「そうですか……」
 その話を聞いて、お春が立派な妓楼に奉公しているのが分かって安心したが、半面……そんな御店の女郎には、おいそれと逢うことができないことも同時に理解できた。
 お春、おまえがどこに居たって、おいらは絶対に諦めないぜぇー。
 恋しい想いは募るばかりだった――。



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