[携帯モード] [URL送信]



ホテルに帰るとすでに日は落ちていた。部屋に入るなり、千帆はベッドに思い切りダイブをし、思わず笑ってしまった。


「いい歳をして」
「だって、くだびれた」


まねをしてダイブをする。ぼん、と跳ねる身体。千帆は笑った。笑った顔をみて思い出す。少し前から、いろいろなことを思い出す。こんな風になってから思い出すのは都合がいいことだ。わかっている。病気になってから、健康はなんと素晴らしいのだ、と感じることに似ている。健康なときはありがたみもくそもないのだ。
千帆としたいろいろなはじめて。 千帆に恋をした。細くてしなやかな身体の千帆。他人なのに他人の気がせず、兄妹のようで、血がつながっている気さえした。ただ、自分はいい夫ではなかったと思う。世間一般的に、「自分はいい夫だ」という奴がいるのかは知らないが。たぶん。
健一が産まれたときのこと。分娩室からは、赤ん坊の声と一緒に、わんわんと泣く千帆の声が聞こえてきた。健一が泣くのは当たり前だ。赤ん坊だから。でも千帆も泣いていたのだ。泣きながら、こんなに素敵なことはない、神様ありがとうございます、と、言っていた。健一は待ちに待った子どもだった。不妊治療に通い、基礎体温計を使い、義務のようなセックスを続けて、やっと授かった子どもだった。正直俺は、子どもが産まれた実感も、父親になった実感もなかったけれど、千帆が嬉しそうに泣くから、本当に、幸せだった。毎日千帆は健一に喋りかける。


お父さんとお母さんはあなたを世界一愛しているわ。だいすきよ。うまれてくれて、ほんとうにありがとう。



「幸福だよ」


ベッドに顔をうずめながら言う。涙を抑えるためだ。


「なに、それ」
「信じないかもしれないけど、幸福だし、愛している」
「…若い人みたいなことを言わないで」
「残念だよ」
「…」
「君と同じ墓に入れないことが、一番残念だ」
「しんだら終わりよ」
「終わらない、終わらない」
「…」


きっと千帆もベッドに顔を押し付けているだろう、くぐもった、声。


「なにも間違っていなかった、これが、決まっていたことだとしてもやはり、」
「ああ、く、うう…」


千帆は泣いた。健一が産まれた日以来に。彼女は人前では泣かない。健一に何をいわれても、首をしめられても、泣かなかった。ただ、悲しそうな顔をするだけだった。家族でいたかった。家族は素晴らしい。今わかった。素晴らしくて奇跡で、千帆を愛していた。健一だって愛している。
いい歳をした夫婦が、ベッドに突っ伏して泣いた。異国の地で。わんわんと。



「綺麗な朝」


窓際に立つ後姿。もう、見れない、けれど、生きていてくれればいいと思う。生きてさえいてくれれば、そして、幸福でいれば。神様、お願いします。千帆を幸せにしてくださいと願う。


「何かあれば頼ってほしい」
「それは、無理よ」
「そうか」
「そうよ」



結婚して二十三年目の新婚旅行。
千帆の白い腕は日本でみるそれと変わらない。














あきゅろす。
[グループ][ナビ]
[HPリング]
[管理]

無料HPエムペ!