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時差は不思議だ。昔、授業で習った気がするけれど、なんせ遠い日の話で、記憶がない、に等しい。例えば飛行機に乗っている間に登っていた太陽が急に月になったりするのか、そんなわけはないか。歳をいくら重ねても、わからないことなんて沢山ある。


「眠いの」


千帆が言う。眠くない、と返す。そう、と言われ、また窓の外をみた。


怠惰だ。


空港で入国手続きを済ませ、外へ出ると、独特な匂いが鼻の奥を刺激した。嫌な匂いではない。


「けっこうあっというまだったねえ」
「ん」


汗を拭く千帆の手は白かった。細くはない。普通、普通。ホテルまでのタクシーの中、俺達は黙って外を眺めていた。静かな旅行。


「長岡です」


フロントに、二人の名字を伝えると、女性はにっこり笑い、簡単な挨拶が英語で返ってきた、そののちカードキーが手に入る。


「なんて言ったの、今、あの人」
「たぶんいらっしゃいませとかそういうことだろ」
「でも長かったよ」
「諸注意だろ」
「わからなくて大丈夫かしら」
「日本でだって注意なんてきかないくせに」
「そうだけど」


やがて部屋の前につき、鍵を開く。ホテルの部屋は感じがよかった。


「ああ疲れた」


バスルームを覗き、ベッドを振り返ると千帆はブーツを脱いでいた。


「千帆」
「なあに」
「すきだよ」


言うと、はあ、というような顔をされた。無理もない。ないのだ。


「無駄なことを」
「無駄」
「無駄だよ、淳一さん」


普段、千帆のことは「お母さん」もしくは「おい」だの「お前」だの呼ぶ。千帆も似たようなもので「淳一」なんて、名前で呼ばれるのは久しぶりだ。呼ばれたのはなんせ遠い日の話で。


「夕飯どうしようか」


千帆は足を揉みながら言う。


「予約入れるよ。美味い店があるらしい」


受話器をとり、手帳を取り出す。と、その瞬間、すごく泣きそうになった。自分でも驚く。喉の奥が熱くなり息を飲む。少し落ち着いたので番号を押した。しぬかと思った。


「美味しい」


目の前には山ほどの皿だの丼だのが乗っていた。そんなには食べられないと言う千帆を無視し。注文した結果だった。テーブルいっぱいの料理は、なんだか安心する。隙間なく埋められる料理。幸福の象徴。しばらくみていない光景。


「あなた、食べなさいよ」
「ん」
「あなたが悪いのよこんなに頼んで」
「ん」
「…勿体無い」
「ん」


多分、今、千帆は泣きそうになったと思う。この波は気をぬくと急にくるもので、とてもたちが悪い。


「話をしなきゃね」
「まだいいよ」
「そのために来たのよ」
「ん」
「あなたのその『ん』て返事、一億回くらい聞いた」「一億回」
「そう、一億回」


慣れない箸を伸ばし、小籠包をつかもうとしたけれど、それはテーブルにぽたり、と落ちた。千帆が笑った。


次の日は早起きをし、観光をした。ゆっくりと。すごいわねえ、とか、人が多いわねえ、とか言う千帆の横で、願う。どうか今、千帆が楽しんでいますように、と。


「ちょっと座ろうか」


頷く千帆を連れ、近くのコーヒーショップへ入った。


「日本にもあるわ、ここ」
「ん」
「どこに行っても、それほど変わらないわね」
「…そうだ、かわらない」


なにも、かわらないのだ


「健一の話をしましょう」
「…ん」
「でも、どうすれば、何から」
「俺が待つよ」
「…」
「だから安心して」
「…」


黙ってカフェオレを口に運び、こちらを見る。唇は赤く、小さい。


「君は悪くない、少しも」
「…」
「まさか日本にもあるコーヒーショップでこんな話をするとは。わざわざ外国まできたのにね」


千帆は薄く笑う。赤い唇、また願う、千帆が幸福になればいい。記憶喪失になればいい。健一のことも忘れて、いっそ、俺のことも忘れて。










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