乾いた音を聞いた。一拍遅れて左の頬が僅かに熱を帯る。殴られたのだと認識するのにさして時間はかからなかった。正午を大分過ぎた時間ということも手伝って、食堂内の人影はまばらであったのがせめてもの救いと云えよう。こんな場面を大勢の"仲間"とやらに見られるのは、女にとって良い事ではないのだろうから。


食堂内の人間――女の言葉で云えば"仲間"達――の視線を一身に受ける女は、何事もなかったかのように、迚も穏やかに口元を釣りあげた。
「御免なさい。手が滑ったわ」
皆が聖女と讃える微笑みで、そう宣う。綺麗事しか紡がない筈のその唇が、今は見え透いた嘘を吐いている。その事実は少なからず混乱を招いた。目の前の、いつも理想論ばかりを謳うその女は、再び謝罪の言葉を紡ぐ。完璧な笑顔で、心にも無い嘘を紡ぐ。
黙れ、と嫌悪感を剥き出しにして云うと、やっぱり無理があったかしらと苦笑する。先程からずっとそうだ。向かいの席に座ってからずっと、女は一貫して笑うと云う行為を止めない。言動で相手の感情を判断する神田は、だからこうされると何も出来なくなる。怒れば良いのかイヤミの一つでも云えば良いのか、それとも立ち去るべきなのか。 何をすれば相手に効果があるのか判らず、結果相手に自分の素顔をさらけ出す形になってしまう。それが厭だ。


「次からは、ほっぺに虫が止まっていた事にするわ」
「テメェ、」
「神田が悪いのよ。わかったって云ってくれるだけで良いの。ねぇ」
「テメェが何を考えようが、それはテメェの勝手だ。ただそれを俺に押しつけるな」
「あら。神田のその自己犠牲だって私にしてみれば押しつけ以外の何物でもないわ」


馬鹿にしないで、と女は笑う。ひどく機械的に。
「なめないでよ。もうわかってるの」
そうして弧を描く口元を見て、神田は漸く女が怒っている事を理解した。本来なら殴られた時に理解するべきであった感情は、数分のタイムラグを経てやっと認識される。恐らくこのタイムラグこそが、互いを遠ざける原因なのだろう。互いが互いに求めるものが違った。そういう事だ。


女は無機質な笑みを浮かべながら「死なないでね」と呪文のように繰り返す。神田はけして頷かない。殴られようと罵られようと、それだけは譲る気がなかった。
団服の上から自身の左胸を、確かめるように撫でる。そしてもう一度、それはエゴだと呟くと、知っているわと女が笑った。



fin

2007.2.7 thanks20000hit!




あきゅろす。
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