満月の夜だった、と思う。定かではなく、もしかしたらまだ完全に満ちてはいなかったのかもしれないけれど、とりあえず丸い月だった。カーテンの隙間から僅かに射すその光だけを頼りに、俺は彼女の背をながめていた。呼吸にあわせて肩が小さく上下する。
何度も家に上げているし、毎度のように夕食も一緒にとる。けれど泊めたのは初めてだった。だからといって何をした訳でもない。そんな雰囲気になる前に、この女は既に寝息をたてていたので。

いつものように夕食を終えると雨が降っていたのだ。そして彼女は傘を持ってきていなかった。いつもならば自分の傘を貸して帰らせるのに、その日の彼女は何かが違った。月を見ていたのだと思う。
視線は月に向けたまま彼女は俺の手を握って、泣きそうな声で「かえりたくないんです」と。無表情でそう云ったあの女性は誰だったのだろう。

「もうほとんど視えないんですね」

その人の声はあの日の彼女の声に似ていた。かえりたくないと呟いた声に本当にそっくりだった。耳はまだ大丈夫なんですね?確かめる声に頷いた。声を出すこともままならない。頷くことすらも重労働なのだ。

「けど、もう感覚はない」

もう一度頷く。その人が今どんな顔をしているのかは知らない。わからない。当たり前だと思う。なぜならば彼女ではないのだから。

「今私が手を握っていることも、わかりませんか」

聞いた途端に手に熱を感じた気がした。あの日の手と同じ熱。自分よりもほんの少し熱くて小さくて、やわらかい。今でもありありと思い出せる。記憶はいつだって鮮明だ。記憶だけは。
わからない。自分ではそう云ったつもりが、声になったのは、うう、という唸り声だけだった。それでもちゃんと意味をくみとって、その人は「そうですか」と悲しそうに呟いた。ひどく大人びたものだったような気もしたが、きっとそれは年齢相応のものなのだろう。俺がまだ割り切れていないという、それだけの話で。

「もうすぐなんですね」

そう。もうすぐなのだろう。だからこの人はわざわざ仕事の合間を縫ってまでここに来たのだ。目は視えない。皮膚の感覚もない。最後まで残ったのは聴覚で、それすらも蝕まれている。長くはないのだ。もう。
なるみさん、と囁く声が近くで聞こえた。耳元で云ったのだろう。まるで、とっておきの内緒の話をするかのように、その人は続けた。


「結崎ひよのでいるのは、とても楽しかったです」

幸せでした、と。それは多分さよならの意味なのだろうと、すっかり鈍くなってしまった頭の隅でぼんやりと思う。不思議と、悲しみはなかった。ただ少しだけ息がつまった気がした。それだってつまりは気のせいなのだけれど。
でも、さよならの前にひとつだけ訊きたかったことがある。必死で唇を動かした。

「あんた、は、」
「私はずっと側にいますよ、鳴海さん。もう、結崎ひよのではないけれど」

あの日の夜の彼女と同じ声が、そう云った。




fin

最終回の後みたいな。

2006.10


あきゅろす。
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