夢をみていた.
「なつかしい」なんて感じたことは、数えるのに片手のゆびを折って足りるくらいの回数しかなかった。それはきっと、あの場所を『ふるさと』なんてやさしすぎることばでくくって仕舞うことに微かな違和感のようなモノを覚えたからだろう。
『望郷の念』なんてモノを連想させる風景ならば、紙の上やブラウン管越しに数え切れないほどに見てきて、それでもわたしは何も思わなかったのに。
「あ、」
ただ通りすぎるだけだったはずだ。いつもいつも通っている場所なのに、わたしはそのとき動けなかった。
何がいつもと違っていたんだろうか?
きっと、しんとした空気とか、夕方と夜の境目の時間とか、それぐらいだと思う。
なのに、わたしは動けなかった。
だって、まるですべてがあの夕暮れと一緒で。
前方を歩いていた気配がとまって、それでやっと、私は。
「井上、さん?」
「ごめん、ごめんね」
やっと体とか思考とか、そういうものが動いたと思ったのに。必要ないものまで一緒に動いて仕舞ったようで。悲しくなんてないのに。頬を温い滴が、伝う。
「どうか、したの?」
いつのまにか目の前にあった心配そうな顔と、レンズ越しに瞳があった。ちがう、ちがうよ。ただ、この風景がわたしの思い出のなかのそれとあまりに似ていた、それだけ。
思い出のなかで、わたしは抱きしめられながら、あのあかとくろが混ざった空をみていた。
細い腕に包まれていた感覚が、少し。それだけ。
変なの。声も顔も覚えてはいないのに、腕の細さは覚えているなんて。
「あのね、わたしね、」
たどたどしいことばで必死に伝えた。ほんのすこし思い出したことがあっただけで、悲しいわけでも、どこかが痛いわけでもないよ、と。
石田くんは辛抱強く、うん、うん、と相槌をうってくれて、最後にはわかってくれたようだった。彼はとても頭のいいひとだから。
「僕が連れていってあげられたら、いいんだけど」
ためらいがちにわたしの髪に触れながら、残念そうな顔をして、彼は呟いた。
ひとりごとなのか、それともわたしに向けられたものなのかはわからなかったけど、わたしは心のなかで「ちがうよ」と、「帰りたいわけでは、ないよ」と、思った。
今、どうしているのかはわからない。お兄ちゃんはあのひとのことが嫌いで、だからわたしは今ここにいる。その選択が正しかったのか間違っていたのか、それはわからないけれど。
でも、ふるさとはもう戻れないからふるさとなのだ。郷愁は、失くして仕舞ったから感じるのだ。だからもう、あの場所には戻れないし、帰れない。
「大丈夫だよ」
そしてわたしは口にはしないけれど、それでもいいと思っている。わかってもらえないかもしれないけれど。
それでもさっきわたしを包んだ腕は、泣けるほどに温かくて、力強いものだったから。
「いまは、ここにいられるから」
そのことばを聞くと、彼は、その整った顔に少し安堵したような表情を浮かべた。
納得したのかそうでないのかもわたしにはわからないし、それを知る術すらもわたしは持つことができない。
今わたしにできるのは、こうやってそっとわたしの頭を撫でてくれている彼に郷愁を感じる日が来ることがないようにと、ひたすらに祈ることだけなのだ。
fin
2006.2
2006.10再録(修正)
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