森に、夏が来た。湿っぽい雨の日が続いて、南方さまが言うにはそれは梅雨と言うらしいけれど、とにかくそれが終わるとうだるような暑さが続く。髪の毛はすこし動いただけで湿り気を帯びて、体はベタベタしてきて、肌は焼けそうになる。

 必然、ぼくは水の中にいることが多くなった。

 耳の中まで、水音がくすぐっていく。小さな泡の弾ける音がして、体が水に浸かるときだけは体が信じられないくらい涼しい。すう、と、水面に遮断されてキラキラと輝く光を見ながら、ぼくはその日一日を過ごす。


「雨衣、夏はよくここにくるよな」

「そうそう。俺たちも仕事あるのに、いつもぷかぷか浮いてんだもん」

「え、ぼく邪魔?」

「別に。ただ相変わらず暇そうでいいなって!」


 魚たちの戯れの声を聞きながら、辺りを見回す。おまえたちだって、ぼくからしてみれば泳いでいるだけに見えるけれど。


「全く、神様の従者はいいナア」

「おまえらだって、森に住んでいるんだから、南方さまに守られてるよ」

「雨衣は別!」


 ここの森の者は、みんな南方さまがすきだ。だから、たまにこうして、いつまでも特別扱いのぼくが心底うらやましいというように、拗ねて見せる。たしかにぼくは、元々この森にいたわけじゃないから、そういうことからじゃ、特別なのかもしれないけれど。

 でもぼくだって、あれから別に南方さまと特別なにかあることもなく、こうして放っておかれているわけで。


(南方さまのお仕事が忙しいのは分かる。そして元々人間であったぼくが南方さまのお仕事の力になれないことも、分かる)


 だからなにも言えないけれど。


「俺も一日中南方さまのそばにいたいなあ」

「馬鹿おまえ。魚じゃ無理だろ」

「おまえだって魚だろう!?」


 そんなキャンキャンとした声を聞きながら、水面をぼんやりと見上げる。そこはさっきから、外の風にだろうか、ゆらゆらと気持ちよさげに揺られている。


「ていうか雨衣夕方だし、もう帰れよ。南方さまも帰ってくるぞ」

「……三日ぶりにね」


 ――雨衣ー。ちょっと用を片付けてくるから、お留守番していなさいね。三日ほど。


 ふうんとその背中を追いながら、最後に付け足されたような三日という言葉に、はあ!?と思った頃にはその姿は遠ざかってしまっていた。そうして、元人間のぼくが追いつけるはずもなくいなくなってしまう。

 呆気にとられて、なんだよとモヤモヤしてから、三日。そう三日だ。三日も水の中にいた。もういい加減外に出ないと、ほんとうに水の生き物になってしまいそうだ。

 外の光がオレンジ色になってきたのを確認して、久しぶりに水面に上がる。ぴしゃっと水音が跳ねて、久しぶりに耳が地上の音を聞く。目が水以外のものを通して見えてくる。そして風が頬を撫でた。

 岸辺に上がると重力でぺしゃんこになりそうだ。

 やっぱりぼくは、水がすきなんだなあ。


 ぼくがいつもいる水辺から、南方さまとの簡素なねぐらまではすぐだ。慣れた森の中を歩く。南方さまはもう帰ってきているだろうか。


(別に、どっちでも、いいけれど)


 というのは、うそだし、強がりだけど。南方さまはちょっとぼくを放っておきすぎだ。

 ほんの少し前まではさびれた神社のしがない神様だとばかり思っていたが、どうも普通じゃない偉い神様だということに気づいてからは、仕事についてピーピー言うつもりもない。

 南方さまにそばにおいてもらって、やさしくしてもらって、それでももっと一緒にいたいなんていうのは、ぼくの我が儘なのに。


「南方さまー? 帰ってきた?」


 返事はない。なんだ、帰ってきていないのかあ。そう思い、すこしだけ背の低い入口を入って奥へ行くと、かすかな息遣いを感じた。


(あれ……帰ってきてるんだ)


 そっと中を窺う。大きな体躯は、ぼくと南方さま二人のねどこに仰向けに投げ出されたままぴくりともしない。わずかに上下する胸を見ると、どうやら眠っているみたいだ。


 珍しい。

 南方さまはいつも、ぼくが眠るまで起きていて、ぼくが起きるともう起きているのだから。


 起こさないように慎重に足を使って、南方さまのそばに腰を下ろす。すこしだけ疲労を見せた目元はきつく瞑っているのに、長いまつげのせいか、ひどく綺麗だ。眠っていても、綺麗なのだからどうしようもない。


 南方さま、白い。こういうときにやっぱり、ほんとうにすごい神様なのだということを実感する。南方さまはぼくも半分南方さまの力を持っている分日焼けはしないとか言っていたけれど、もししたらいやだなあ。だって、南方さまはこんなに白い。

 ……仕事、やっぱり忙しいんだ。

 あんな風に、ぼくに気づかせないようにあっさりと言って三日消えたけれど、ずっと忙しくて疲れる仕事だったに違いない。


 すきなら。


 ――つまり私は、きみがすきで、すきで、どうしようもないという話をしているんだけど。


 すきなら、ずっと一緒にいればいいじゃん。そんな風に思っていたぼくは、まだどこまでも南方さまのことが理解できていないし、子どもだ。お使いとしても、ダメダメだ。

 でも、南方さま、ぐっすり。

 ふと辺りを見回す。ぐるりと、左後ろ右と。それから、念のため上も。だれもいない。当然だ、ここはぼくと南方さま以外は入れない。……分かっているのに、ついつい確認してしまう。

 目の前には無防備に肢体を投げ出したお疲れの神様。


(こんなことをするのは、だめかも、しれないけれど)


 三日ぶりだし。起きたら、南方さま疲れてぼくを構ってくれないかもしれないし。これはきっとチャンスだ。

 そっと、ぼくのあくどい考えなんて知らずに夢の中であろう南方さまの顔に、自分の顔を近づけた。起きないようにすべすべと滑らかな頬に手を伸ばす。

 大丈夫。南方さまは動かない。

 そう思って目を瞑ったまま南方さまのほっぺに影を落とした。

 唇が触れるか触れないかのところで、一瞬だけ止まる。ぎゅう、と目を閉じたまま南方さまの寝こみを襲ってキスをしようとしたけれど――。


(だめだ! ぼくはなんて意気地なしの男なんだ!)


 やっぱり無理だ!

 そう思って体を起こそうとしたけれど――いつの間にか後ろから虎視眈々と狙っていたらしい大きな手が、ぼくの体を捕まえる。


「、わっ」


 急な奇襲にバランスを失って、ぽすんと、南方さまの胸の中に倒れる。ふわりと、三日ぶりの南方さまの匂いが広がった。


「ふふ……なんでやめちゃうかなあ」

「み、みなか、みなかたさま起きて……っ!」


 顔を上げると、ニコニコと楽しげに笑う南方さまが、まっか、とぼくの頬を包んだ。


「ひ、ひどい南方さま! お、起きたら起きたって、……言うだろ普通! ばか!」

「ええ? 言わないよ普通。あんな美味しい可愛い展開になるって分かったら」


 余裕綽々とした表情でぼくを見下ろす三日ぶりの南方さま。さっきはすこし疲れた眠りに見えたが、今はいつも通りだ。疲れが見られない。……普通だ。もう元気になったのか、神様って体力の回復が早いんだ。

 って、そうじゃなくて!


「べ、つに深い意味はないぞ!」

「そうなの?」


 こういうときの南方さまはたちが悪いし、なぜかいつもののほほんより生き生きとして楽しげだ。

 ご指摘通り真っ赤になっているだろう顔を隠したいけれど、南方さまが掴んでいるから無理だ。なにもかも南方さまが優位。


「そう! 力! 三日ぶりだから、ちか、力分けてもらおうと」

「そうなんだ」


 よかった。……とりあえず寝込みを襲おうとしたことはバレていないようだ。このままうまくごまかせそう。そんなことを思っていると、ぼくが考え込んでいる間に南方さまの両手がぼくを引っ張り上げて、そのせいで綺麗な顔がひどく近くになる。


「……っな、に」

「力は、こっちじゃないと、あげられないんだよ。雨衣」

「……っ」


 そのまま引っ張られるようにして、何日かぶりに、南方さまの唇とぼくの唇がくっつく。

 ……そんなこと知っている。だけどどうしようもないじゃんか。

 触れた唇から、温かい何かが流れ込んでくる。いつもみたいに、南方さまが力を分けてくれているのだ。ぽわんと、夏の暑さとは違う自然の温かさが胸に広がる。


「――……ン」


 あれ。


「かわいい。雨衣」


 ちょっと待て。


「……っすと、……みな――……っ」


 長い!

 いつも南方さま、力を分けたらそこで終わりなのに。今はもうポカポカでいっぱいになっているのに、キスだけが終わらない。

 いつもと、違う。

 呼吸のために唇を開いたのに、そこから南方さまの舌が入り込む。そのままぼくの口の中を探るように動く。

 頬が、一気に熱くなるのが分かった。

 これは、なんだ。


「……や、みな……ッ」


 言い知れぬ感覚に、体がぞくぞくする。キスをしながら(これは、キスなのか?)南方さまの手がぼくに触れたところが、痺れて熱くなる。力の入らない手で南方さまの肩を押すけれど、南方さまは無視する。


「ふ……っ」


 どれくらいそうしていただろうか。やっとのことで唇を放した南方さまが、ぽうっと力の入らなくなったまま倒れ込んだぼくの頭をやさしく抱きしめる。ぼくの体は完全に南方さまの上に乗り上げていたけれど、力が入らないから動かせない。だけど南方さまは、邪魔とも重いとも言わなかった。


「力、もらった?」

「……も、いらな……っ」

「それはひどいなあ。私は足りないよ、もっとしたい、雨衣」

「……っ」


 だめ?

 耳元でそうささやかれるけれど、首を横にぶんぶんと振った。無理だ、これ以上は絶対に無理だ。もう一回唇が触れたら、ぼくはきっと死ぬ。


「どうして」

「なんだか……捕食されそう……熊に」

「私だよ? ……でも、言いえて妙だね」

「へ?」

「いやこっちの話」


 いつもと違う食べるみたいなキス。

 南方さまは、乗り上げたぼくをそのままにしたまま、収まりそうにない動機をなだめるように頭を撫でてくれた。南方さまのせいだけど。


「長かったなあ……三日間」


 しみじみと呟きながら、南方さまがぼくの体を抱き込む。南方さまは大きいから、ぼくの体をすっぽりと包み込んでしまうみたいに。それがひどく安心する。


「ぼくも」


 小さな小さな声。届いてほしい、だけど届いてほしくないようなそんな声を南方さまはしっかり聞いてしまったらしい。くしゃっと、強めに大きな手がぼくの髪の毛を交ぜる。


「雨衣もさみしかった?」


 こくりと頷く。


「私もさみしかった。忙しかったし、疲れた。帰ってきたとききみが迎えてくれるかと思ったらここは空っぽで、それも寂しかったんだよ」


 南方さまも、さみしかったんだ。

 はじめてだ。南方さまが、ぼくに仕事の愚痴を言ってくるなんて。

 それがひどくうれしい。胸の中が、さっきとは違った意味で温かさを帯びていく。


「早く帰りたかった」

「ぼくも……」


 ぼく、対外、南方さまがいないとさみしがりやになるんだ。いつもは南方さまが構ってきていやがる素振りを見せながらも、ほんとうは構ってほしいなんて。どうしてこう、素直じゃないんだろう。


「え?」


 南方さまの、きょとんとした声。

 素直に――。そう言おうとすると、声はどんどん小さくなる。まるで、南方さまにしか聞こえない内緒話みたいに。


「はやく、帰ってきてほしかった。……我が儘だ」


 ……何か言ってくるかと思ったら、なにも言ってこない。南方さまが何も言わなければ沈黙が広がるわけで。


(え? え? ……なんかまずいこと言ったか?)


 そっと窺うように顔を上げると、南方さまと視線が絡まる。笑顔――かと思ったらなんとも言えない苦々しい顔をした南方さまの瞳に捕まる。

 吸い込まれそうな瞳が、怪しく、そしてすこしだけ色を帯びたような、気がした。

 南方さまの手が、ぼくを撫でる。


「困ったよ、雨衣」

「へ?」

「キスしていい?」

「え? いいいらない。……さっきので十分力もらったし」

「いやそうじゃなくて、もっとすごいやつ」

「さっきのよりすごいやつ!?」

「あと、すごいことしたくなってきた……」

「へ? すごいこと?」

「うん。いい?」

「え、それってなに?」

「いい?」

「……だめだめだめ! なんかだめ! だめ!」


夏 が く る 。


( ――ぼくと南方さまの世界は、永遠だ )

――End――

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