排水溝に流れる、温い湯。 髪から滴り落ちる水滴は、久方ぶりに浴びた浄水。 ばしゃり。 湯を浴びるたびに、冷え切っていた体に熱が戻る感覚。 先に体を拭っておいたクラウドは、ジリアンに借りた服を着せてベッドに横にした。 アンジールの、ソルジャー服。 生前、アンジールは任務の合間に、何度か里帰りしていたらしい。 制服を着て任務地以外の場所に赴くことは、軍令に違反することになる。 アンジールが軍令違反をしていたことにも驚いたけれど。 それはきっと、故郷を持たないセフィロスや、両親とあまり接触を持ちたがらなかったジェネシスに遠慮していたせいだろう。 父を早くに亡くし、一人で貧しい暮らしを続けている母に、土産物や、給与の一部を渡しに赴いていた。 その際に、家に何着か置いていった着替えの制服。 アンジールが命を落としたと、その知らせを受けてからも。 今にもドアを開いて「ただいま」と、少し照れくさそうに笑った顔が見られるのではないかと。 任務帰りで疲れた息子が風呂に入っている間に、カップを用意して。 洗濯されて折り畳まれた新しい服に着替えた彼と、一杯のコーヒーを啜りながら、談笑する。 起こり得ないことだと知っていても、信じたくなかった。 失ったものは二度とは戻らないと、知っていたのに。 するりと、アンジールの制服に腕を通す。 少し大きめの服から、ふわりと微かに洗剤の香りがした。 「……アンジール…」 あんたは、俺達の幸せを望んでくれたけど。 俺は、手に入れた幸せを守ることができなかったよ。 アンジール。 あんたの望んだ幸せな未来に、最初からあんたの姿は描かれていなかったんだろうか。 深く息を吐き、くしゃりと濡れた髪を掻き上げる。 頬を流れ落ちる滴が、まるで泣いているようで。 ふ、と自嘲の笑みがこぼれた。 アンジールは失踪した後、実家を訪ねた。 宝条に渡された、プロジェクトGのデータ・ディスク。 そこに記されていた内容は、存在すらも覆すような事実。 その真実を、確かめるために。 ジェネシスが、記憶の中にうっすらと残る少年の、コピーだということ。 ジェネシス・コピーの存在。 そして、自分自身が、父親のコピーであること。 コピーである自分の中で、ジェノバが静かに胎動を始めている。 取り込まれ始めるのは、時間の問題だろう。 けれど、ジェネシスは。 きっと、俺よりも先に。 ジェネシスが『コピー』に多く利用されたのは、その遺伝子が欠けていたから。 科学者は知的欲求を満たすために実験を行うが、会社はコストや時間に制約を加える。 アンジールがガストやジリアンが『人間を造ろう』として造られたコピーであるのに対し、ジェネシスは、あくまで『ジェノバ・プロジェクトのプロトタイプ』にしかすぎなかったのだ。 当然、会社から与えられる金や時間は限られてくる。 そうして造られたジェネシスは、後に、通常のコピーの三分の一ほどの命しかないと判明する。 けれど、それでも実験に使うには好都合だと判断されたらしい。 コピーする本体が『欠陥品』ならば、コピーも容易く作ることができるから。 ジェネシスが焦っていたのは、きっと。 残された時間の少なさに、気付いているから。 『ひとりが嫌なら、俺と来るんだ』 差し伸べられた腕の意味を理解できず、焦燥に駆られる胸に痛みを感じた。 どくん、どくん。 跳ねる心臓と、揺れる意識。 ジェネシスは、知っていた。 この体に、巣食うものを。 痛みは、なかった。 ただ、変わり果てた己の姿に愕然とした。 背から広がる、白い翼。 きれいだと、ジェネシスは笑った。 この、モンスターの証を。 その日、俺は。 持っていた夢も、抱いていた誇りも。 全てを擲ってでも、守ろうと、誓った。 「…アンジールは、自分が『コピー』だって、知ってたんですか?」 プロトタイプ・コピー。 『プロトタイプA』の、本当の意味。 「…あの子が失踪した後、私を訪ねて来た日……そう、告げました」 劣化のスピードが低下したとしても、確実に、ゆっくりと進行している体。 その自覚は、できるだけ早く。 そして、受け入れられる歳になった頃には告げようと。 思っていたのに、そのあまりに酷な事実を、どうしても口に出すことができなかった。 ようやく告げる事ができたのは、アンジールが神羅を抜けた数日後のこと。 渡された一枚の白い羽根は、我が子の中でジェノバが目覚め始めた証拠。 宝条に知らされた事実を、真実であると受け入れるために。 アンジールは、母の口から、真を望んだ。 『やはり、そうなんだな……いくら母さんが元々神羅の科学者だったとしても、他に何の理由もなしに、ただジェネシスの我儘について行っただけの俺が、実験に参加なんてできるわけがなかったんだ』 告げた事実に、苦笑混じりに答えた我が子。 緩やかに、けれど確実に、綻びはじめる体。 受け入れる術を、アンジールは知っていた。 「あの子の体に異変が起きたのは、ジェネシスが失踪した直後からです」 ジェネシスが失踪した直後から感じ始めた、体の違和感。 ふと、体が自分のものではないような感覚に襲われる。 自分ではない誰かが、体の中に居る感覚。 それこそが『ジェノバ』との同化の始まりだったとは、その時はわからなかった。 ジェネシスがウータイで失踪した時の、記憶。 血濡れた漆黒の翼、吐き出された膿。 暴走したジェノバ。 命の気配すらも絶たれた荒野。 ジェノバとの融合を拒絶し続ける体。 臨界点を迎えた体は、ジェノバの暴走を引き起こした。 すべての引き金は、創世の名の元に。 セフィロスの見た悪夢。 アンジールを蝕む片翼。 狂気に歪んだ瞳。 浸食される理性。 すべて、あの日から。 あの日から、始まったんだ。 「ジェネシスが…『ジェノバ』が暴走した日から、アンジールの体に異変が起こり始めたのです」 仮死状態にあったジェノバの、覚醒。 ジェネシスの体内で起きた暴走に、共鳴するように。 目覚めはじめたジェノバは、その細胞を持つものに、確実に影響を与え始めた。 アンジールは、早くから自らの体に巣くうそれに気づいていた。 体を蝕むジェノバに、思い通りに動かなくなる体。 やがては、完全に同一となり。 『アンジール・ヒューレー』という個はなくなる。 それは、アンジールだけに限ったことではなく。 『ジェノバの子』セフィロスにも、浸食が始まっていた。 ザックスを手に掛ける夢を見た、その日から。 ゆっくりと、確実に。 『セフィロス』の意識は、ジェノバとの同化を始めていた。 「通常のソルジャーにも、微量のジェノバが埋め込まれています……そちらの彼に投与されたのも、おそらくソルジャーと同じ量でしょう」 「…通常の、ソルジャー?」 「……セフィロスやジェネシスは、生まれる前からジェノバ細胞を持ち、同一化していました… …アンジール達『プロトタイプ』は、後天的に大量の細胞を植え付けられたのです」 通常のソルジャーへの投与量程度ならば、拒絶反応の有無はあれど、ジェノバの覚醒に影響は受けにくい。 そして、初期2NDのソルジャー達よりも現在のソルジャー達の方が、より少ない投与のため、影響は皆無に等しい。 だが、大量の投与により、ジェノバへの耐性の低い者は、体のどこかに必ず異変が現れる。 ジェネシスは体の劣化を止められず、ウェルノは声を失い、ケビンは成長を阻害された。 だが、セフィロスやアンジールのように、ジェノバ細胞を受け入れられる『器』は。 目覚めたジェノバの手足として、マリオネットのように四肢を縛り付けられて。 「…ニブルヘイムでセフィロスがおかしくなったのも…そのせい、なのか…?」 誰よりも優しかったセフィロス。 幼い頃から、擦り減らされた精神の糸。 剥き出しの傷だらけの心がただひとつ持っていたモノは、無情にもその心を引き裂く刀で。 神羅のために、刀を振るう。 それだけを存在理由として、セフィロスは生かされていた。 触れる、優しい指。 色素を持たない白い肌に、僅かに差した紅。 すべてが、愛しかった。 「…ニブルヘイムに近づくにつれて、セフィロスの様子がおかしくなったんだ」 思い悩むような表情。 寂しげな笑顔。 魔晄のにおいの立ちこめる村。 死者の通る山の奥。 そこにいたのは、変わり果てた姿の、ジェネシス・コピー。 モンスターと化し、外気に触れたと同時に、命を落とし。 壁に掲げられた、ジェノバの名。 扉の奥に隠された、青白い不気味な肢体。 一人にしてくれ。 「…ジェノバが影響したことは、間違いないでしょう」 ジリアンの言葉に、きつく唇を噛み締める。 ジェノバ。 あんなものさえなければ。 セフィロスが壊れてしまうことはなかった。 けれど。 ジェノバがなければ、セフィロスは、生き延びる事すらできなかった。 白色個体。 日の光は肌を焼き、瞳から一瞬で光を奪う。 例えば、ジェノバがなければ。 生まれることもなかったかもしれない命。 その現実が、ひどく辛い。 「俺……守れなかったんだ…セフィロスを、守れなかった…」 いつか必ず、ほころびが生じるというのなら。 それを繋ぎ止めるのが、俺の役目だったのに。 「アンジールに、セフィロスのこと…守って、って…約束したのに…」 声が、震える。 情けない。 零れた涙。 違うんだ。 泣きたくない。 これ以上、弱くなりたくない。 誰も、守れなくなってしまう。 何もかも、失ってしまう。 「俺はっ…約束、ひとつも……守れなか、た……ッ…!」 弱みなんて、誰にも見せたくない。 なのに、どうして。 どうして、泣いているんだろう。 「……ザックスさん」 呼ぶ声は、ひどく冷静で。 肩に掛かる濡れたタオルが、やけに重く感じる。 「誰も、あなたを責めることはしませんよ…あの子だって、きっと」 濡れた髪を撫でる、優しい感覚。 苛み続ける罪の意識を、そっと肩から下ろしてくれるような。 優しい、母の手。 「アンジールはね、いつも帰ってくると、皆の話をしてくれました」 「ジリアンさん…?」 「…あの子がいなくなる、一年位前からかしら……あなたが、ソルジャーになったのは」 『随分と子供らしいソルジャーが入ってな』 苦笑混じりに、相変わらず具の少ないスープを啜りながら、話す声。 『あら、セフィロスくんやジェネシスくんよりも子供っぽいのかしら?』 『…あいつらよりは、何百倍も素直な奴だ』 『ふふ。でも、楽しそうで何よりよ』 思い出す会話は、親子で居られた頃のもの。 「アンジールは世話焼きだったでしょう?…あなたと過ごす時間は、きっと楽しかったんでしょうね」 子犬のザックス。 そう呼ばれているソルジャーの話。 あまり仕事の話をしたがらないアンジールが、彼との任務の話だけは楽しそうにしていたから。 よく、覚えている。 「…あの子も、あなたも……あれだけの実験を受けたのなら…確かに、人とは違う体になってしまった。でも」 白いハンカチで、そっと頬に流れる涙を拭い。 ジリアンは、微笑んだ。 「あなたは、人間です」 誇りを失わない限りは。 夢を諦めない限りは。 偶像ではなく、はっきりと掴み取ろうという意志の元に描かれた夢と。 誰に踏み躙られようと、決して汚れることのない、強く気高い誇りを。 胸に抱くことができるのは、それこそが人間の証。 「あなたが誰かを守りたいと、そう願い続ける限り…あなたは、誰よりも強くなれる」 生き延びようと願う意志。 失った、奪われた悲しみ。 幸せな記憶。 忘れ得ぬ愛しさ。 そのすべてを、忘れない限りは。 「……ありがとう、ございます」 人でありたい。 人間になりたい。 その願いの先に、隠れる叫び。 『生きていても、いいの?』 ソルジャーは皆、モンスターと同じ。 失敗作。 劣化していくコピー。 存在に疑問を抱いたのは、いつだろうか。 その疑問が、彼らのそれと同じものだと気付いたのは、いつだろうか。 ただ、認められたかった。 人間だと、そう言ってほしかった。 愛する人を守れずに、ただひたすらに傷つけることしか出来なかった俺に。 生きていてもいいんだと。 そう、思いたかったんだ。 「ジェネシス」 紙切れを握りしめ、幼なじみの名を呼ぶ。 ニブル山の西、山に囲まれた湖のほとり。 主を亡くした小屋の中に、転がる肢体。 何十体もの、コピーに囲まれて。 「…不気味だろ?同じ顔をした奴を見ると死が近いと言うが、世の中にこんなにも沢山ドッペルゲンガーが居たとしたら、今頃誰も生きてはいないだろうな」 軽口を交えながら、薄暗い小屋の中、テーブルの上に置かれた薬のシートを手探りで掴む。 視力が弱っているのだろうか。 「ジェネシス…お前の目的は、何だ?」 「ソルジャー全ての殺害、といえば、お前はどうする?」 「…お前を殺してでも、止めてみせる」 「だが」 ゆっくりと立ち上がり、転がるコピー達の中、歩を進める。 両手を広げ、薄汚れた天井を見上げたジェネシスの表情は、見えない。 「俺がしようとしてることは、圧倒的に正しい。…お前も、わかってるだろ?」 すう、と下ろされた腕。 掌からこぼれ落ちた、シート。 「女神は、目覚めてしまった」 早鐘を打ち続ける心臓。 浸食に耐えきれず、体が壊れてしまうのは、そう遠くない未来。 ジェノバという生物は、この世に在ってはいけないもの。 古の詩に語り継がれた伝承。 女神の贈り物を求め、旅立ってしまった。 もう、戻ることはできない。 俺が演じるのは、『親友』を深淵へと導く、女神の使者。 女神を呼び覚まし、その手足となり。 やがて、命を落とすもの。 「…俺は、英雄になりたかった」 親友を、手に掛けることとなろうとも。 「…ジェネシス」 「俺がお前を深淵に引きずり込んだとしたのなら、やはり『英雄』はセフィロスが演じるんだろうな」 「ジェネシス、俺は」 伸ばした腕を、躊躇ったように引くジェネシス。 アンジールは何度か首を振って、その手を握る。 「俺は、『親友』にはなれないさ」 「……わかってる……だから、俺はせめて」 震える拳。 冷え切った指。 強く握れば、らしくない弱い笑みを浮かべた。 「…せめて、女神の意志に逆らいたいんだ」 ジェノバ細胞を持つ者を攻撃することも。 ジェノバの意志のままに、『親友』を深淵へと誘うことも。 決して、女神の思い通りにさせてなるものか。 「…頼むよ、相棒」 微笑った顔は、どこか泣きそうで。 同じ顔のコピー達の、空虚な眸。 本体であるジェネシスの、意志を読み取っているのだろうか。 頬を伝い流れた涙が、ひどく残酷に思えた。 「もう、行くの?」 月が天頂に昇る頃。 荷物をまとめ始めたザックスに、ジリアンは声を掛ける。 「…あまり長く居ると、ジリアンさんにも迷惑かけちゃうからさ」 シスネの手引きがあった村だ。 もし情報が漏れれば、ザックスだけでなく、ジリアンにも危険が及ぶ可能性は充分にある。 実験について、もっとたくさんの事を聞きたかった。 けれど、一番聞きたかった言葉は、もう聞けたから。 「お世話になりました」 日が沈む少し前から、しばらくぶりにゆっくりと眠った。 死んだように眠る、とは、きっとあのような状態なのだろう。 窓から差し込む月明かりが、瞼を照らす中。 目を覚ましたのは、腕の中で眠るクラウドが、寝心地が悪そうに寝返りを打ったから。 用意されていた夕食はすっかり冷えてしまっていて。 それでも、久方ぶりの料理は、これまでに食べた中で一番美味しいものに感じられた。 ザックスが風呂に入っている間に、ジリアンはクラウドに食事を与えていた。 流石は医者といったところか、咀嚼と嚥下を促す術をよく心得ている様子だった。 いつものようにクラウドを抱いて、眠る夜。 ここ数日の間は、ずっとそうだ。 敵に襲われたとき、守ることができるように。 冬の森の中、凍えてしまわないように。 身を寄せ合って、孤独に押し潰されないように。 「本当に、ありがとうございました。服ももらっちゃって」 「いいんですよ。もう、着る人が居ないんですもの」 「……ジリアンさん」 洗濯されて、ほとんど乾いているソルジャー服を、ジリアンは手際良く鞄に詰め込む。 その中に、嵩張らない食料や地図などを忍ばせて。 「その……どうして、俺に、そんなによくしてくれるんだ?」 アンジールとの約束を守れなかった俺に。 そう言うザックスに、ジリアンは何度か首を振って。 「…あなたが、あの子の大事な人だったから、ですよ」 くすくすと笑うジリアン。 その様子は、どこかアンジールに似ていて。 深く、頭を下げた。 「俺、絶対に生き延びます……絶対に、アンジールの分も、生きてみせます」 強い口調。 強い意志。 視線の先に映るのは、遠く離れた魔晄都市。 約束がなくても、待っていてくれる人がいるならば。 約束をした人は、待っていてくれるだろうか。 まだ眠っているクラウドを抱え、扉を開ける。 背負った剣は、受け継いだ誇り。 澄んだ空気の中、きらきらと輝く星空。 願いを掛けることは、しなかった。 見上げた月は、冴えて。 目を射る僅かな光に、小さな痛みを伴った。 いつか、大切なものが出来たとき。 それを守るために振るう剣。 託された青年は、真の英雄となるのだろうか。 古の詩に詠まれた英雄の名は、死して初めて馳せるもの。 願わくば、彼が英雄とならないことを。 彼が、舞台を降りることがないよう。 無力な私は、彼の背を見送り。 ただ願い続けることしか、できない。 詩人とは、人生の最期に。 その全てを、ひとつの詩に著すのだという。 ならば、いずれ彼の詠う詩は、何を謳ったものであるのだろう。 創世の名の元に記される詩は、誰を謳ったものであるのだろう。 せめて、望むのは。 彼が、親友たり得ぬことを。 【65:Un ange et la Création】 [グループ][ナビ] [HPリング] [管理] |