黴臭い階段を登る。 一歩一歩を踏み締めながら、自由へ近づく。 意識のないクラウドを背負い、扉を開く。 窓から覗く世界は、昏く、けれど月の光に照らされている。 ニブルの山に差す月影。 眺めて、そっと髪を撫でた。 「な、クラウド…見ろよ、月…」 また見る事なんて、叶わないとさえ思った。 その外の風景が、目に染みるようで。 「きれいだな…なに、大丈夫だ。これからは毎晩、好きなときに見れるんだ」 抱えた鞄に詰め込まれた資料。 ほんの少しの金と、食料。 部屋の扉を開き、ゆっくりと階段を降りる。 誰も居ない屋敷。 研究を終えて、使われなくなったのかもしれない。 ゆっくりと扉を開いて、愕然とした。 「……な…」 有り得ない。 だってあの日。 村は、完全に焼け落ちたはず。 なのに、そこに広がるのは、『ニブルヘイム』に違いない町並み。 どこか、違和感はあるけれど。 何か蠢くような気配がして、ザックスは振り返る。 屋敷を囲う塀の縁。 黒い布を纏った男が、蹲っていた。 「…りゆ、ニオン」 手の甲に彫られた青刺。 ナンバー『5』。 頬にある掻き毟ったような傷跡や、魔晄の色に染まった目から、彼もまた実験に使われた村人なのだと知る。 なら、ここは。 神羅の手によって、セフィロスの起こした事件の隠蔽のために造り出されたニブルヘイム。 造られた、偽物の村。 「…行こう、クラウド」 俺たちは、自由になるんだ。 「…外の空気なんて久しぶりだな。クラウド、心配すんな。絶対、逃げきってみせる……誰も俺達のことを知らないところで、ゆっくりしような」 村の外に出ると、まず北側の山脈方面に向かう。 山の中なら、闇に紛れ込んで逃げることができるだろうから。 夜目の利くソルジャーの体を、改めて便利だと思う。 「…山地に入るまで、静かにしてなきゃな」 もし車に追い付かれたら、『今のこの体の状態』を知らない自分達では、何が起きるかわからない。 例えば、ソルジャーの戦闘力を失っていたとしたら、見つかった瞬間に殺されるか、連れ戻されるかのどちらかだ。 だが、例えば、強大な力を手に入れていたとしたら。 ジェネシスの、ジェノバの暴走のような惨劇を、起こさないとは言いきれない。 今はただ、静かに。 山に入ったら、一度クラウドを休ませよう。 幸い、鞄の中には旧型の無線機が入っていた。 これなら、位置を悟られずに、軍の無線を傍受することができる。 軍が動きだすまでに、どれだけの距離を稼げるか。 どれだけ、この体に施された実験を知ることができるか。 それが、最も優先すべきこと。 深く息を吐き、一度、クラウドを背負い直した。 「サンプルの…逃走?」 西大陸で別任務に当たっていたロッドに、入った連絡。 『あぁ、ニブルヘイムの神羅屋敷からだ……博士からの連絡によると、逃走したのは、二名の成人男子。魔晄照射の影響で、虹彩に色素の沈着がある。情報が入り次第、追って連絡する』 「…リョウカイ」 『近くで任務に当たっているシスネにも連絡は入れてある。また、ミッドガルからレノ達も向かわせている。決して無理をするな』 ツォンの重い声に、了解、と返して通話を切る。 タークスだけでなく軍が出動するほどに、重要なサンプルなのか。 それとも、何か別に理由があるのだろうか。 「…ニブルヘイム、か…」 四年前の、忌々しい記憶。 ちりちりと腹の傷跡が痛む感覚。 サンプルは、『村人』。 出来るならば、生かして捕らえたい。 それは、彼らの望むものではないかもしれないけれど。 「俺、全然成長できてないな…」 小さく溜息を吐いて。 ロッドは、ぎゅっと拳を握った。 森の中に入り、見つけた岩陰に身を潜める。 マテリア無しに魔法が使えるほど、『ジェネシス』に近づいたわけではないらしい。 あの強大な魔力は、おそらくジェノバの影響。 初めて聞いたあの詠唱。 同じ魔法で、セフィロスはニブルヘイムの屋根を焼き飛ばしていた。 クラウドを横にし、ザックスは鞄の中からライターを取り出す。 まだ眠ったままのクラウドは、一向に目を覚ます気配がない。 実験の影響で、極端に体力が低下しているのかもしれない。 軍が動きだすまで、休ませてやろう。 ひとり頷き、無線の電源を入れた。 気絶した科学者は、縛り上げて地下に転がしてある。 奴が見つかるまでは、脱走はばれないだろう。 それまでに、出来る限り、資料を読んでしまおう。 人ではなくなってしまったこの体を、知るのは恐いけれど。 ライターの薄明かりを頼りに、『セフィロス・コピー計画実験結果簡易報告』と記されたレポートをぱらりと捲った。 『サンプルA:コードZ ナンバリング−なし 『サンプルB:コードC ナンバリング−なし そこまで目を通して、唾を飲む。 魔晄中毒? クラウドが? 振り返れば、まだ意識を取り戻さない、クラウド。 「…なぁ、クラウド…起きろよ」 目を醒まして。 どうしてこんな所に居るんだと、聞いて。 ゆさゆさと体を揺すれば、ゆっくりと、開かれた瞼。 安堵して、息を吐いた瞬間。 「…ぅ……ぁ…」 だらしなく開いた唇から、漏れた声。 虚ろな瞳に、生気は無く。 「クラウド!なぁ!」 体を揺らして、それでも合わない焦点。 『重度の魔晄中毒』。 冒された、クラウド。 「……クラウド」 『魔晄を浴びると、壊れちゃう人も、いるんだって』 憂うような声は、擦れ始めた記憶の中に。 壊れてしまった。 クラウドが。 「…大丈夫、俺がついてるから……いい医者、見つけて、治してもらおうな」 くしゃりと髪を撫でても、反応を示さない。 大丈夫、声は届いてる。 ただ、クラウドはそれを表現できないだけ。 そう、自分に言い聞かせる。 クラウドは、戻ってくる。 だって、生きてるんだ。 絶対に、戻ってくる。 また、笑い合える。 生きてさえいれば、きっと。 『――…て、午前2…―…逃亡。サンプル二名―………』 ノイズ混じりに響く声。 逃亡に、気付かれた。 「案外早かったな…」 呟き、ザックスは広げた資料をまとめて鞄に詰め込む。 ライターの火を消し、無線機を耳に押しつけた。 『――り返す!逃亡したサンプルは二名の成人男子、生死は問わん、必ず捕らえよ!』 ち、と舌打ちすると、ザックスはもう一度、くしゃりとクラウドの頭を撫でた。 「悪いな、もう出発だ。大丈夫だよ、俺、いちおうソルジャーなんだからな」 『元』だけど、と苦笑するけれど、返事はない。 大丈夫なんて、自分に言い聞かせたいためだけの言葉。 クラウドに肩を貸して、立ち上がる。 利き手さえ空いていれば、神羅兵に見つかったとしても、どうにでも対処できる。 問題は、タークスだ。 こういった任務は、大量破壊型の戦闘をするソルジャーには向かないから、初期段階で彼らが出ることはないだろう。 だから、隠密行動向きのタークスが、この任務にあたることになる。 「…会いたく、ないな」 ぽつりと呟いて、鞄を拾い上げた。 「ツォンさん、着いたぜ」 『ターゲットはその森に逃げ込んでいると思われる…発見次第、捕獲しろ』 「…リョウカイ」 『軍も動いている、用心しろよ』 ツォンの声に返事をし、ロッドは溜息を吐いた。 気の乗らない任務だ。 今まで別任務にあたっていたシスネも、もうすぐ来るという。 軍に見つかれば、射殺される可能性が高い。 最近、タークスと軍の間にある確執。 対抗意識があるのだろう、タークスよりも先に手柄を取ろうと躍起になっているのだ。 (タークスが動いてることがばれるとまずいな) ロッドは武器を握り、歩き出す。 月明かりも僅かにしか差し込まない、深い森の中。 ちかちかと光るライトに、身を潜めた。 「ここにもいない…本当に研究サンプルはこの森に逃げ込んでんのか?」 「タークスもこの森に向かっているらしい」 「だったら間違いないな」 「ここで手柄を上げれば軍の地位が上がる。研究サンプルはタークスなんかに渡すわけにはいかない」 「何としても俺たちがサンプルを見つけるぞ」 「あぁ、こっちは人数が多いんだ。この辺りは全て捜索中だ…負けるわけがない」 人数は複数。 会話の内容から察するに、『赤服』はいないようだ。 捜索範囲が広がれば、それだけ軍の手にかかる可能性が高まる。 (あの時…俺は、村人たちを助けたつもりだった) けれど、生き残った彼等は実験台として扱われ。 (俺は、被害者を研究室へ運ぶのを拒否した) 今こうして『サンプル』を捕らえようとしている自分。 あの日の自分とは、真逆の行動。 (…俺はまた、自由を奪うことになるのか) 生きるため、罪悪感すら感じずに汚い事をしてきた。 それは、他に術を持たない子供だったから。 なのに、今は。 手に入れた居場所のため、保身のために得物を振るう。 正しい事じゃないと、知っていても。 引きずるような足取り。 川に抜ける道。 普通の人間なら、バギーでもない限り追って来れないだろう。 「クラウド、聞こえるか?あの川、渡るからな」 僅かに水の音が耳に入り、ザックスはクラウドに声を掛ける。 「…とりあえず、逃げるにはメシが要るよな…野生の動物の肉ってさ、臭くてカレー粉まぶさないと食えたもんじゃないんだぜ」 食料を調達するのにも、金が必要。 手持ちの金銭は、一切れのパンを買うくらいしかできないほどに少なく。 「一回、村に寄るかな…」 『逃走したサンプル』との接触があったとしたら、神羅と関係の無い一般人でも、容赦なく尋問にかけられるだろう。 まして、肉親であったのなら。 けれど、頼ることのできる人なんて、他に誰もいない。 ミッドガルで出来た友達。 レノ。 ロッド。 ツォン。 エレーヌ。 シスネ。 エアリス。 ――セフィロス。 神羅の人間である以上、タークスの人間は皆、敵であると見做すべきだろう。 エアリスは神羅に監視されて生活している。 …セフィロスは、もう。 「……やっぱし…俺、ついてないなぁ」 大切な人はみんな、居なくなってしまう。 離れていってしまう。 まだ、耳の奥で残っているんだ。 『俺は、どこにも行かないさ』 守られなかった約束が。 「クラウド…一旦、ゴンガガに寄ろうぜ。一人二人、軍のやつらを伸してさ、マスクとか制服とか頂戴して、『神羅兵です、魔晄炉の調査に来ました』って言って村に入るんだ。んで、父ちゃんと母ちゃんに『出世払いで返す』ってさ、ちょこっと借金して……どう?ダメ?」 わざとらしいくらいに陽気な声。 そんな子供じみた計画が上手くいくとは、最初から思ってなんかいない。 ただ、なんとなく。 なんとなく、親の顔が見たくなっただけ。 これから逃亡生活を続けるなら、きっと二度とまみえることはできないだろうから。 マスクで顔を隠して、調査と偽って。 金は、襲ってきた神羅兵から失敬するしか、今は方法がないだろう。 「…カミサマってのに怒られると思う?でもさ、人のこと銃でバンバン撃ってきたんだったら、おあいこだよな」 答えが返ってくることはないけれど、それでも話し続ける。 馬鹿みたいな話ばかりを。 それで、少しでもクラウドに届けばいい。 少しでも、クラウドが戻ってこればいい。 「…行こうぜ、クラウド。大丈夫、大丈夫だからな」 『大丈夫』。 普段、あまり使わない言葉だけど。 何度も何度も連呼する。 クラウドを安堵させるために。 何よりも、自分自身を勇気付けるために。 あんたが側に居たときは、何も恐くなかったんだ。 夜の闇も、陽の当たる戦場も。 何もかもが、輝いてすら見えた。 なのに、俺はどうして弱くなった? こんなにも、弱く。 少しだけぬかるんだ土は、数日前に雨の降った証。 増水している川なら、追っ手を振りきり易いだろう。 急いで渡らなければ。 踏み締めた地面に、靴が沈んだ。 あなたは一番幸せだった。 至上の幸福を感じられる瞬間が、確かに存在したから。 あなたは一番不幸だった。 手に入れた幸せを奪われることが、生まれた時から決まっていたから。 【61:Il va bien】 [グループ][ナビ] [HPリング] [管理] |