音也の掛け声で、店内は暗くなったかと思うと、店内がざわざわとした。
他の客が戸惑いながらも、少し楽しそうに「何だろう?」と口にしている。
小さい頃、この光景をトキヤは目にした事があった。
それを、再び目にするとは思わなかった。
音也が二十歳を過ぎ、飲酒解禁となった記念に、ふらりと訪れた居酒屋で。
「ハッピバースディ、トゥーユー」
音也が繰り返したメロディは、誰もが聞き馴染みのあるもので、トキヤは一瞬にして、自身が生まれた事を祝福されていると肌で感じられた。
店員達の手拍子と揃えた歌声に、他のお客までが声を乗せて、歩み寄ってくる店員の手には5号のホールケーキがある。
真っ白な生クリームには赤い苺が埋め込まれて、歳の数だけの立つロウソクの火が揺らめいていた。
「ハッピバースディ、ディア、トキヤー……ハッピバースディ、トゥーユー」
クラッカーの音と同時に、店員と音也の祝福をする声が重なった。
明るくなる店内と、満面の笑みを浮かべて急かす音也に、トキヤは驚きに丸くした目を細め、口の端を歪めた。
「あぁ……ありがとう。音也」
急かされて吹き掛けた息で、歳の数だけの灯かりは煙を昇らせて消えていった。
トキヤの目尻が赤くなっている。
「全部は食べきれないと思いますが、頂きます」
合わせた掌からはみ出るケーキを見降ろして、呟くように返された言葉に、音也は喉でからからと笑った。
「今日くらい、食べたって肥らないよ!」
都合の好い事を口にする音也にトキヤは笑いを誘われて、ひと思いに吹き出した。
マンションの部屋の前で、音也とトキヤは手を振り合った。
「今日はありがとうございました」
「此方こそ。一緒に祝えて、嬉しかった。来年もまた祝わせてね」
「はい」
「それじゃあ……」
「おやすみなさい」
音也は鍵の空いた部屋へ帰って行った。
居酒屋を出て、すぐに拾ったタクシーで、マンションの最寄りのコンビニで買
った酒とツマミを手にしていた。
飲み足りないらしいので、飲み直すらしい。
彼の口から、トキヤは翌日がオフだと聞いていたし、誕生日のサプライズをして貰ったのでとやかく言う気持ちもなかった。
色々な人から貰った誕生日プレゼントを抱えて、自分の住む部屋へ入った。
昼間は夏らしいからりとした暑さだったが、夜になると茹だる様な暑さに変わっている。
室内の熱気に、思わずトキヤは眉を下げた。
一日不在にする時には、窓を閉め切って出掛けるので、風もなく暑さが外へ逃げる事もない。
「早く空調を調節しないと」
結局、食べきれずに持ち帰ったホールケーキの腐食を気にして、抱えていたプレゼントの袋と一緒に冷蔵庫へ真っ先に向かう。
トキヤの頬や手足を掠める冷蔵庫の冷気が、瞬く間に生ぬるい空気に変わっていっている。
ケーキの包装箱をすぐにしまい、それからプレゼントの中身を確認していると、玄関扉からノックの音がした。
「トキヤ、まだ起きてる?」
「叫ぶんじゃありません。何時だと思っているんですか」
今さっき別れたばかりの、ま伸びた声に、トキヤはにやけていた。
結局こうなるのだ、と言わんばかりだった。
「開いていますから、入って来て下さい」
音也の目に触れる前に、弛緩した頬を元通りにする事などトキヤには造作もなかった。
促しの返事は語気を強めて、嗜めている。
もう時刻は11時50分を回っていた。
防音仕様の壁とは言えども、騒いで良い時間帯ではない。
室内に入る音也は、ひたひたと足を鳴らしていた。
フローリングに肌が付いては離れ、また付いて、お喋りな彼が居る空間は賑やかになる。
エアコンの低音の起動音だけが支配していたと言うのに。
トキヤには、世界が明るくなった気がした。
「あと10分だけだね。トキヤの誕生日」
「歳が増えただけで、またすぐ来年が来ますよ」
リビングへ戻ったトキヤが、盆に乗せた二人分のコップを背が低いテーブルに置いた。
先にソファへ腰掛けた音也は、深く背を凭れてコップを手にした。
中の液体は濃い小麦色でウーロン茶だった。
アルコール摂取後に利尿作用があり体調を整えるので、きっと沢山呑んでいる音也を気遣ってのものだろう。
ぐいっと一気に飲み干して、音也は言った。
「全然すぐじゃないよ。あと365日もある!」
「それもそうですね」
至極冷静に相槌を打ちながらトキヤは、深紅の双眸を横目で覗き窺った。
部屋に掛けてあるカレンダーを見つめている彼は、ひどく眠たげだ。
何しろ、瞼は降りて持ち上がってを繰り返している。
ついでに、並んでいた肩は接して体重が寄り掛かってくるのだ。
トキヤは、寝室へ案内するか、部屋から追い出すか迷いながらウーロン茶を飲んだ。
コップは氷が溶け始めて、硝子の表面に結露が浮かんできていて冷たいが、液体は程良く冷えている。
室内はいつの間にか涼しく、快適な環境なせいか、規則正しい生活のしみついた身体は確実に疲れを訴えていた。
トキヤが小さく欠伸をすると、音也はじゃり、っと空のコップに残っていた氷を奥歯で噛んだ。
「来年も一緒に過ごそうよ!」
「それ、さっきも聞きましたけど」
「俺は真面目に言ってるんだよ」
さては聞いていないな、と、自分の眠気を棚に上げて欠伸を咎める恋人に、トキヤは目を白黒させた。
瞼は開いてはいるが、話す内容は支離滅裂そのものなのだ。
音也は既に、夢の国へ旅立っているのではないか。
トキヤは思い至ると、いよいよ決心がつき、ソファから立ち上がった。
「わかりました。真面目に聞いてますから。さあ、ベッドへ行きましょう」
体躯を支えるものがなくなり、ソファに転がり倒れてしまいそうになる音也の腕を掴んで、言った。
トキヤの口元に浮かぶ笑みは、もう1分とない誕生日の終わりに満足しているようだ。
「一緒に寝てくれる?」
「仕方ないですね。ほら、足元気を付けて」
「うん……ありがと」
時計の長針は12時の方向へ動いた。
8月7日が訪れて、次の約束の誕生日まで、あと364日。