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   私の音楽の世界への憧れを夢という形にさせた独唱会は、世田谷の閑静な住宅街にある、コンサート・リサイタルホールで、会場は地下にあるところで行われました。
 まだ7歳だった私は、福岡から飛行機で母に連れられてきたばかりで非常に緊張していたのを覚えています。

  公演時間となり、80人ほど収容された会場の電気が消え、観客たちが静まり返る中、ステージの中心に当たるスポットライト。
 そこには、一人の煌びやかな衣装を纏った男性が立っていました。

  彼が音を発した瞬間に、私は身体中に風が通り抜けたような、電撃が走りました。
 透明さ際立つ無伴奏で響く歌声は、色香纏っており、最初から最後まで魅了されっぱなしでした。

  公演が終わると私は母と感想を交わして余韻に浸りながら、宿泊するホテルのチェックインの時間まで買い物をしていました。
 デパートの入り口まで歩いたとき、突然入り込む人の波にのまれ、母と繋いでいた手が外れ――はぐれてしまったのです。

  波が私を押し遣り、名を呼ぶ母の声が段々遠のいていきました。
 私はその場に居ることも許されず、流され付いた先は見たことのないところでした。

  幸い、私は買い物をしていたデパ−トを覚えていたので、建物を目指して波を避けながら近づきました。
 それから母を呼んではその姿を行きかう人の中から探しましたが、何せ人の多いことから、母を見つけるのは難しかった。

  当時の私は携帯電話を持っていませんでしたし、子供ながらにどうしようと途方に暮れたのを覚えています。

  やがて白んでいた空に黒い翳りが見え、雨雲が空を覆いました。
 今朝の天気予報では降らないと聞いていたのに、と隣に立っていた女性がぼやいて、胸に乳幼児を抱えて走っていくのを見ました。

  すぐさま酷いどしゃぶりが地面を叩きました。
 大粒の雨に叩かれて肩や頭が痛いので、近場のお店の屋根の下へ潜りこみ、私は身を縮めました。
  ――長袖のシャツをもっと長くして指先まで隠しましたね。

  聴こえるのは大雨の音ばかりで、母の姿もありません。
 不安がだんだんと胸に広がっていくなか、私は“彼”に出会ったのです。



 「きみ、ひとりぼっちなの?」

  声をかけられて顔を上げると、赤い傘を差し、赤い長靴の男の子がこちらを見ていました。
 確か、私より少し身長が低めだったでしょうか。
  その頃の私は知らない人に声をかけられても、返事をしないようにとの母の言い聞かされていたので黙っていました。

 「ねぇってば」
 「……」
 「もしかしてきこえない?」
 
 しつこくじっと私を見つめて、彼はまた一歩私に近づきます。

 「な、何……?」
 「なんだ! きこえてるじゃん」

 彼は笑って上着のポケットを探ったかと思うと、個包装されたお菓子を差し出してきました。

 「おなかすいてない? これたべなよ。あまくておいしいよ」

 彼の優しい言葉と共に向けられた笑顔。
 たったそれだけのことだったのに、心細かった私は募っていた不安が爆発して――堰をきったように泣きました。

 「お母さんとはぐれちゃったんだね」
 「うっ、ひっく……うん」


  私はそれまで九州を移動することがあっても、東北にあまり来ることがありませんでした。
 都会の子供と話す機会がなかったので、どんな話題をしていいのかと困っていたのですが、きっと彼にはそういう思いがなかったんですね。
 彼だって初対面なのに、とても沢山話をしてくれました。

 「きみ、どこかれんらくできるところは?」
 「ん、そういえば……泊まるホテルのばんごうをお母さんがかいてくれてた」 

  私はショルダーバッグからメモを探しました。
 少々ではありますが、母にお金も持たされていましたので、二人で公衆電話を探しました。
 
 「あったよ!」
 「でも、ジュワキにたかくてとどかない」
 「おれがおんぶしてあげるよ!」
 「えっ、いや、その……」
 「ほら。せなかにさぁ、のって」

  私は困惑しながらも彼に言われるまま、自分よりも小さい背中に跨りました。
 視野がぐんと持ち上げられて、向き合った機械に10円を投下して、メモに書かれたダイヤルを回しました。

  当時の私には、受話器はとても重く感じましたが、きっと私のお尻を肩で支えてくれている彼のほうがもっと重かった筈でしょうね。


 「ホテルのひと、お母さんにれんらくをしてくれるそうです。ありがとうございます」
 「よかったね!」

  降りてからすぐに彼から手を繋がれました。
 恥ずかしい話ですが、私は小さいころ、身体を触れ合って遊ぶような親しい友達が居なかったので、すごくドキドキしていました。

  此処で待っていればそのうち、母が迎えに来てくれるし、と思ったのでしょうか。
 私は彼に、“家に帰らなくていいのか”と聞きます。

  すると彼は少し笑って――今思えば、どこかさみしそうに――こう提案したのです。
 
 「どれくらいでお母さんがこれるのかわからないし、いっしょにいよう。おれ、イイとこしってるんだ。ついておいでよ!」

  最初は私も申し出を断ったのですが、早く早くと急かされて押し切られてしまいました。
 なんだかんだ、母を待つ間に繋いでいた手を離すのが惜しく感じていたのかもしれません。
 私は彼の傘に並んで入り、手を引かれながら、公衆電話が見える近くの公園へ行きました。

 「ほら、こっちこっち!」

  彼に教えられた公園は、子供だけでなく、大人も入ってしまえるような大きな土管がありました。
 子どもたちはその空洞で雨を凌いでいたのでしょう。
 ちょっと足場が汚れていたのですが、暗くて狭いところは何となく秘密を共有している気持ちになるというか。
 入っている間にお互いの声が響くのを、彼も私も楽しんでいたと思います。

  そのときには靴先がすっかり水が染みて汚れていたのですが、不思議と不快感がなかったのはきっと彼と一緒にいたお陰でした。
 二人で話すのは本当に楽しくて、ずっと笑いが堪えませんでした。

  今日私が母と観たリサイタルコンサートで感動したことを話しました。
 彼は大きくなったら歌いたい、と夢を語り合ってくれました。
 もしかしたら今頃、彼も音楽の仕事についているかも知れませんね。
 
  しかしその時間は永遠ではありません。
 いつの間にか空が晴れてきて、土管の中から出ました。

 「はれてきたね!」
 「よかった」 
 「あのさ、あしたにはおウチにかえっちゃうんでしょ」
 「うん」
 「おれたち、またあえるかな?」
 
  土砂降りは通り雨だったようで、雨雲は消え雲の隙間から青空が見えるくらいでした。
 彼の問い掛けにどう答えようかと私が言い噤んでいると、ふと私を呼ぶ母親の声がしました。

 「お母さん!」

  私はすぐに駆け寄り、母の腕に抱き締められて再会を喜びました。
 今度こそ母としっかりと手繋いで、とても安心しました。
  振り返ると彼はぼうっと此方を見ていたのですが、すぐに笑顔になり手を振ってくれていました。

 「またね!」

 ――あの時の彼に、私はまた会いたいのです。  




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