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  久遠(仮)−プロローグ−



 げぼり、と嫌な音がした。
「……久遠?」
 部屋で本を読んでいた黎音は、すぐ後ろにいる妹の久遠に振り返った。その目の端に、黎音は空間のひび割れのような金色の光を見た。
「……ぐ、」
 久遠の体を視界に入れた黎音は、その目を大きく見開いた。
 まだ七歳の、小さな久遠の体。その体にまるで地殻変動を起こした大地のような、無数の裂け目が走っていた。そしてその裂け目から、大地の奥に蠢くマグマのような金色の光が漏れ出し、小さな稲妻のように空間を歪めている。
 体が震えた。それは圧倒的な力の奔流だった。幼い黎音にもそれがわかった。否、年齢など関係ない。それは人間の本能に知らしめる絶対的な力だった。自分は絶対にこれには敵わないと、人に知らしめ怯えさせそして屈服させる、暴力的なまでの、力。
 その力は空間さえも歪ませ、大気を滅茶苦茶にかき回す。そうして起きた暴風が、黎音の前髪を跳ね上げ服の端をバタバタと暴れさせる。本棚に並べられていた本が次々と落ちては舞い上がり、棚の上の花瓶が落ちて砕け散った。時折起きた鎌鼬が、障子を斬り裂き黎音の頬を裂く。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
 不意に久遠が、人とは思えぬような絶叫を上げ、床を転げ回った。その咆哮に荒れ狂う大気がビリビリと震え、黎音はその振動に指一つ動かせなくなる。それは体の底を乱暴に突き上げてくる途方もない衝動だった。それに揺さぶられ、動けない。
 だが、苦しげな絶叫を上げながら床を転げ回る久遠の、限界以上に見開かれた目から零れる涙を見たとき、圧倒的な力に屈服されていた黎音の本能は、兄としてのもう一つの本能に跳ね返された。
「久遠!」
 体を縛りつけていた衝動を忘れ、喉が裂けんばかりに絶叫を繰り返す久遠に駆け寄る。久遠の体に刻まれた金色の光を漏らすひび割れは、さらに広がり久遠の体の全てを埋め尽くそうとしている。久遠の体の底から湧き上がるその力は、久遠の体を崩壊へ導いているようだった。
「ぐおおおおおおお! ぐおああああああ! あああああああ! あああああああ!」
 閉じることのない口からは絶え間なく絶叫があがる。その口と顎にはべったりと血が付いていた。あまりの苦痛に血を吐いたらしい。まだたった七歳の少女が血を吐きながら苦しむ姿はあまりに痛々しく、黎音は遮二無二久遠を抱き締めた。久遠の絶叫は止むことはない。それでも黎音はそうすることしかできなかった。
 その時黎音は荒れ狂う風と久遠の絶叫の中で、障子の向こうからこちらへ駆けてくる足音に気付いた。
「黎音! 久遠!」
 鎌鼬によってずたずたになされた障子が勢い良く開き、その奥から枯草色の髪の大男が顔を覗かせた。黎音と久遠の父親、暁政だ。その隣には末の妹の紫苑を抱いた母親、佐百合もいる。両親もこの力の奔流に気付いて駆けつけてくれたのだろう。部屋の中に満ちた暴風が暁政にも襲いかかり、その癖の強い枯草色を滅茶苦茶に揺らす。
「久遠……!」
 暁政は黎音の腕の中で絶叫を上げ続ける久遠に気付き、険しく顔を歪めた。
「黎音! 早く久遠から離れろ!」
「な……っ」
 だがその父の言葉に、黎音は大きく瞠目した。今の久遠は崩壊寸前だ。抱き締めていなければ崩れてしまいそうな、そばにいなければ消えてしまいそうな、今の久遠はそんな儚いものにしか思えなかった。だから黎音は久遠から離れることなんて、できない。
「な、なんで? 今離したら久遠は、ど」
 その瞬間黎音が言葉を切ったのは、久遠の絶叫が嘘のように止まったからだ。
「あ……?」
 ぞくり、と先程の衝動とはまるで違う感覚が、腹の底から胸へと這い上がる。恐らくそれは、限りなく純度が高い、恐怖そのものだった。
 黎音は、腕の中の久遠が別の存在に変質したのを感じた。
「ああ」
 腕の中から聞こえたそれは、明らかに久遠の声ではなかった。七歳の幼子とはかけ離れた、拉げて潰れた、地獄の底から響く闇の声。
 黎音は腕の中の久遠に視線を移す。冷たい汗が噴き出し、体中の毛が逆立った。
「やっと出れた」
 全身がひび割れ、崩壊に近づく小さい体。少女の柔肌は金色の光に覆われてあまりに痛々しい。だけどその顔は。
「もう離しはしないぞ。……俺の久遠」
 久遠のものではなかった。
 妙に鋭くとがった爪が黎音の腕に痛いほど突き刺さり、久遠のものではない顔がいびつに笑う――
 黎音は悲鳴を上げた。



 ――十二年前の出来事だった。







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