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  俺がここにいるための感謝




 一年と二か月。それが、あまりに早すぎる時間の名前。
 あっという間に過ぎた時間は、それでも沢山のものを俺に与えた。例えば勝利の歓喜とか、敗北の悲しみとか、そりゃもう、いろいろ。
 俺はマフラーの隙間から熱い息を吐いた。季節は秋だ。もう夏の暑さは微塵もない。日曜日の午後だというのに空は暗い色の分厚い雲に覆われて、少しの日差しも降ってこない。少し肌寒い。
 思えば、あの夏の暑さは肌に、あるいは脳髄に焼きついている。今年の夏じゃなくて、去年の夏の暑さ。高校二年生の、ジュンが甲子園優勝した夏。
 ……結局あの年、俺は日本一になれなかった。敗因は俺の心の弱さだった。高校二年の俺は結局、日本一というプレッシャーに潰された。だけどその次の年、つまり今年、俺たちは日本一になった。そしてジュンは甲子園連覇はならなかった。甲子園三回戦敗退。ベスト十六だった。
 そのとき、泣きも笑いもせずにごめんな、と言ったジュンの表情を、俺は今でも忘れられない。あるいはその年に俺が日本一になったのは、その表情のせいだったのかもしれない。ジュンのあんなに辛そうな無表情を、消し去りたかったから。
 俺はあの河川敷へ向かう途中だった。一年前の夏にジュンとキャッチボールをしたあの河川敷だ。何故そこに向かっているかというと、ジュンに呼び出されたからだ。
 大会が終わって引退した俺は、以前に比べれば死ぬほどに暇な日曜の午後にジュンからメールをもらったのだ。今から河川敷に来てほしい、と。
 ジュンとは一月前に日本一の報告をして以来会っていない。でも幼なじみというだけの俺たちの接点はその程度だ。メールもその時に何度か交わすだけで、頻度は限りなく少ない。
 やがて俺は、誰もいない河川敷にたどり着いた。まだ来ていないのかと辺りを見回して、気付く。誰もいないわけじゃなかった。少し離れた土手に座っている背中。
「ジュン!」
 声をかけると、ジュンは振り返って手を大きく振ってきた。俺はまた歩き出して、ジュンがいるところまで降りていく。
「久しぶり」
「うん。一月、かな」
 ジュンが立つ気配がなかったので、俺がジュンの隣に座った。目の前には冷たそうに流れる川だ。
「はい」
 寒そうだな、と思っていると、ふいにジュンが缶コーヒーを差し出した。缶コーヒーと言っても、ジュンが差し出したのは多量の練乳を使用した、凄く甘いことが有名なコーヒーだ。苦いものが嫌いな俺がそれをこよなく愛していることを、ジュンは結構な昔から知っている。
 ありがと、と受け取ると、それはまだ温かかった。ジュンが来てからまだそれほど経っていないらしい。
「髪、伸びたな」
「ん、そうか?」
 前髪を摘んで、見てみる。でも視界に入るということは、それほどは伸びているということだ。今まではソフトをするのに邪魔だったから、伸びる先からこまめに切っていた。でも引退してからはそれほど気にならなくなったからか、切るのを忘れていた。
「別に、忘れてただけ」
「ふうん」
「帰って来てたんだ?」
「ん? ああ、週末だけな」
 ジュンは自分の分の無糖の缶コーヒーを開ける。無糖なんて、よく飲めるなあと思う。
「部活も引退したから、週末は帰るようにしてるんだ。三年間ずっと帰ってなかったし」
「引退かあ……」
 ずず、と甘いコーヒーを啜る。このコーヒーはコーヒーじゃなくてカフェオレだ! と昔ユリに言われたことを思い出す。正直どっちでもいいと思う。
 そういえば引退してユリはどうしているだろう。クラスが違うから部活をしていないと滅多に会わない。ユリはどうしているだろう。この先もソフトをするために、頑張っているだろうか。
「ジュンさ、なんかしてるか? 引退して」
「うん。体力落とさないように走るのは欠かしてないし。それに最近はジム行ってる。学校の近くの」
「ジム、」
 不覚にもちょっと驚いてしまう。まさかジムにまで行ってるなんて。
「結構いいぞ、ジム。筋肉落とさないようにするには最適だし」
「へー、真面目だな」
「そうでもないさ。ヨシキとかも一緒にやってるし」
 ヨシキ。ジュンとバッテリーを組んでいたピッチャー。あいつも野球を、続けるんだろうか。
「カナメは?」
「ん、俺?」
 ランニングは基本だし、毎日家で投球練習もしている。一日百二十球の投球制限も守っている。高校でのソフトはもう終わりだけど、この先のために努力は惜しまない。いや、もう努力という言葉もふさわしくない。毎日走ったり投球練習するのは、俺の中ではもう日常だからだ。
「うん。毎日、頑張ってる」
「……そうか」
 ジュンは少し呟いて、コーヒーを飲んだ。はあ、と吐き出された息が僅かに白く濁った。
 それから少し、沈黙があった。俺はその間に甘ったるいコーヒーを飲み切ってしまって、まだ温かさが残る空き缶をカイロ代わりに握っていた。
 ふと、そういえば、と思い出す。
「そういえばさ」
「うん?」
「何で呼び出したんだ?」
 そう言うと、ジュンの体が少し緊張するのがわかった。
「なに? なんか言いにくいことでもあんのか?」
「あ、いや……」
 ジュンは良く聞き取れないようなことを口の中でごにょごにょと呟いて、口に手を当てて俯いてしまった。こんなジュンは珍しい。ジュンはいつもぼんやりしているようで実はしっかりしてて、野球のことになるともの凄く真剣になって、でも野球以外のことになるとどこか抜けているような、そんな良くわからない奴なのだ。
 少なくとも、俺にとってのジュンは。
「言いにくいならメールでも良かったのに」
「……いや、直接言いたかったし」
 ジュンは一度ぐっと体を反らして空を仰いだ。
「あのさ」
「うん」
「俺、色んなチームからオファー来た」
 一瞬、耳を疑った。
「……はあ?」
「だから、指名受けた。一応俺今年ベスト十六だし」
 ジュンは少しだけ恥ずかしそうに身を縮めた。こんなジュンはやっぱり珍しい、と飽和した頭の片隅で思う。
「……っえ、と」
 頭が追いついていかない。でかいデータを突っ込まれて重くなったコンピュータのようだ。それでもなんとか頭を整理する。ええと。
「おめでとう?」
「……うん。ありがとう」
 そうだ。オファー。指名。ジュンが指名された。プロのチームに。プロに!
「じゃ、ジュン、どうすんの?」
「うん、どこかのを、受けようと思う」
 それはつまり、プロになるって事だ。ジュンが。プロに。
「……それでさ」
 そう続けて、ジュンはぐいっと缶をあおって中身を空かした。
「カナメは、どうすんの?」
「どうすんの、って?」
「高校卒業してから。カナメなら、どっかのソフトのチームから来てくださいって来るんじゃねえの?」
「……あー」
 それは、確かに有り得るのかもしれない。でも俺は、
「そういうのが来ても来なくても、俺はまだ、色んなコーチとかに会って、色んなチームとかと戦いたいから、大学に行こうと思ってる」
 それは本当だ。それに俺にはまだまだ伸びしろがある。技術面や体力面ではもちろん、精神面も。
「……そっか。じゃあ、行く大学とか決めてるのか?」
「大体は……な。あんまり離れたところじゃなくて、大学大会の強豪とかに行こうかな、と」
「ふうん。じゃあ関東とか?」
「うん。でも東京の大学のどこかがいいんだけど」
「……そうか。じゃあさ、一緒に暮らさないか」
「ん、うん。……ん?」
 一瞬聞き逃しそうになったけど、何か言われた気がする。暮らす?
「……なんで?」
「なんで、って……」
 ジュンはどこか拍子抜けたように頬を掻いた。疑問を持つのは当然だと思う。暮らす? なんで? 俺とジュンが?
「プロになったらさ、家にいる時間とかあんまりないし。だったら二人で住んだほうが安上がりじゃないかなと思って」
「そりゃそうだけどさ、……なんで俺と?」
 そう問うと、ジュンはさっと頬に朱を走らせ、眉を八の字に歪めたなんとも情けない顔をした。困ったような照れたような変な表情だ。今日のジュンは百面相だな。
「あー、いや、なんとなく?」
「なんだそれ」
 思わずぶはっと噴き出すと、なぜかジュンは頭を抱えた。なんでだ?
「俺は別にいいけど?」
「は?」
「は? ってなんだよ。誘ったのジュンだろ。別に困ることもないし、一緒に暮らすのもいいんじゃね?」
「待て。困ること、ある」
「あ?」
 あるのか。だったら最初に言えばいいのに。
「なんだよ」
 何故かジュンはまた頭を抱えた。さっきからなんなんだ。変に困ったり照れたり頭を抱えたりして。俺は何かしただろうか。もしくは何もしていないから悪いのだろうか。
 ジュンは妙に赤い顔を上げた。そしてちょっと震える指先で自分を指し、俺を指した。
「俺は男で、カナメは女だ」
「あ? ……ああ」
 言われて、そういえばそうだったと思う。どうも普段から自分が女であることを忘れる癖がついてしまったようだ。女だということを忘れる、というよりは自分が男だと思い込んでしまう、と言うほうがあってる気がするが。
「で、それで?」
 首を傾げた瞬間、ジュンががくりと地面に突っ伏して撃沈した。
 服が汚れるぞ。
「……なんかもう、いいや」
「なんだよ?」
 なんだか目に光るものさえ見えそうなジュンの様子に、俺は首を傾げるしかない。なんなんださっきから。
「もう、わかった。来年の春から一緒に暮らそう。よろしく!」
 ジュンが手を差し出す。まめやタコが沢山ついた、野球をしているジュンの手だ。
「……うん。よろしく」
 温かい手だった。





 次の日、月曜日に、俺はユリと昼食を取った。その日は珍しく違うクラスのユリが俺のクラスまでやってきて、今日は一緒に食べようと誘ってきたのだ。だから俺は弁当箱を持ってユリと屋上に来ていた。
「うー、寒いな」
 秋も更けた屋上は寒い。今日は晴れているが、すっかり弱々しくなった日差しは服の外側からじわじわと染みてくるような寒さに全く対抗できていない。
 夏の日には結構な数の生徒で賑わう屋上だけれど、さすがにそんな屋上には人っ子一人いなかった。寒さに震えながら食事するよりは、温かい教室で食べた方がいい。当然だ。
「でもさ、たまにはよくない? こういう日に外で食べるのも」
 わずかに鼻の頭を寒さで赤くしているユリは、それに誰もいないしね、と笑う。ユリは俺が基本的に人ごみが嫌いなことを知っているのだ。
「どうせだしさ、もっと上行かない?」
 そう言って給水塔の上を指す。この学校では一番空に近く高いところだ。
 俺はそうだな、と同意して、給水塔に設置されている梯子を上る。
 給水塔の上は二人が座って食事するには十分な広さがあった。そこにそれぞれ座り、弁当箱を広げる。ユリは購買で買ったパンだ。
「そういえば、今日はどうしたんだ?」
 弁当の一口目を口に運びながら、ユリに言葉を投げかける。
「ふぉうひはっへ?」
「食べながらしゃべるなよ。えーと『どうしたって?』って言ったのか?」
 口いっぱいに詰め込んだパンをもごもごと咀嚼しながら、ユリはこくこくと首を縦に振った。
「だって珍しいだろ。わざわざユリが昼飯誘いに来るなんて」
 昼休みに部活の会議があった時などは一緒に食べることもあったが、わざわざクラスに来てまで誘ったのは多分今回が初めてだ。
 ユリは口の中のパンを一緒に買ってきたイチゴ牛乳で流し込み、答える。
「いやね、カナメはこれからどうするのかなーと思って」
「これから?」
 なんだかジュンといいユリといい、これからのことをよく聞かれるな、と思う。でもそういう時期なのかもしれない。部活も終って一息ついて、さてこれからどうしよう、と考える時期。
「俺は東京の大学を受けようと思ってるけど」
「大学? プロにはいかないんだ?」
「うん。ソフトは続けるけどな」
 そっか、と呟いて黙り込んだユリに、俺は問いをそのまま返す。
「ユリは、どうするんだ?」
「うん、私? 私も、大学行くよ」
「そうか、じゃあ、ユリもソフト続けんだな」
 そう言った瞬間、ユリは少し申し訳なさそうに笑った。瞬間、どくりと心臓が鳴った。
「違うよ」
 口の中が急激に乾いたような気がした。乾いて張り付いた喉から、掠れた声もこぼれない。
「私は、もうソフトやめるよ」
 ユリは笑っている。だけどそれは口元だけだ。眉根は下がり、目には寂しそうな色を湛えている。そんな目をするぐらいだったら、そんなこと、言わないでほしい。
「な……なんで、だよ!」
 思わず、叫ぶ。周りに人がいなくてよかった。もしかしたらユリはこういうことを考慮して俺を屋上に連れてきたのかもしれない。
「俺たち、日本一になっただろ! 俺と、ユリと、みんなで日本一だろ! ユリだってプロから誘いが来るかもしれないし、そうじゃなくてもユリは……ユリは俺のキャッチャーだろ!」
「違うよ、カナメ」
「違うって、何が……!」
「違うんだよ。もう私は、カナメのキャッチャーじゃないよ」
「――――っ!」
 叫ぼうとした言葉が全部、ユリの言葉に押し込められて出てこなかった。それほどの強制力は、十分にあった。まるで予告もなくギロチンが落ちてきたみたいだった。ユリは悲しそうな笑顔で、俺の心を切り裂く。
「カナメは、すごいピッチャーだよ。このまま努力していけば、きっと日本のエースにもなれるよ。だけど、私は違うんだよ」
「違、わな……」
「ごめんね、カナメ。カナメがどれだけ言ってくれても、私は違うんだ。確かに私はカナメのキャッチャーだったよ。カナメとみんなと、日本一にもなったよ。でも違うんだよ。私たちが勝ってきたチームには、私よりいいキャッチャーなんていくらでもいたよ。私よりカナメに相応しいキャッチャーがいたよ。日本一は、カナメとみんなの力で獲った日本一だよ。私の力じゃない」
 ユリの言う通りだ。プロを目指す人間なんていくらでもいる。そしてその中には、ユリの力を上回る者なんていくらでもいる。監督のお墨付きで、周りにも全国で通用すると言われている俺でも、俺と同等かそれ以上の力を持つ奴はいるのだ。確実に。それはスポーツの世界では当然を通り越してルールでさえある事実だ。世界は残酷だ。そんなことも、当然。
「別にいいんだよ。私、楽しかったし。カナメとみんなとソフト出来て、その上日本一になれたんだもん。これ以上何も言うことない。私は世界一幸せなキャッチャーだよ。だから、いいの」
 きっと、そうだろう。こんなふうに笑って幸せだと言えること。それはこの上ない幸福だろう。ユリは幸せだ。でもだからと言って、自分のバッテリーがソフトを辞めるのを、はいそうですかと簡単に受け入れることなんて、できない。
「……だから、ありがとう、カナメ。私、カナメのキャッチャーになれて嬉しかった。カナメの球を受けれて、幸せだった。私がこうしてすっきりソフト辞められるのは、カナメのおかげ。カナメが本気でソフトやってくれてたから。カナメが日本一だなんて、私からしたら途方もない夢を本気で追いかけてたから。カナメが私に夢見させてくれた。その夢を叶えてくれた。ありがとう。全部全部、カナメのおかげ」
 でも、ユリの中でとうに決めていただろうことを、俺のわがままで捻じ曲げることなんて、もっとできない。そう、わがままなのだ。これは俺がユリにソフトを辞めてほしくないと駄々をこねているに過ぎない。ユリがずっと悲しそうに笑っているのも、俺のわがままのせい。
 だから、受け入れなければならない。今すぐでなければならないことではないが、それでも、いつかは。
「……そっか」
 目を閉じ、小さく奥歯を噛みしめる。俺が投げることが出来たのは、ユリのおかげだ。ユリがいてくれたから投げられた。日本一だって、ユリの力でなされたものではなかったかもしれないが、それでもユリが俺の球を捕ろうと努力してくれたから、俺の力を最大限に生かそうとしてくれたから、勝てたのだ。
 俺のおかげ? そんなわけがない。全ては……全てはユリのおかげだ。ユリが時には優しく、時には厳しく、俺の球を受け続けてくれたから。だから俺は日本一にもなれたし、これからもソフトを続ける覚悟が出来たんだ。
「俺も、ありがとう。俺もユリとバッテリーが組めて、本当に良かった」
「そっか。じゃあ」
 ユリの明るい声に、顔を上げる。
「やっぱり私は、世界一幸せなキャッチャーだね」
 ユリはもう悲しい顔なんかせず、いつものように無邪気なようで、優しい笑顔で俺を見ていた。





「そういえばカナメは、どこの大学に行くの?」
 そのあと二人で昼食を食べ終わり、教室に戻る帰りだった。生徒で賑わう廊下を並んで歩いていると、ユリはそんな質問を俺に投げかけた。
「まだどことは決めてないけど、大学大会の強豪にしようとは思ってる」
 それはジュンにも言ったことだ。俺の実力なら欲しいと言ってくれるところはあるだろう。なくても売り込むだけの実力と自信はあるつもりだ。
「そっか。じゃあ住む所にこだわりはないんだ?」
 住むところ。そう言われて、昨日のことを思い出す。一応言っておいた方がいいか。決定したことだし。
「こだわりとかじゃないけど、一つ決めたことはあるぞ」
「何?」
「ジュンと一緒に住むことになった」
 ガタン、といきなり音が鳴った。驚いて横を見ると、ユリが廊下に並んでいるロッカーの一つに寄りかかるようにしていた。そして驚愕を形にしたような表情で俺を見ている。顔からは血の気の一切が引き、目元がひくひくと痙攣している。大丈夫か。
 さっきの音はユリがロッカーにぶつかった音だった。並んでいると言っても邪魔になるほどじゃないし、普通に歩いていただけなのに何故ぶつかるのだろう、と首を傾げていると、ユリは血の気が引いたままの顔で俺の腕をがっと掴んでくる。正直ちょっと怖い。
「ちょっとカナメ今なんて言ったもう一回言ってみ?」
「何ってジュンと一緒に住……」
「わあああああああ!」
 ユリは真っ青になって俺の言葉を遮る。もう一回言えと言ったのはお前だ。
「ちょっと場所変えよう。話はそれから聞くから!」
 確かにさっきの音やらユリの叫び声やらで周囲の注目を集めてしまっている。注目されるのは好きじゃないし、話に聞き耳を立てられるのも嫌いだ。でもさっきからユリが騒ぐ理由がわからない。
「おい、話って……」
「黙れ!」
 何度も聞いたことのないユリの強い口調に、俺は「はい……」と小さく頷くことしかできなかった。そして俺はユリに引きずられて、注目を浴びつつ廊下を進んでいった。





 ユリが選んだのは屋上へ続く階段の踊り場だった。結局来た道を戻ったことになる。
「……で? ちょっと詳しく話してみなさいよ」
 先ほどとは打って変わって、ユリは頬を赤く上気させて俺に詰め寄ってきた。訳がわからない。
「詳しくって?」
「ああもうジュンくんと一緒に住むんでしょ? それどっちが先に言い出したの?」
「ジュンだけど」
 答えると、ユリは感極まった顔で体を震わせつつ拳を握った。その上でさすがジュンくん男ねとかなんとかぶつぶつ呟いている。忙しいな。
「それで、なんて言われたの?」
「なんてって……、普通に一緒に暮らさないかって」
 ユリはますます頬を赤くさせる。どうやら興奮しているようだけれど、全然意味がわからない。何故興奮する。
「それで! 何て答えたの?」
 目をキラキラさせるユリに、俺は少し身を引いてしまう。仕方のないことだ。このユリの勢いは俺でも受けきれない。
「いや……別にいいけど、って」
「そっかあ……!」
 ユリは体をぶるぶる震わせて、何故かその場でくるくると踊り出した。半ば真剣にユリがおかしくなったのかと思って背筋が震えた。おかしくなったとしたら俺が原因だろうか。そうだったら俺はどうすればいいのだろう。せめて内心で叫ぶ。ユリ! 正気に戻ってくれ!
「そうかそうか。遂にカナメもジュンくんとゴールインかあ。カナメ! 結婚式には呼んでね!」
「はあ? 結婚式?」
「は?」
「あ?」
 ユリの踊りがぴたりと止まる。そのまま俺とユリは無言で見つめ合った。
「え、ちょっと待ってカナメ。プロポーズされたんじゃないの?」
「はあ? プロポーズ? いつ? 誰に?」
 ユリの顔が有り得ないほどにひきつった。信じられない、とその顔には書いてある。それからユリは貧血でも起こしたかのように額に手を当ててふらふらと後ずさった。
「ジュンくんと一緒に暮らすんでしょ……?」
「そうだけど?」
「じゃあなんで一緒に暮らすの?」
 なんで? それこそなんでそんなことを聞くのかこっちが聞きたいくらいだ。
「ジュン、プロになるんだって。だから家を空ける日も多いだろうし、二人で住んだ方が安上がりだろうからって。それに……プロになるんならいろいろ大変だろうし、支えてやる人が必要なんだ。きっと」
 ジュンはそういうことは言わなかったけど、一緒に住もうと言ったことにはそんなことも含まれていると思う。そしてその役目に俺を選んでくれたことを、誇りに思う。
 ……それなのに、何故かユリは頭を抱えている。なんでジュンといいユリといい、こうもみんな頭を抱えるんだろう。頭を抱えたいのはこっちだ。
「そっか……ジュンくんプロになるんだ。じゃあプロポーズのタイミングとしてはばっちりだもんねえ……。でも相手がこんなんじゃあねえ……」
 ユリはふふふふふ……と不気味に笑う。それからジュンくんご愁傷様、と呟いた。ジュンを勝手に殺すな。
「なあ、さっきから何なんだ?」
 俺にとっては至極真っ当な問いを投げかけると、ユリは幽鬼のように影や陰湿な空気を纏って振り返った。だから怖いって。
「もう何言ってもわかんないだろうから、もう何も言わないけど……、せめてジュンくんの言うことはちゃんと聞くんだよ? 一字一句、一言も逃さないようにね」
 全く、ユリは何を言っているのだろう。
「何のことか全然分かんないけど……、そんなの当たり前だろ」
 そう言うと、ユリは何かにあてられたかのように額に手を立てて天を仰いだ。それから全くお熱いねえさすがは新婚とかなんとか言っていたけれど、俺はやっぱりユリが何を言っているのか全然わからなかった。
 新婚? 誰がだ。





 それから、また五か月が過ぎた。
 五か月も過ぎれば季節は変わる。秋が終わり、冬の肌を刺すような寒さが緩み、もうすぐ、春になる。
 そして秋から春にかけてのこの五ヶ月間は、いろんなことがあった。
 まず、あのあとすぐ、目星をつけていた大学のいくつかから誘いが来た。俺は少し悩んでそのうちの一つの誘いを受け、大学が内定した。ユリも考古学系の大学の試験を受け、合格した。
 それからプロ野球のドラフト会議が始まり、ジュンは希望していた球団にドラフト四位で入団した。
 そしてついこの間高校の卒業式が行われ、俺たちは高校を卒業した。その時間全てをソフトに捧げた三年間を思うと、あまりの尊さに涙が出たが、これから先の大学生活を思えば辛くはなかった。
 そして今。春休み。俺は今、実はまだ寒い空気の中、見知らぬ土地にやってきていた。
「緊張する?」
「緊張、っていうか……」
 辺りを見回す。なんというか、閑静な住宅街だ。少し高級な雰囲気のベッドタウン。地元とは全然違う。
「なんか、落ち着かない」
「ははっ、そうかも」
 ジュンは入団した去年の末あたりからここに住んでいる。さすがに余程のことがなければ学校に行ってたし卒業式にも出たが、ジュンはすでにプロの人間だ。
「まあカナメもここに住むんだし、すぐ慣れるだろ」
 ……そして俺も、今日からここに住む。俺の荷物はすでにジュンの家に届けられていて、俺が持っているのは貴重品だけを入れた鞄だけだ。
 ちなみに春から俺が通う大学はここから五駅ほど離れた場所にある。少し離れてはいるが、家賃に比べればとんでもないほど安上がりだ。
「楽しみだな。ジュンが住んでるとこなんて」
 淳の部屋なら小さいころに何度か見たことがある。だけど今度は部屋ではなく家だ。ジュンだけの空間。それがどんなものなのか、興味が湧かないわけがない。
「ジュン、一人で生活できてんのか?」
「できてるって。俺はどっちかって言うとカナメの方が生活できなそうだと思うけどなー」
「あ? お前女嘗めんなよ」
「女って自覚あったんだ?」
「うるせー」
 じゃれながら二人で歩いていると、ふいにジュンは進行方向を指差してあそこだ、と言った。目をやると、そこは真新しく綺麗なマンションだった。さりげない所に高級感が出ていて、何ともシックな雰囲気だ。
「うわー! いいとこ住んでる!」
「一応これでもプロ野球選手ですから」
 珍しく威張るようなことを言って、ジュンは胸を張る。玄関先に歩み寄ると、ピカピカの黒い石壁が目を丸くした俺の顔を映した。
「そうだよなー。契約金めっちゃもらってるもんなあ。いくらだっけ?」
「それは言えません」
 からからと笑いながら、ジュンはポケットから鍵を取り出して玄関を開けた。鍵が開くのと同時に自動でガラス扉が開く。
「おお、ハイテク」
「そこ驚くとこ?」
 中に入ると、その先のエレベーターは暗証番号を入力しなければ動かないものだった。やっぱりハイテクだ。俺の意見に間違いはない。
「何階?」
「六階」
 ボタンは俺が押した。閉じる、のボタンもついでに押す。
「六階かあ。結構高いな。景色いい?」
「まあまあかな?」
 ジュンは小さく笑って肩を竦める。そうこうしているうちに六階についた。
 エレベーターを降りて右手に三部屋目がジュンの部屋だった。ジュンは一つ目とは違う鍵で扉を開け、うやうやしい小洒落た仕草で扉を開く。
「ようこそ。俺の部屋へ」
「これからは俺の部屋でもあるけどな」
 見えつけるように笑顔を向けて、俺は一応「お邪魔します」と言ってから部屋に入った。玄関は広い。入ってすぐのところがシステムキッチンとリビングになっていた。リビングのフローリングにはいくつかの段ボールが重ねられている。俺の荷物だ。
「おおおおおおお! すげえ!」
 靴を脱いでリビングに向かう。ふかふかの絨毯にガラステーブル、それに白いソファが並んでいる。奥にあるのはデジタルテレビ。カーテンの色は淡い青だ。奥の二つの扉はそれぞれの寝室だった。シングルベッドがそれぞれ一つずつ置いてある。手前の部屋をジュンが使っているらしく、クローゼットには服が並びベッドは乱れていた。そうなると奥の部屋が俺の部屋だ。ジュンはそれほど足を踏み入れてないのだろう。生活臭というものがなかった。
「カナメの部屋になるところだし、あんまり入らなかったよ。掃除は欠かしてないけど。……あ、もしそっちの部屋の方が良かったら交換するけど」
「いや、別にどっちでもいいからこっちでいい」
 他の二つの扉は風呂場とトイレだ。風呂場の方は脱衣所兼洗面所までついている。
「すげえ! すげえいいとこだな、ここ」
 俺は白いソファに座った。予想よりずっと柔らかい。一緒に置いてあったクッションを胸に抱けば、少しジュンの匂いがする気がした。
「気に入った?」
「そりゃあな。一人暮らしするよりずっといい所だし」
 一人で暮らすにしても――二人で暮らすにしても、この部屋は十分すぎるぐらいに広い。ジュンはソファには座らず、床に膝をつき後ろからソファの背に腕を乗せて寄りかかった。
「今日からここで暮らすんだな。なんか楽しみだなあ。ジュンもいるし」
 首をこてっと後ろに倒してジュンを見る。ジュンも俺を見ていた。目が合う。
「飯とかちゃんと作ってんの?」
「オフとかは、な。でも飯作るのは交代だからな」
「わーってるよ」
 でもシーズンが始まればジュンの帰りは遅くなるだろうから、実際の家事はほとんど俺がやることになるだろう。でもジュンはプロの野球選手で、かたや俺はただの大学生だ。俺も練習で遅くなることもあるだろうけれど、きっとジュンほどではない。だから俺が、プロの世界に飛び込んだジュンを支えなければならない。多分それが出来るのは、俺だけなのだから。
「今何時?」
 俺の問いに、ジュンは顔を上げて壁を見る。その仕草で、初めてそこに時計があることを知った。
「二時ちょっと過ぎ」
「今日はオフなんだろ? 俺が来た祝いに晩飯は俺が作ってやるよ。後で近くのスーパーにでも連れてけよ。まあ、それまではのんびりしてるけどな」
「荷物は出さなくていいのか?」
 ジュンは自分の後ろにある段ボールの山を見る。俺の日用品や衣類を詰め込んだものだ。俺は物をそれほど持たないから、段ボールは三つほどしかない。
「別に明日出せばいいさ。どうせ入学式まで俺は暇だし」
 入学式はまだ一週間後だ。それにこれくらいの荷物なら一人でも簡単に整理できる。
「それに……」
「それに?」
「ジュンは明日からまた試合だろ? 下手に俺に付き合わせて疲れさせたくないし、ジュンと一緒にこうやってのんびりしてたいし」
 明日、ジュンは早くにここを出てしまう。だからこうやって一緒にのんびり出来るのはオフの今だけだ。
 そう言うと、ジュンはどこか気が抜けたかのようにふっと笑った。今まで肩肘張っていたのが、もういいと気付いて力を抜いたような感じ。その顔は、安心しているようにも見える。
「……なんだか、こうしてるとさ」
 目鼻立ちが整っているせいなのか、その顔は幼い子供みたいで――可愛い、と思った。
「恋人同士みたいだよな」
「…………え」
 思考が、かちり、と止まる。コイビトドウシ。こいびとどうし。恋人同士。……恋人同士?
 急激に、顔に全身の熱が集まった。顔が熱い。顔が赤くなっているのがわかる。恋人同士。
「…………っ!」
 思わず、抱き締めたクッションに顔を埋める。顔が熱い。多分、耳まで赤くなっているだろう。そんな顔を、人に……あろうことかジュンに見せられなかった。
「どうした?」
 ジュンの不思議そうな声が降ってくるけれど、駄目だ。顔をあげられない。恋人同士? 誰が? ……俺とジュンが?
「なんだよそれ……」
「あ?」
 恐る恐る顔を上げて、上目にジュンを睨む。それでも顔の半分はクッションに埋めたままだ。
「俺そんなこと考えたこともないのに……」
 俺の蚊の鳴くような声にジュンはきょとんとした顔をする。
「俺は考えてたけど?」
「ええっ!?」
 思わず顔を上げて叫ぶ。するとジュンは少し複雑そうな顔をした。
「ていうか一緒に暮らそうって言った時点でそういうつもりだったけど……、カナメ全然気付かないんだもんなあ」
 違う種類の恥ずかしさも相まって、これ以上熱くならないだろうと思っていた顔が火でもついたようになる。気付かなかった。全然。今になってあの時ジュンの様子がおかしかった理由を知った。そのあと、ユリに言われた言葉の数々の意味も。いくらなんでも遅すぎる。俺はどれだけ鈍かったんだろう。恥ずかしい。
 ジュンはあの時から、そういうつもりだったのだ。ジュンは俺を恋人みたいに思っていて、だから一緒に住もうと言い出して、つまりそれは、ジュンは俺のことが――
「じゃあさ」
 すぐ横で、ぎしっとソファが鳴いた。見ればジュンが立ち上がっていて、ソファの背に片足を乗せていて、そして俺をじっと見ていて、
「キスしようぜ」
「―――――、え」
 ジュンは軽い身のこなしでソファの背を越え、俺のすぐ横に座る。
「え」
 ジュンの手が俺の肩を掴む。ソファの上で俺たちは向き合う。
「え」
 近い。実際は今まで何度も経験したことのある距離だ。むしろ俺とジュンが隣り合うときはいつもこの距離だった。でも、近い。
「ちょ、ちょっと待て!」
 今の俺には、近すぎる。
「な、なんでいきなりそこまで話が飛ぶんだよ!」
 顔が赤い。見られたくない。でも隠せない。ジュンの腕を振り払えない。ジュンの目は真剣だ。
「……いや、カナメ鈍感だし、直接的なこと言って直接的なことしなきゃわかんないと思って。この際だし、二人きりだし、直接的なことしちゃおうかなー、と」
 平然とした顔でそんなことを言うジュンが憎たらしい。でもあの時は俺がこういう態度だったのだ。平然とした顔で一緒に暮らそうと言ってしまったのだ。立場が完全に逆転している。
「……じゃあ、ちゃんと言うぞ」
 ぎゅ、と肩を掴むジュンの手に力がこもる。痛いわけじゃない。でもそこからジュンの気持ちや緊張が伝わってくるようで、そしてそれがこれから起こることを俺に知らしめていて、痛い。心臓が高鳴りすぎて、痛い。
「俺は、カナメが、」
 ゆっくりと、儚いものでも扱うようにジュンは言葉を紡ぐ。ジュンの目は真剣だ。
「カナメが、好きだ」
 多分、早すぎた鼓動は、その一瞬だけ止まった。息もできない。
「……カナメは?」
 ジュンは相変わらず平然とした顔をしているけれど、多分ジュンもそうだったんだろうと思うと……答えは一つだった。
 落ち着くために、ゆっくりと鼻から息を吸って口から吐いた。吐息と共に熱も幾分か吐き出せたと思う。ジュンを見る。真剣な目。俺の大好きな、目だ。
「俺も、好き。ジュンが好き」
 その瞬間、ジュンは魂さえ抜けそうなため息をついた。そうして今更――本当に今更――頬を赤く染める。
「じゃあ、なんか大分順番がおかしくなっちゃったけど……」
 ジュンの顔が、すっと近づく。
 一緒に暮らし始めてから告白するなんて、多分滅多にない。そして俺も、告白されてから自分の気持ちに気付いた。だけど順番なんて、きっともう、どうでもよかった。大切なのは、何より大切なのは――ジュンと、俺の気持ち。そして俺の気持ちはもう、とっくにわかっている、
 俺はずっと、きっとジュンに出会った瞬間から、ジュンが好きだった。
 だからゆっくりと震える瞼を閉じて、唇に触れたジュンの温度を受け入れる。何の抵抗もなく受け入れることが出来たのは、多分、ずっとそばにいたからだ。
 それは拙くて、儚くて、温かくて、何より優しい、キスだった。


 唇がゆっくりと離れて、ジュンはなんとも情けない顔で笑った。
 そんなジュンを見て、俺は生まれて初めて、女に生まれたことに感謝した。





end.



ひっそりとあとがき

短編から始まりました俺そこシリーズ、これにて完結です。
完結にこじつけるため、大分時間をふっ飛ばしましたが……、きょ、許容範囲内ですよね!(汗)
この作品では、書きたいことを思う存分書けたので大分満足してます。なんかべたべたーなお話でしたが、楽しかったからいいんだ! こんな初々しいキスシーン書くのは最初で最後なのではないでしょうか。そういう意味でもこのお話はいい経験でした。小説家の卵という者、一度はべたは書いておかなきゃね!

この作品はなおと自身が日々思っていることをぶつけてみたりしました。なので妙に思い入れが深い作品でもあります。登場人物は非常に少ないですが……、だからこそ彼女ら彼らが一人一人強い思いを持って行動してくれたと思います。
この話は一応完結という形を取りましたが、サイドストーリー等ちょこちょこ書いていみたいネタがあるので、更新は終わってません。カナメ達にまた会えることを楽しみにしてくださると、本当にうれしいです。

今回の最後の一文は、書きたくて書きたくて仕方がありませんでした(笑)
最後に……ここまで読んでくださって、ありがとうございました!







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