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Cordless



 妹が自殺したらしい。
 妹が死んだ自宅から遠く離れた地で、俺はその報を聞いた。
 電話でそれを伝えた母の涙声に、俺はああやっぱり、と思った。やっぱりあいつ、死んだのか。
 そういう訳でその翌日、俺は新幹線に五時間揺られて故郷に戻ってきた。しかし五時間の移動はきついものがある。やっぱりもっと地元に近い大学に入ればよかった。
 妹は登校拒否のひきこもりだった。俺の三つ下の十六歳。本来なら高校二年生になっている年だが、高校に入ってすぐ登校拒否になったので出席日数が足りずに留年し、未だに高校一年生のままだった。
 妹は一年前の春。つまり俺が大学に通うため実家を離れた時から登校拒否になった。それまでは明るくて可愛くて活発で、登校拒否になるなんて想像もできないような女の子だったのに、だ。
 妹は俺が大好きだった。異常なほどのお姉ちゃん子だった。そして俺がいなくなった途端、登校拒否になった。つまりはそういうことだ。
 窓の外の流れる景色を見る。新幹線に乗ると大抵家族旅行のことを思い出す。両親は二人とも旅行好きで、一年に一度は必ず家族全員でどこかしらへ旅行に行っていた。家族がちりじりになってからは少なくなったが、幼いころはそれが楽しみで仕方がなかった。そして大抵、旅行が近くなると妹と一緒に密かな計画を立てながら準備をしていた。旅館にゲームセンターや卓球場があったら遊びに行こうとか、深夜の誰もいない温泉に入りに行って泳いでみようとか、そんな、下らないことばっかり。
 ――お姉ちゃん。
 たった二人の姉妹だった。だから妹は俺が大好きだったし、俺も妹が好きだった。当然のことだった。
「あきちゃん、わざわざごめんね」
 駅に迎えにきた母は、今まで若々しかった分一気に年老いたように見えた。五十近い彼女は、それでも活発的で生き生きしていて、三十代で通るほど若々しかった。それなのに今は年相応どころかさらに十歳は老いたように見える。背も俺と同じぐらいだったはずなのに、どこか母が小さく思えた。
 母親が子を失うというのは、こういうことなのか。
「ゆきちゃんの葬儀、明日からだから、今日はゆっくりしていきなね」
「……うん」
 頷いて、俯く。それからタクシーで自宅に戻るまで、会話が交わされることはなかった。




「私、いつかお姉ちゃんを殺すから」
「ふーん」
 それはいつだったか、妹が推理ドラマを見た後の姉妹の会話だった。俺はそのドラマを見ていなかったけれど、聞いた話ではどうやら妹が姉を殺す話だったらしい。大方聞き流してはいたが、よほど感動もしくは共感したらしく、妹はそのドラマの話を熱弁していた。
 出来た姉に出来そこない妹とか、妹が姉のようになりたくて殺したとか、そんな断片的な言葉は覚えている。つまりは優秀な姉と比較されて育った妹が、姉に嫉妬もしくは憧れて殺した、というなんともありふれた話なのだろう。でもそれは、俺たち姉妹の形に少し似ていた。
「あきちゃん」
 名を呼ばれて、はっと我に返る。喪服姿の母が、心配そうな顔で俺を見ていた。
「大丈夫? ぼーっとして」
 葬儀の朝だった。空は見事な秋晴れで太陽の光は心地よく降り注いでいるというのに、家はそれを知らないかのように暗かった。
 葬儀が行われている祖父宅の広い庭には、親戚の人々はもちろん、妹の友人やクラスメイトもたくさん集まっていた。知っている顔もいれば知らない人もいる。本当にたくさんの人がいる。でもそれも当然だ。妹は本当にいい子だったのだから。
「ゆきちゃんのこと……ショックだろうけど、あんまり思い詰めちゃだめよ」
 目を真っ赤に腫らして、真っ青な顔をして、何を言うのか。或いは俺も、そういう顔をしているのかもしれなかった。泣いてないから目は腫らしていないだろうが。
 妹の遺体とは、葬儀が始まる前に対面した。なんとも綺麗な死体だった。そう思った。死化粧をしているせいでもあるのだろうが、整った顔は人形のように白く、或いは彫刻のような美しさがあった。妹は、こんなにも美しい人間だったのだ。妹が死んで、初めてそれに気付いた。だからなのか、周りにいた家族はみんなわんわん泣いていたのに、俺は……俺だけは泣けなかった。
 妹は、電灯のコードを使って首を吊ったという。死化粧で巧妙に隠したのか棺桶の中の妹の首にその跡は見当たらなかったが、じっと見ていればうっすらとそれが見えるようだった。
 妹の、致命傷が。
 いや、違う。致命傷は、
「俺か」
「え、何? あきちゃん」
「ううん、何でもない」
 隣にいた母に作り笑いを向けて、少し離れた縁側に座る。妙に疲れていた。昨日はちゃんと寝たはずなのに、寝不足に似ただるさがある。
「あきちゃん」
 顔を上げると、仲の良い伯母さんがお茶を載せた盆を持って立っていた。伯母さんとは久しぶりに会う。ここからは大分離れた所に住んでいるから、会う機会は正月やお盆ぐらいにしかないのだ。そしてこの間のお盆は俺がここに戻れなかったから、会うのは今年の正月以来だった。
「……大丈夫? 顔真っ青だよ」
 ああやっぱり酷い顔をしているのか。そう思っていると伯母さんは俺の隣に座って盆のお茶を一つ差し出してきた。俺はありがたく頂き、一口すすった。
「まあ、当然だけどね。あきちゃんとゆきちゃん、仲良し姉妹だったし。……しかも自殺なんて、やりきれないよね」
 そうだ。俺と妹は仲が良かった。妹は俺を好きでいたし、俺も妹が好きだった。ずっと一緒にいたし、お喋りしてはじゃれあった。息もぴったりだった。一緒にいるだけで笑えた。根本的なところで繋がった普通の姉妹で、それが当たり前で、それが姉妹だった。
 ――お姉ちゃん。
 明るくて可愛くて活発で、どこにでもいるような普通の女の子だった妹。何の申し分もないぐらい、素敵な子だった。俺はそんな妹が好きだったし、誇らしかった。妹は俺にはないものをたくさん持っていた。さらさらの綺麗な髪とか明るい笑顔とか、そういう俺が持っていない「普通」を、たくさん持っていた。
 だけどきっと、それがいけなかった。
「……あきちゃん?」
「あ、」
「大丈夫? 気分でも悪いの?」
 駄目だ。気を抜けばすぐに思考が深い所に沈む。妹がいる、深い深い記憶の底へ。
「……ごめん、おばさん。俺一回家に帰るね」
「うん、そうした方がいいよ。お母さんには私から言っておくから」
「……うん、ありがとう」
 ゆっくりと立ち上がり、葬儀が行われている祖父宅を出た。自宅はそこから百メートルほど離れた所にある。家には誰もいなかった。当然だ。家族はみんな葬儀に出ている。
 一度横になった方がいい。体がだるい。場合によっては睡眠も必要だ。そう思って二階への階段を上る。大学に入って近くのアパートに一人暮らしを始めたから、この家に自分のベッドはない。母のベッドでも借りるか。
 そう思っていたのに、いつの間にか妹の部屋の前にいた。妹の部屋。妹が登校拒否になってからずっと引きこもっていた部屋。妹が長いこと過ごしていた部屋。そして妹が、死んだ部屋。手がその扉を開いていた。躊躇はなかった。妹が死んだ部屋なのに。
 空っぽの部屋だった。真っ先にそう思った。ベッドがあり机がありクローゼットがあり本棚がありテーブルがある。クローゼットの中には妹がいつも着ていた服だってある。何度も何度も入り、見た、妹の生前と全く変わらない部屋。それなのに、何故か空っぽだと思えた。
 そこは空っぽだった。そこに本来いるべきである人間がいないというだけで、たまらないほどの空虚さと喪失感を感じさせる。そういう部屋だった。
 妹は電灯のコードで首を吊ったというが、机の上にその電灯はなかった。さすがに処分されたのだろう。
妹がいつも座っていた、机の椅子に座る。薄いクッションは柔らかくなんかなくて、ごつごつしていた。だけどずっと妹を受け止め続けていた感触だ。
 よくこの部屋で夜通し話をしていた。狭いベッドに一緒に寝転がって、或いはテーブルで向かい合ってお菓子をつまみながら。思えば、そんなに話すことなどどこにあったのだろう。同じ笑い話を繰り返しては、飽きることなく笑い転げていた。話自体は、そんなに面白いわけでもなかったのに。
 俺は悪い子だったから、親の酒を持ち出してはこの部屋で隠れて飲んでいたりしていた。俺が運転免許を取ってからは、夜中に親の車を使って少し遠めのコンビニへ走ったりしていた。そういう悪巧みの度に、妹は嫌々ながらも俺についてきてくれた。俺と一緒にいてくれた。そんな妹がいなければ、俺はきっと何もできなかった。
 俺は、妹が大好きだった。妹も俺が好きだった。ずっと、そういう姉妹だった。
 それなのに。それなのに、何故。何故妹が死ななければならなかったのか。何故。何故何故何故。……なんで。
 ふと、床に這った一本のコードに気がついた。それをたどると、それはベッドの枕元に置かれただいぶ古い型のCDプレイヤーに繋がっていた。それは大分昔に妹が懸賞で当てた品だった。初めて懸賞で当たったからと言って、妹はそれをとても大切にしていた。
 思えば、妹はずっと、眠る前にこのプレイヤーで好きな歌手の曲を聞いていた。妹も俺と同じ歌手が好きで――というより俺の好きな歌手が好きで、いつもその歌手の話題で盛り上がったりしていた。そのプレイヤーもまた、妹と共にいたものだった。
 俺は立ち上がり、さしっぱなしだったコンセントを抜いて……何となく、そのコードを首に巻いてみた。ぐいと軽く引いてみれば、喉が圧迫されて苦しい。それでもコードが細いせいか、どんなに強い力で引っ張っても死ねる気がしなかった。
 ……何故、だと? そんなのはわかりきっている。妹が死んだのは俺のせいだ。悪いのは全て、俺だった。
 俺は妙な人間だった。何に対しても斜に構え、全ての物事に興味を示さない風でありながらその実誰よりも興味を抱いていて、物事を適当に済ませているように見せながら実は完璧で、全てを要領よくこなしていた。提出物を全く出さなかったり授業中に眠ったりしながら、それでも頭が良くていつも成績優秀だった。そんな、嫌味で皮肉屋な天邪鬼のような、ちぐはぐで妙な人間だった。
 いつも飄々としていて全てがどうでもいいように振舞っていて、そのくせ全てを愛していたから誰からも好かれて、愛されていた。そんな、いいところだけをつまみ食いしているような、とてつもなく嫌な人間だった。
 俺は首にコードを巻いたまま妹のベッドに倒れこんだ。顔をうずめた毛布からは妹の匂いがするわけでもない。ただの埃っぽい、空虚な匂いがするだけだった。俺は寝返りを打ち、仰向けになった。そこにあるのは空虚な白い天井だけだ。本当にどこを見ても、ここは空虚だ。空虚しかない。空虚。空虚空虚空虚空虚空虚。
 俺は成績優秀だった。妹は普通だった。俺は要領が良かった。妹は普通だった。俺はどんな人からも愛された。妹は普通だった。妹は普通で普通の女の子だった。だから妹は何も悪くなかった。悪いのは、俺だった。
 俺がいたから、妹は俺と比較されて育った。普通に勉強ができて、普通に友達がいて、本当に普通の女の子だった。普通ならそれで十分なはずだったのに、俺がいたためにそれ以上を求められた。お姉ちゃんはもっとできるのだから、と。親も、そして妹自身も。
 それでも妹は強くて優しくていい子だった。姉と比べられたからと言って不貞腐れることもなく自主的に努力し、俺に憧れや羨望を向けてくれていた。いつも俺を好きでいてくれた。とてもいい子だった。
 だけど或いは、それがいけなかったのかもしれなかった。本来なら嫌って当然の俺に向けた好意は、いつしか依存に変わっていたのだから。
 俺はつまり、毒のようなものだった。じくじくと体を侵食し、それなしでは生きていけなくなるような、酷い依存性のある麻薬だった。俺を慕い長い時間そばに居続ければ俺に依存し、そして俺がそばにいなくなれば……生きていけない。
「私、いつかお姉ちゃんを殺すから」
 冗談のようだったその言葉は、きっと深い部分で本気だった。妹は俺を殺すべきだった。妹は俺に依存しすぎて、俺がいなければ生きられなくなってしまうのだから。
「お姉ちゃん」
 いい子だった。明るくて強くて優しくて、普通に生きた普通の女の子だった。それで十分だったはずなのに、それを歪ませたのは紛れもない俺だった。俺が妹を殺した。そう、つまりはそういうことなのだ。俺が妹を殺した。俺が妹を殺した。
 俺は存在するべきじゃなかった。或いは妹に殺されるべきだった。妹が俺に依存する前に、妹が俺がいなくなっては生きていけなくなる前に、妹の前から消えるべきだった。死ぬべきは俺だったのだ。妹ではなく、俺が。
 じわじわと、コードを握る手に力がこもる。喉が圧迫される。苦しい。気道がふさがれて、酸素が肺に、脳に届かなくなる。本能的に口は酸素を求めるが、コードを握る手は力を緩めようとしない。このコードは細いから体重をかける首吊りをすることはできないが、こうして気道をふさいでじわじわ窒息死させるには足る。
 窒息死は最も醜い死に方なのだそうだ。死体が糞尿を垂れ流し、顔面が欝血し醜く腫れる。なんて相応しい死に方だろう。妹を殺した俺に。もっと早くに死ぬべきだった俺に。もう何もかもが手遅れになってしまった今死のうとしている、素敵に愚鈍で鈍間な俺に。
 俺たち姉妹は一緒にいられなかった。妹が依存し切ってしまう前に俺が死ぬか、依存するほど俺を愛した末に妹が死ぬか。そのどちらかしか選べなかった。
 俺も妹もお互いが大好きだった。だからこそ、どちらか片方しか生きられなかった。どちらかが死ななければならなかった。なんていびつで、歪んだ姉妹だったんだろう。それも全て、俺のせいだ。俺が毒だったから。俺が麻薬だったから。そんな俺が妹を愛したから。そんな俺を妹が愛したから。そうだ。いびつだったのは姉妹じゃない。妹ではない。いびつだったのは今も昔も……ずっと俺だった。俺だけだった。悪いのは今も昔も、そしてきっとこれからも。
 ずっと、俺なのだ。
 ぎりぎりとコードが首に食い込む。脳に酸素が行き渡らず、意識が朦朧とする。これで死ねるだろうか。妹と同じ所へ行けるだろうか。妹に会えるだろうか。もし行けたら、会えたら、まずは謝ろう。謝って、だけどきっといいよと言って浮かべるであろう、妹の笑顔を見よう。
 俺たちは一緒にいられなかった。だけどこんなにもお互いを好きだった姉妹が一緒にいられないなんて酷すぎる。だから一緒にいるのだ。あの世で。
 妹に会いに行くために、ぐっと強くコードを引く。その瞬間、ぶつんと鈍い音を立ててコードが切れた。気道を圧迫していたコードが緩み、酸素が肺に流れ込む。多分、長い間使い続けたコードは、酷使されて疲労していた。
 二酸化炭素を吐き出すような咳が止まらず、酸素を貪るように荒い呼吸を繰り返した。だけど酸素が足りない脳は未だに朦朧としていて。
 そんな意識の中で、ただ妹の顔だけが見えた。
「……嗚呼」
 そうかお前。俺のこと、大好きだもんな。


end.




cord:細綱[コード](で縛る)
-less:「…のない」「…できない」の意





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十月「コード」



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