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 キンモクセイが泣いた夜


 本宮拓海。僕の親友。家が近所で、幼稚園から高校まで一緒という腐れ縁。そういうわけで大抵の行動は拓海と共にしている。だからいつも何考えているのかよくわからない拓海の、突発的な妙な行動に真っ先に巻き込まれるのは、いつだって僕なのだ。
「ちょっと一晩付き合わねえ?」
 ほら来た。
 僕と拓海は、僕の部屋のテーブルでそれぞれ教科書やノートを広げていた。来るテストに備えて、二人でテスト勉強をしているところだった。とはいえさっきから僕も拓海もペンが進んでいる様子はない。テスト勉強なんてものは名ばかりで、あと数分もすればゲーム大会に変わるだろう。そして僕は拓海にけちょんけちょんにのされる。いつものパターンだ。
「……一晩って?」
 僕は少し前に母親が置いていった麦茶を一口飲んだ。夏の名残りのそれには氷が入っているわけでもなく、少しぬるい。
「暗くなってから明るくなるまで」
「それって朝までってこと?」
「うん」
 拓海はさも当然とでも言うように頷いた。それに僕は頭を抱えたくなる。絶対拓海はそれを肯定することの意味を分かっていない。
「拓海は僕に徹夜しろと?」
「うん。俺も徹夜だから」
 会話が噛み合ってない。こういうことは長い付き合いの中で何度もあったが、慣れるものではない。拓海のマイペースはどれだけ同じ時間を過ごしても慣れない。もしくは僕に適応力が欠けていることを嘆くべきなのか。
「付き合うかどうかは別として……徹夜までして何するつもりだ?」
「キンモクセイをむしって回る」
「……は?」




 キンモクセイ。金木犀。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木樹。中国南部原産の植物で、江戸時代に渡来。主に庭木として観賞用に植えられていて、秋になると小さいオレンジ色の花を無数に咲かせ、独特な芳香を放つ。
 僕はキンモクセイが好きだ。あの香りを嫌いだと言う人はきっといないだろう。そしてあの香りを嗅いだとき、万人は思うはずだ。ああ、秋だ。
 だからきっとそのキンモクセイがいきなり消えてしまったら、多くの人が悲しむだろう。憤慨する人も少なくないだろう。だけど僕は、キンモクセイをむしって回るという拓海を止めようとは思わなかった。
 拓海は一度言い出したら止まらない。たとえ僕が止めようとしても、拓海は僕の食事に下剤を混ぜてでもそれを実行するだろう。慌ててトイレに駆け込んで唸るぐらいだったら、僕は拓海についていく道を選ぶ。未だに拓海のマイペースについていけないけれど、拓海に逆らえばどういう目にあるのか、僕は長い付き合いの中で身を持って知っていた。
 だから僕に出来るのは、拓海がその行動の中で何を思いその先に何を見るのか、それを見極めることだけだ。
「……で?」
「あ?」
 放課後遅くまで教室に残り、夕日を見つめながら学校を出てラーメン屋に入った。その頃にはもう辺りはもう真っ暗で、夕日はもう見る影もない。さっきまであんなに明るかったのに。秋の日はつるべ落とし。そんな言葉を思い出した。
「あ? じゃないよ。なんでキンモクセイをむしりたいわけ?」
 僕は味噌ラーメン、拓海はチャーシューメンを頼んで、それぞれずるずると音を立てながら食べる。この店は学生を主な客に選んでいるだけあって、安めの値段設定になっている。味噌ラーメン五百五十円、チャーシューメン六百五十円也。安い。
「…………」
 僕の問いに、拓海はとても複雑な表情をした。それだけで悟る。言いたくないのだ。そういう場合、拓海はいつもこういう顔をして黙る。だけど拓海は黙ることはあっても、僕に嘘をついたことはない。
「……そういえば、これからどうすんの?」
「んー?」
 仕方なく僕は話題を変えた。スープの中に残っていた野菜をまとめて口に運び、適当に噛んでからスープと一緒に飲み下す。
「まだ外歩いてる人とか結構いるけど、どうするつもり?」
 僕は店の中にある時計を見た。少し前に七時を回ったところだ。この時間ではまだ道路の交通量も多いだろうし、道行く人もいる。そんな中にキンモクセイをむしって回る少年たちがいたら確実に不審に思われるか、運が悪ければその場で注意されるだろう。
「夜が更けるまで待つ?」
「まさか」
 拓海はスープを飲み干したどんぶりを置き、妙にムカつく仕草で肩をすくめた。
「この辺、結構キンモクセイ多いんだぜ。それを全部むしってやるんだから、待ってなんかいられるか」
「げ、本当に全部むしり尽くす気かよ」
「当たり前だ」
 拓海はそう言って立ち上がると、奥に「おじさん、勘定」と言って財布から千円札を取り出し、カウンターに置いた。それから僕の顔をじっと見てくるので、僕は財布から百円玉を二枚取り出して千円札の上に重ねた。僕らの間では支払いはいつも適当だ。ちなみに表記価格は税込み。
 そのまま拓海は黙って店を出て行き、僕もおじさんに「ごちそうさま」と言ってからその後を追った。数メートル先を行く背中は振り返りもせずにどんどん行ってしまって、僕は一つため息を落とし、仕方なく足を速める。
 永い夜になりそうだった。




 夜の気配の中に、微かだけれどキンモクセイの香りが漂っている気がした。甘く、どこか脳髄が痺れるような匂い。
 拓海は事前にこの辺りにあるキンモクセイをリサーチしたらしく、全く迷いなくずんずんと歩いていく。僕らはだいぶ人気のない裏通りまで来ていた。街灯も少なく、辺りは暗い。すれ違う人もほとんどいない。
 やがてと言うほど経たず、僕と拓海はひっそりとしたマンションの裏手に辿り着いた。そこでは二本のキンモクセイが見事に花を咲かせていた。近づいてもこの香りを嗅いだことはよくあるけれど、花自体をこんなに近くで見るのは初めてかもしれない。だけど近づいても予想していたほど香りが濃いわけではなかった。匂いに鼻が痛くなることも覚悟していたけれど、意外なほどに香りがない。もしくはふとした瞬間に香る、というのがキンモクセイの特徴なのかもしれなかった。
 背の高い木に、緑の半分は覆うようなオレンジがたくさん咲いている。これを全部むしるのは、ちょっと気の遠くなる作業だ。
「……これ、本気で全部むしるの?」
「当たり前だろ」
 見ると、すでに拓海は手ごろな花から無造作にむしり取っていた。足元は早くも薄くオレンジ色に染まりつつある。
「そっち、よろしくな」
 拓海は二本あるうちの一本を僕に任せ、それからはもう無心でキンモクセイの花をむしっては捨てていく。無表情で無造作に花の集まりを掴んでは、無慈悲に千切って無感情に足元に捨てる。その姿はどんなに控えめに見てもかなり非情だ。無情とも言えるかもしれない。
 僕は改めてキンモクセイに向き直った。前から言われていたこととはいえ、いざ花をむしるとなると気が引けてしまう。しかも今が盛りの花を。視覚だけでなく嗅覚まで楽しませてくれる花を。
 例えるならそれは、幼い子供の首を縊るような残酷さがある。だけどここでやっぱりやめるなんて言い出すわけにはいかない。僕はとりあえず、手近な花を一つだけつまんで千切った。
 ちらりと横を見ると、すでに拓海は全体の十分の一ほどをむしり終えていた。拓海の前だけ、ぽっかりとオレンジがない。その代わり、足元にはこの世じゃないみたいなオレンジの絨毯が広がっている。
 あれみたいだ。そう、あれ。棺桶に敷き詰めてあるみたいな。
「……やんないのか」
 気づけば、拓海が手を止めて僕を見ていた。相も変わらず無表情だ。だけど僕には何故か、捨てられた子犬のように見えた。そんなに可愛いもんじゃないけど。
 僕はまた一つため息をついた。ここまで来たからには拓海を一人置いて帰るわけにもいかないし、それにマンションの裏手とはいえ、住民がベランダにでも出ればすぐに見つかってしまう。だったら二人で早く終わらせた方がいい。
「やるよ」
 今度はいくつかまとめてつかんで捨てた。ぱらぱらと小さな花が地面に落ちる。涙みたいだった。




 結局、そのキンモクセイの花を全てむしるのに一時間以上かかった。小さな花一つ残さず徹底的に。手の届かないところは足場に丁度いいビール籠を見つけてきていくつか積み、それに乗ってむしり取った。おかげでキンモクセイは緑一色になって、足元のオレンジの絨毯がなければそれがキンモクセイとはわからなくなってしまった。
「じゃ、行くか」
 拓海は二本の木に花が一つも残ってないことを確認すると、軽く手をはたいて歩きだした。その手が若干オレンジがかかって見えるのは、きっと錯覚なのだろう。
「次、コンビニの向こうの裏道な」
 拓海の横に並び一度だけ振り返ると、薄暗闇の中に手足を切り落とされたみたいなキンモクセイの木と、天国みたいなオレンジの絨毯が見えて、何となく墓場みたいだな、と思った。
「なあ、ちょっと休憩しない?」
「もう疲れたのか? まだ一ヵ所目だぞ」
「いや、なんて言うか、気疲れ? 見つかるかもしれないってずっとハラハラしてたから肩こっちゃって」
 軽く肩を叩いて見せると、拓海はわかった、と頷いた。
「コンビニでなんか飲むか」
 その十数分後に辿り着いたコンビニで、僕は紙パックの紅茶を拓海はペットボトルのお茶をそれぞれ買い、駐車場の車止めに腰かけて喉を潤していた。
 今はまだ深夜と呼ぶには早い時間だから、駐車場には二三台の車が停まっていた。コンビニを利用する客の出入りも結構ある。だけどこれからはどんどん人が少なくなって、やがて誰もいなくなる。そうなれば僕らは自由に動ける。さっきみたいに、誰かに見咎められるかもしれないとびくびくすることはない。それはとても楽だ。
「……そろそろ教えてくれてもよくね?」
「何が?」
「キンモクセイむしる理由」
 拓海はまたとても複雑な顔をした。だけど今度は話題を反らすことはしなかった。今度は答えてくれる気がしたから。
 拓海は複雑な表情のまま、がじりとペットボトルの口を噛んだ。少しだけ長い拓海の八重歯が覗く。
「……痛いから」
 続く沈黙にやっぱり答えてくれないかと諦めかけたとき、拓海はぽつりと小さく呟いた。
「え?」
 思わず聞き返すと、拓海はこっちを見た。ぼそぼそと動く唇と、濃い色の瞳孔が妙に目に焼きついた。
「痛いから」
 拓海はもう一度同じように呟いた。僕に問いに答えたと言うよりは、自分の感情を確かめるような独り言の響きがあった。
 その言葉に何も言えないでいると、拓海はお茶をぐいっと煽って飲み干し、空のペットボトルをゴミ箱に放った。がこんと音を立てて、ペットボトルは見事にごみ箱に収まる。
「行くぞ」
 拓海はふらりと歩き出した。幽鬼みたいな後ろ姿に慌てて立ち上がり、まだ中身が残っている紙パックをゴミ箱に突っ込んだ。勿体ない。あとごめんなさい。
 足を速めて拓海を追いかける。深淵に似ている拓海の瞳を思い出した。
 痛いから。




 秋に入りかけた夜は長い。だけど近辺のキンモクセイを十ヶ所以上回ったころには、空が白み始めていた。
「……夜が明けるな」
 これで最後だというキンモクセイは、川辺の遊歩道の近くにあった。それを大体むしり終わったころにはすでに空は白み、街は朝の気配を取り戻し始めていた。秋の朝は青白く、どこか鈴が鳴るような冷たさがある。
 拓海は黙々と、相変わらず無表情に或いは無情にキンモクセイをむしっている。一晩中キンモクセイをむしり続けた手は、色が移ったのかオレンジがかって見えた。僕の手もそうなっているのかもしれないと思うが、じっと見ても明確な差異は見当たらなかった。
 川辺に一本だけ佇むそのキンモクセイをぐるりと一周見て、花が残ってないか確認する。そこで僕は木の奥の方に残っていた花を見つけ、多分それが、最後のキンモクセイだった。
「これ、ラストだな」
「……うん」
 深夜を過ぎたころからずっと無言だった拓海が小さく頷く。僕はぐっと背伸びして腕を伸ばした。いくつかの枝や葉が僕の手を引っ掻いて、だけど僕の指先は花をつかまえる。そうして少し力を入れてやれば、花はあっけなく枝から離れぱらぱらと地に落ちていった。
 何度でも思う。涙みたいだ。
「これで終わりだな」
「うん」
 僕は瞼が重くなりすぎて妙に冴えてしまっている目をこすった。体には嫌な倦怠感が残っている。さすがに夜通し動き回っての徹夜はきつかった。
 だけどもうすぐ夜が明ける。東の空が夕焼けとは違う茜色に染まり、西の空にはまだ夜が残っている。街には薄ぼんやりとした青白い霞がかかり、全てが冷たく静まり返っている。
 夜明けは好きだ。熱源を失ったように冷たくて、生命が死に絶えたように静かな雰囲気が好きだ。だからこの体のだるさを補って余りあるほどの価値が、この風景にはある。
「駄目なのか」
 ふいに。
 横から聞こえた声に、僕は拓海を見る。拓海は僕と同じように夜明けを見ていた。だけど同じではない。同じではなかった。拓海の深淵に似た瞳には、うっすらと光るものが浮かんでいた。
 反射的に見てはいけないと思った。これは見ていいものではない。でも固まってしまったかのように、視線はそこから外れなかった。拓海の涙から。
「……駄目なのか」
 その声には悲哀が滲んでいた。唇からこぼれた瞬間に滲み掠れて消えてしまうような、何て弱々しい声。こんな拓海の声を僕は今まで聞いたことがない。
 その声に呼応するように、ゆっくりと目の光が膨らんでいく。その様はどうしようもないぐらいに痛々しかった。
 夜が明ける。拓海の諦めたように閉じられた瞼から一筋の涙がこぼれ、それは遠くの稜線から顔を出した太陽の光を反射して、キラキラと光っていた。そしてそれは同時に、青白かった街を茜色に染めていく。
 もうどこにもないはずの、キンモクセイの香りがした。




 その日、拓海に付き合わされて徹夜した僕は、それでも睡眠を欲する体に鞭打って登校した。
 通学路の途中には昨晩むしって回ったキンモクセイがいくつかあって、そこには例外なく人が集まっていた。さりげなく耳をそばだてていると、大抵は花がむしられたことを嘆く声や、その悪戯への憤慨の声を上げていた。その気持ちはよく分かる。僕だってそれを恐れて昨晩キンモクセイをむしることを躊躇したのだから。でもこれは、あの夜は、大した意味がないわけではないと、少なくとも僕は今そう思っている。
 そうじゃなかったら、あの拓海が涙なんて見せるものか。拓海にとってあの夜は、とても重大な意味を持っていたのだ。それを僕は知らないけれど、今はもう、それで充分だった。
 やがて学校に着き昇降口で靴を替えていると、すれ違った女子が裏口近くにあるキンモクセイの話をしていた。この学校の近辺も昨晩の行動範囲に含まれていて、裏口にあるキンモクセイも例外なくむしりつくしていた。その女子の話に聞き耳を立てていると、やはり話題はそのことについてだった。花をむしるなんて酷い、という言葉が強調されていたのか、妙に耳についた。
 酷い。それをしたのは紛れもない僕自身だというのに、なぜか罪悪感とか、そういう後ろめたさはなかった。あるのは、酷いと言われてもそれが違う世界の言葉のように聞こえる、薄ぼんやりとした感覚だけ。
 あくびをかみ殺しながら廊下を歩いていると、廊下で談笑していた友人にまたゲームか? とからかわれ、それにちげーよ、と返して教室に入った。教室にはちらほらと生徒が散らばり、それぞれ好きなように談笑していた。その中で誰かとしゃべるわけでもなく席に座っている生徒の一人、拓海と適当な挨拶を交わし、窓際の自分の席に着く。
 僕の席の斜め前にいる拓海の背中をぼんやりと眺めて思う。あの夜は何だったのだろう。近辺のキンモクセイをむしって回り、夜明けに拓海が泣いたあの夜は――少なくとも僕にとっては、一体どんな夜だったのだろう。
 ふとそのとき、キンモクセイの香りがした。少し驚く。だってもうこの辺りにキンモクセイはないのだから。思わず拓海を見たけれど、拓海は無表情な背中を僕に向けているだけで、何か変化があるわけでもなかった。
 一瞬だけ鼻に感じたキンモクセイの香りは既にない。錯覚、だったのだろうか。昨晩あれだけキンモクセイの香りをかぎ続けたのだからそれも頷けるが、なんだか妙な感じがした。
 釈然としないまま頬杖を突いて外を眺めると、またキンモクセイの香りがした。次は気付く。指先。
 僕は指先を鼻に近づけてみた。キンモクセイの香り。すでにないはずの香りの正体は、これだった。昨晩一晩中キンモクセイをむしり続けたせいか、その指先に匂いが移ってしまっていた。
 僕は自分の手をじっと見てみた。オレンジがかっているように見えるのは錯覚ではなく、きっと一晩中むしりつくしたあのキンモクセイたちがそこにいるからだ。
 僕はその両手で鼻と口を覆ってみた。その閉じられたわずかな空間が、キンモクセイの香りに満たされる。そっと目を閉じれば、キンモクセイが泣いていたあの夜が、瞼の闇に蘇っていく。



 僕の指先の中で、あの夜は朽ちることのない永遠だった。



end.


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