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斜めの先にあるものは


 人生は限りのない斜めの直線なのよ。
 ずいぶんと昔に付き合った女が、そんなふうに言っていたことを思い出した。だけどもうあまりに古い記憶だから、女の名前も顔も思い出せない。それでもその女が口にしたその言葉と、言葉を紡ぐやけに紅い唇だけは、酷く鮮明に頭の中に映し出される。
 人は生まれた時、誰もがその真ん中にいる。上に近いわけでもない、下に近いわけでもない、完全な中心にね。それから人は上に上ったり下に下ったりする。上るのは大変だけど、それは上昇よ。良い方に向かってる。下りは楽だけど、それは転落よ。悪い方へ転がり落ちてしまう。
 さて、あなたは今斜めのどの辺りにいるのかしら?
 女が挑むように、或いはからかうようにそう訊いてきたことを覚えている。私がどう答えたのかは覚えていない。苦笑いで誤魔化したのかもしれない。私の性格上、それが正しい気もする。
 過去のことを思い出すなんて、感傷にでも浸りたい気分なのだろうか。私らしくもない。きっと薄暗い闇に一人というこの状況が、そんなことを考えさせているのだ。そうであると思いたい。
 私は小汚い路地裏を一人歩いている。私以外誰もいない。野良猫一匹いない。それが私にとって良いことなのか悪いことなのかはわからない。おぼつかないどころか、壁に半ば寄りかかるようにして歩く異様な姿を人に見られないことを喜ぶべきなのか。そんなになってまで目的地へ向かおうとしている私を、誰も止めてくれないことを悔やむべきなのか。
 足にうまく力が入らない。視界もぼやけて全てが朧だ。ふと、何時だろう……と左手首を見たが、そこに腕時計は巻かれていなかった。家に忘れてきたのだろうか。いや、そもそも私は腕時計を持っているのだろうか。いや、待て、私は今ほとんど無意識に手首を見たではないか。腕時計を持っていなかったらそんな癖がついているわけがないだろう。
 思考がままならなくなっている。記憶が混濁している。早く薬を買って打たなければならない。まさかこれほど消費が早いとは思わなかった。あの時ケチらずにもっと買っておけばよかった、と悔恨が頭の中を走り抜ける。いや、後悔など無駄だ。今は一刻も早く目的地に着くことが先だ。金なら持ってきた。だから早く、早く。
 下りるのは簡単だから、人間は大抵下りることを選んでしまうわ。楽な方へ楽な方へとどんどん下っていって、どんどん転落していって、だけど斜めに限りなんてないから、際限なく落ちていってしまう。落ちて墜ちて堕ちて――その先に、人は何を見るんでしょうね?
 やけに鮮明な女の声が、濃い霧でもかかっているような頭の中に響く。何故こんなことばかり思い出しているのだろう。今朝の記憶すら曖昧になってきてしまっているのに、何故こんな昔のことを。
 何故といえば、何故こうなってしまったのか。覚えていない。明らかに危ない薬に興味本位で手を出してしまったことは、覚えている。それから、それから……何故、こうなってしまった?
 私はそれを見ていないから確信は持ってないんだけど、きっと斜めをひたすら下りた先には、エスカレーターがあるのよ。ある程度まで下ってしまえば、あとはもう自分の意志とは関係なしに、エスカレーターで下りていってしまう。堕ちていく人って、大抵そうでしょう。
 そういえば、女がそんなことを言っていたことも思い出す。もしかしたら私はそのエスカレーターに乗ってしまったのだろうか。おそらくは、あの薬を買った時に。それから自分では意識していなくても、ここまで堕ちてきてしまったのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、目的地に着いていた。低俗なスナックの横に、地下へと降りる階段がある。その先が、一番初めにあの薬を購入した場所だ。
 夜の闇も相まって、階段の下には黒々とした闇がわかだまっている。それは夜の海のような深淵を思わせ、私は背筋に寒気が走るのを感じた。寒気とはつまり、恐怖だ。だけど私は止まれない。否、止まらない。
 私は駆けるような速度で階段を下りていた。止まろうとしても止まらない。足が勝手に動く。止まらない。
 斜め。この階段はあの女の言う斜めをそのまま体現しているようだった。知らず笑いがこぼれる。可笑しかった。あの女の言っていたことは真実だったのかと、一瞬でも世界の真理を見たような気になった、自分が。
 斜め。エスカレーター。落ちる。落ちて墜ちて堕ちていく。
 別に転落したいわけじゃないけど、私はその斜めの先を見てみたいのよ。落ちて墜ちて堕ちたその先に、限りなんてないはずのその先に、何があるのか。
 また、思い出した。遠い記憶の女の唇が紡ぐ言葉。その名も忘れてしまった過去の女に向かって、私は思う。今の私なら、それに答えることができる。斜めの先には、夜の海のような真っ暗な深淵があるのだ。いまこここそが、斜めの先だ。そしてそこをまだ私は、堕ち続けている。
 その時、がくんと世界がぶれた。なんてことはない、足を踏み外しただけだ。だが私はそれでバランスを崩し、ついでに足をもつれさせて転倒した。全身をしたたかに打ち、打った箇所が鈍い痛みを脳に訴えかけてくる。だがそれを気にかける間もなく、私は階段を転がり落ちていく。いろんな所に手足を打つ痛みが体に走り、回転する視界に吐き気がした。
 だがその瞬間、後頭部をがつんと貫く衝撃と共に、体から意識だけが放り出されたかのように感覚全てが抜け落ちた。
 そして全てが抜け落ちたそこに存在したのは、圧倒的な虚無。
 ああ、私は間違っていた。落ちて墜ちて堕ちたその先、斜めの先にあったのは真っ暗な深淵などではなく、それよりもなお暗い、死すら甘美に思えるほどの虚無だったのだ。
 そしてその圧倒的な虚無の中を、私は声なき声で絶叫しながら、さらなる深淵へと落ちていった。



end.


月別御題
五月「斜め」


あきゅろす。
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