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 覚えているのは、病院の生と死が混ざり合った匂い。揺れる琥珀色の髪。それから、ぎらぎらと野望を孕んで光る真紅の瞳。





  encounter






 壱夜はあまり病院というところが好きではない。
 生と死が、喜びと悲しみが交じり合う雰囲気や、消毒の匂いが染みた空気に酔ってしまうような気がするからだ。なんとなく壱夜は、こんなところに放り込まれたら数週間もしないうちに自殺するだろうなあと思う。そういう雰囲気が、ここにはある。
 壱夜は黒いコートを翻し、病院の中を歩く。
 壱夜があまり好きではない病院の中を歩いているのは、仕事のためだ。壱夜はこの病院に入院している患者を殺すよう依頼された。その患者の家族に。
 こういうことは珍しくもない。治る見込みのない、もしくは治っても生きている意味を見出されない人間は、入院料や薬代を減らすために家族が殺し屋に殺害を依頼するのだ。まあつまりは、食い扶持減らしだ。
 壱夜は目的の病室に辿り着く。名前も確認する。間違いない。
 壱夜は病室に入った。そこは個室で目的の人物のベッドしかない。病室の扉を閉めてしまえば、外の喧騒は一切聞こえなくなりそこには酸素吸入器の音しかなくなる。
 静かな部屋で唯一のベッドに歩み寄る。そこにいたのは、ベッドの白に覆われている枯枝のような、痩せ衰えた老人だった。酸素吸入器と点滴でやっと命を長らえているような、あまりに弱々しい、老人。
 一目見ただけで殺害の依頼に納得できた。この老人にはきっともう、自力で生きる力もない。
 家族はもうずっと見舞いに来ていないのか、ベッドのサイドテーブルにある花瓶の花はとっくに枯れていた。それはまるで、老人の姿を暗示しているようにも見える。
 壱夜は酸素吸入器のコードを抜いた。それだけで酸素吸入器の電源が落ち、断続的で耳障りな音が消える。わざわざ刀を汚すほどでもない。これで数分後にはこの老人は死ぬだろう。こんな細く弱いもので命を繋いでいたのかと思うと、なんだか哀れにさえ思う。
 さて、この仕事は終わった。さっさと帰ろう。やっぱりこの病院の雰囲気は嫌いだ。息が詰まる。
 そう思い振り返ったときだった。壱夜はずいぶんと久しぶりに驚き目を見開いた。
 振り返った先、この病室の出入り口。壱夜は間違いなく扉をしっかり閉めたし、依頼主の家族は仕事の邪魔にならないよう見舞いには来ないようにと言っておいた。それに今は食事も検診もない昼下がりだから、この部屋に入ってくる人間など一人もいないはずだ。加えて、誰かが入ってきたとしても、その気配や音で壱夜はすぐにそれに気付くことができる。その、はずなのに。
「誰だ……?」
 壱夜の視線の先。病室の入り口の扉の前に、壁に寄りかかるようにして立つ少女がいた。腰ほどまである長い琥珀色の髪はぱさついてほつれ、顔色もかなり悪い。額には細かく汗が浮いていて、それに前髪が張り付いている。少女が着るパジャマの左袖は、空っぽだった。右袖から覗く右手も、何故か厚く包帯に巻かれている。
 そして何より目についたのは、真紅のその瞳だ。炎より紅く血より深いその色に染まった瞳は、壱夜を殺そうとしているかのように、強く睨みつけてくる。
 そんな剣呑な雰囲気や、体調が悪そうなところを除けば、なかなか美しい少女だった。穏やかに微笑んで見せれば、男の一人や二人は簡単に惑わすことができるほどに。
 だけど彼女は、その美しい顔にどこか狂気的な笑みを浮かべていた。乾いてひび割れた唇を引きつらせるように歪め、濃い隈が浮かぶ目をらんらんと光らせている。まるで、同族を見つけた狂信者のように。
「……見た、ぞ」
 ひきつった唇から、酷く掠れた声が漏れる。これを契機としたように、少女は身を捩じらせて笑い出す。
「はは、あはははははは! 見た、見たぞ。お前、そのじじいを殺すつもりなんだろ? だから今機械のコードを抜いたんだろ? そうすればそのじじいは手を煩わせることもなく死ぬもんな! お前が殺すんだ! なあ!」
 何が可笑しいのか、少女はけらけらとさも可笑しそうに笑っている。その姿は奇妙を通り越して不可解だ。その不可解さに、壱夜は珍しく眉根を寄せる。
「お前、なんだ?」
「は! 『何』? 何だろうなあ俺は! 俺は何者で何様でなんでここにいるんだろうなあ!」
 からかうように叫んだ少女は、気が触れてしまったかのように哄笑する。そのけたたましさに、壱夜は少し不安になる。この哄笑が外に聞こえて誰かが来てしまったら、少し厄介なことになる。この少女の正体もわからぬままここから追い出されるだろうし、最悪誰かが老人の酸素吸入機の電源が落ちていることに気付いてしまうかもしれない。そうなったら次の暗殺は困難になるし、壱夜はそんな面倒なことは好まない。
「お前、殺し屋だろ」
 くすくすと、未だ収まらない笑いを含んで、少女が問うてきた。何もかもを見透かそうとしているかのような、鋭い目をしている。
「知ってるぜ。世の中には人に依頼されて人を殺す奴がいるんだ。それがお前だろう? 人を殺して生きてる最低の人間だろう?」
 最低、と言われても、壱夜は眉一つ動かさなかった。元々壱夜はほとんど動じることのない人間だ。
「なあ、お前、リベラルアームスに興味はないか」
「何?」
 少女が唐突に口にしたその名に、思わず片眉を上げる。
 リベラルアームス。壱夜も名ぐらいは知っている。世界中を旅し、力で以て犯罪を防止する、自由な武器。
 興味がない、ということはない。ただ殺し屋の方が楽だし儲かるから、殺し屋をやめるつもりはなかった。
「なあ、交渉、しようぜ」
 そんな壱夜に、少女は嘲るようにそう言った。
「交渉?」
「そうだ。俺は今見たこと、全部忘れる。そこのじじいがどうなろうが、俺は誰にも何も言わない」
 それを聞いて、壱夜は納得する。この少女は壱夜に脅しをかけているのだ。よりによって、この壱夜に。
「だからその代わり、俺をここから出せ。病院から連れ出して、俺と一緒にリベラルアームスをしろ」
 この老人を殺したことを人に話されたくなければ、自分を外に連れ出せと、そう脅しているのだ。この少女は。
 その根性に、壱夜は気付かれない程度にため息をつく。よりによって最強の壱夜を、少なくとも殺し屋だとは分かっている相手を脅そうとしているのだ。その根性は称賛に値するものがあるが、同時に無謀で、そして愚かだ。
「……何か勘違いしてないか」
 ふう、と落としたため息の間に、壱夜は強く床を蹴る。一瞬でマックススピードに達するその跳躍は、少女から見れば瞬間移動でもしたように映っただろう。それほどの速さに少女は反応すらできず、いとも簡単に壱夜に襟口を取られる。
「ぐっ!」
 襟口をいきなり持ち上げられて、少女は苦しげに息を詰まらせる。十センチは身長差がある壱夜の顔近くまで引っ張りあげられて、少女のつま先がなんとか床を掠めるほどにまで持ち上げられる。
 ものすごい腕力だった。
「俺はいつでもお前を殺せる。口封じなんて簡単だ。それこそそこの老人を殺すのとそう変わらない。それにどっちにしろ……お前がこの老人を殺したのが俺だと振れ回っても、ここからお前の他殺死体が発見されても、俺には何の問題もない。……この意味がわかるか?」
 額に脂汗を浮かばせながら、少女はぎりりと歯を軋ませる。
 壱夜は殺し屋だ。しかも向かってくる名立たる殺し屋たちを一蹴してみせた、最強の殺し屋だ。その壱夜が今小娘一人殺したところで、何も変わりはしない。壱夜が殺した莫大な数の人間の中に、その希薄な名を連ねるだけだ。
「わかったなら、ここから出ようなんて考えないで、大人しく病室に戻るんだな。こんな腕をした小娘に、一体何が出来るんだ?」
 空いた手で、少女の空っぽの左袖を弾く。それは虚無を表すようにひらりと軽く翻って、何もない。
「病人はここで治療を受けてろ。……さっきから、顔色が悪いぞ」
 壱夜は襟口を掴んでいた手をわずかに緩める。警戒して手を離すことはしないが、それでも半分宙に浮いていた少女のつま先は地につき、少女はわずかな支えと、呼吸の自由を手に入れる。
 気道を圧迫されていた少女はごほごほと何度か咳きこみ、呼吸出来なかった分を取り戻すように荒い息を繰り返す。その荒い息の中で、少女はか細く、声を漏らした。
「……ふ、ざけるな!」
 壱夜が反応したときには、少女の腕は鋭く振り上げられていた。その厚く包帯に巻かれた手には、光るもの――メス。床を蹴り二歩後退して少女から離れるが、頬には既に一筋血が伝っていた。隠し持っていたらしいあのメスで、頬の皮を一枚、縦に切り裂かれていた。それは少女に何の力もないと完全に油断し切っていた、壱夜のミスだ。
 思えば少女は、壱夜に全く察せられることなく、この病室に入ってきていた。壱夜も油断していたとはいえ、戦闘のいろはも知らない素人に出来ることではない。その少女に対して、あの近距離で油断する方がどうかしていたのだ。
 少女は荒い息のまま、わずかに血のついたメスを壱夜に向けて身構えている。その構えも、一般人にしては隙がない。息は荒いが、その唇は笑みを刻んでいた。挑戦的で猟奇的で、しっかりと殺気を込めた唇。
 やはりこの少女は、どこかで戦闘の教養を受けたと考えるべきだろう。もしくは、余程の才能があるのか。
「いつでも俺を殺せる……だって? ふざけるなよ。俺は死ねない。死ぬわけにはいかないんだよ! 俺は生きてやらなきゃいけないことがある。それまで死ぬわけにはいかないし、こんなところでちんたらしてる暇もないんだ! これが最初で最後のチャンスなんだ! やっと見つけた、ここから出る手段だ! この機会を逃したら、俺はもう、どうしたらいいかわかんねえんだよ!」
 或いは、必死の懇願のような叫びと同時に――
「お、わっ!」
 少女の体からふっと力が抜け、その体が崩れ落ちる。壱夜はとっさに手を伸ばし、その体が床と激突する前にしっかり抱きとめる。
 見ると、少女は気絶していた。意識を失った白い顔に大粒の脂汗を滴らせ、さっきまで気丈な言葉を吐いていた唇はいつの間にか真っ青になっている。
 どうやら弱っていた体を無理して動かしていたために、体力が限界を迎えたのだろう。いきなり気絶するほどの無茶をするとは、本当に根性のある女だ。
 ふう、と三度ため息を落として、思う。軽い。何という軽さだろう。十代後半の、年頃の娘にしたって軽すぎる。片腕を失った、しかも病人だということを思えば納得はできるが、さっきの気丈さとのギャップに、動揺を隠せない。
 さて、どうしようと思う。今ここには壱夜と少女、二人だけだ。この少女をここに一人捨て置くわけにもいかないだろう。
 しかたなく、少女の頬を伝う汗を拭いその華奢な体を抱き上げる。薄い呼吸を繰り返す少女の寝顔は、酷い疲労の色を映した、だけど幼い表情だった。




 病室を出て近くにいた看護婦に声をかけると、その看護婦は壱夜の腕に抱えられた少女と壱夜の頬の傷を見てひどく狼狽した。壱夜を少女の病室に案内し少女をベッドに寝かせると、看護婦はこっちが恐縮するほど何度も頭を下げた。
 聞けば、少女はこの病院でも一番の問題児であるという。とある男にいきなり担ぎ込まれてから、片腕を失った少女は発狂したように暴れ、何度も自殺しようとして看護婦たちに押さえつけられたという。それから自殺しようとすることはなくなったが、病状が安定していないのにも関わらず病室を抜け出し、この病院から出ようとして何度も倒れているらしい。
「……その、こいつを連れてきた男は、どんなやつだった?」
 壱夜は一連の話を聞いて、少し考えた後看護婦に問うた。
「え、私はその場にはいなかったんで……」
「聞いた話でいい」
 動じる看護婦を促して、壱夜は考える。少女のあの戦闘のセンス。あの異常さ。そして狂気に滲んだ、真紅の瞳。それは壱夜の妙な予感も相まって、ある一人の人物に結びつこうとしていた。
「ええとですね、男の人にしては真っ黒で綺麗な長い髪だったって言ってました。あとそれから、この子と同じ紅い目だったそうです。結構背が高くて、かっこいい人だったそうですよ」
「……そうか」
 それだけ聞けば十分だった。嫌な予感は膨れる。背筋を嫌な汗が伝った。
「最後に一つだけ、聞いていいか」
「はい、何でしょう?」
「この子の……この子の、名前は?」
 もしこの予感が当たったのなら。或いは壱夜は、とんでもない人間に目をつけられたのかもしれない。
「えっと、ゆうき……ゆうき、です。天祐のゆうに、ひめ、で祐姫」
「祐姫……」
 低い声でその名を呟いた壱夜は、ありがとうと看護婦に礼を言い、それからこの子が目を覚ますまでここにいますと言って看護婦を追いだした。
 看護婦がいなくなった病室で、壱夜は改めて少女……祐姫と向き合う。
 ここは個室だ。だから病室には壱夜と祐姫、二人きり。静かなその空間で、壱夜はそっと眠る祐姫の掛け布団をめくった。露出したのは、祐姫の右腕。厚く包帯に巻かれた――隠された右手。
 壱夜はそっと包帯をほどき、それを解く。珍しく、心臓が高鳴っていた。予想しているものが、そこになければいい。そう強く願った。なければいい。予想など外れればいい。祐姫がただの、少女であればいい。
 厚く巻かれた包帯が、ゆっくりとほどけていく。その先にある、人間の皮膚には有り得ない硬さに、壱夜は諦めるように目を閉じる。
 包帯はほどけきった。壱夜はゆっくりと目を開ける。その先に見たのは、包帯の白から覗く琥珀色。祐姫の髪の色ではない、硬い鱗の、忌子の変異である恐竜を思わせる鱗の、琥珀色だった。
 壱夜はまた、ため息を落とす。これで決定だ。少女、いや、祐姫の正体は。
「祐理……」
 壱夜と並ぶ最強のリベラルアームス、祐理の娘だ。




 こんな厄介なことになったからには、もう逃げるしかない。
 壱夜は祐姫が目を覚ます前に、病院のエントランスに逃げてきていた。祐姫が目覚めてまた外に連れて行けなどと言われたら、それからはもう逃げ切る自信がない。しかもよりによってあの祐理の娘だ。そんなのに付きまとわれることを想像すると、ぞっとしない。一刻も早く手を引くことに越したことはないのだ。
 先ほどの老人は、さっき生死を確認してきた。老人は眠るように死んでいた。あれから誰にも見つかることなく、死を迎えたのだろう。壱夜は何の感慨もなく、ただ無事に依頼を達成できたことに胸を撫で下ろす。
 依頼が済んだ今はもう、この病院に用はない。祐理の娘がいる病院に長居する理由などどこにもない。だから壱夜は、一刻も早くこの病院から離れようと、出口へ向かう。
 だがその途中、目の端を掠めた黒い姿に、思わず足を止める。
 それは見知った姿だった。壱夜は気付かれないように思わず止めてしまった足を再び進め、二三歩進んだところでゆっくりと振り返る。
 その男は、エントランスに多数設置されているベンチの一つに座った。艶やかな長い黒髪を後ろでまとめて垂らし、壱夜と同じような黒いコートを纏ったその姿。今はこちらに背を向けているため見えないが、一瞬だけ見えた顔も、記憶にある人物と一致する。鋭く尖った攻撃的な目。余裕と嘲りに歪んだ唇。それでいて整った顔立ち――全て、昔と全く変わらない。
 壱夜はゆっくりとその男に近づき、男が座るベンチの反対側、背中あわせになる席へ座った。
「久しぶりだな」
 すぐに、背中の向こうから声がかかってきた。男は足を組み、持ってきた新聞を大きく開いたようだった。新聞は周囲に口の動きを見せないための壁だろう。
「どうしてお前がここにいる? ……紫暮」
 紫暮。それが男の名だった。紫暮は、かつて壱夜の殺し屋仲間だった男だ。一人では手に余る依頼を協力しては、報酬を山分けにするギブアンドテイクの間柄。実力があり頼れる「協力者」ではあるが、決して「仲間」ではない、そういう関係だ。しかも紫暮の場合、壱夜が最強と呼ばれ始めた頃から、壱夜に対し不意打ちを含めた戦いを過去四度にわたって繰り広げていた。その結果は壱夜の四戦全勝に終わっているのだが、紫暮は懲りずに未だ壱夜の命を狙っている。そして壱夜も紫暮を警戒し、超危険人物として紫暮に隙を見せないようにしている。
「はっ。最強のお前がいるから……とでも言いたいが、今回は残念ながら偶然だ。俺もここの患者に用があってな」
 紫暮が壱夜を狙っている理由は、至極単純に「強いから」だ。紫暮は異常なほどの戦闘狂だ。戦闘の中にこの上ない快楽を覚える人間なのだ。だからひたすら自分の欲求に応えてくれる強者を求めている。自分とスリリングな戦闘を繰り広げてくれる強者を。自分をもっと強くさせてくれる強者を。そしてその条件に、壱夜がぴったりと一致してしまっただけなのだ。
 最強かどうかは関係ない。ただ壱夜が強いから。紫暮を負かすほどに強いから、紫暮は壱夜に執着している。正確には壱夜を殺すことに執着している。過去四度紫暮を負かしている壱夜は、よりよい紫暮の好敵手となっているのだ。
 そしてそんな至上に面倒臭いことに巻き込まれている壱夜は、とんでもなくうんざりしている。
「殺し屋の依頼、か。それで同じ場所に居合わせるなんて本当に偶然だな」
「ははっ。お前それ、本気で言ってんのか?」
 ざわり、と背後で殺気が揺らいだ。戦闘狂で同時に最強に近い紫暮にしか出せない、密度の濃い殺気だ。
「お前も同じ獲物を狙ってんだろう? ここにいる、最強最悪の娘を」
 壱夜はその言葉に瞠目した。嫌な汗が一気に噴き出る。まさか。
「まさか……」
「最強のリベラルアームス、祐理の一人娘、祐姫。そいつが祐理の変異を受け継いでここに放し飼いにされてる。これを放っておく道理があるか?」
 呼吸が止まった。祐姫は今病室で眠っている。何も知らないで眠っている。いや、祐姫はこれを知っていたからこそ、あんなに必死に懇願したのではないか。もうすぐ自分の自由を奪う輩がやってくるのを知っていて、だからここを出たいと叫んだのではないか――
「今、いくつもの組織が祐姫を獲得しようと躍起になってる。俺も十を超える組織から祐姫を連れて来いと依頼を受けた。どの組織に受け渡すかは、報酬で決めるがな」
 血の気が引いた。余計な厄介事には首を突っ込みたくはない。だけど少なくとも、今祐姫は自由を奪われるべきではない。あんなに弱り痩せ細った少女が、野望と欲望に狂った男どもにいいように扱われていいわけがない。
「まだ十八の小娘が役に立つかは正直微妙だが……、素質があることには変わりない。仮に使えなかったとしても、女なら慰み者にはなるだろうしな」
 紫暮はそれで話は終わりとでも言うように、新聞を畳み立ちあがった。それを見ずとも気配で感じ取った壱夜は、ゆっくりと腰の刀に手を伸ばし、そして神速の抜刀で背後の紫暮に斬りかかった。
「はははははは!」
 確実に捉えたと思った切っ先は、何もない空間を空振る。紫暮は一足飛びで刀の間合いから離脱し、壱夜を嘲るように嗤う。
「珍しいこともあるもんだな、壱夜! 女に情でも移ったか?」
「違う」
 壱夜が短く否定する間にも、いきなりの抜刀騒ぎにエントランスは大混乱に陥っていた。多くの人々が壱夜と紫暮から離れ、出口に殺到する。
 そんな混乱を余所に、壱夜と紫暮はじりじりとお互いの間合いを測る。紫暮は懐から鋭利なナイフを取り出した。
「久しぶりにお前と切り結ぶのもいい、が……いいのか?」
「何がだ?」
 壱夜は刀の切っ先を紫暮に向けて、いつ攻撃されても対処できるように身構えている。その壱夜に、紫暮は嘲るように言う。
「祐姫を狙う輩が、俺だけだと思ってるのか?」
「――――っ!」
 息を呑む。その瞬間、上の階から次々とガラスを割るけたたましい音が聞こえた。次いで、布を裂くような女性の悲鳴。
「……くそっ!」
「悪いな壱夜。今はお前を相手してる暇はないみたいだ」
「それは……」
 壱夜はコートの内側に手を突っ込む。そこにいくつか入れている筒状の物体を掴み、引っ張り出すのと同時に床に叩きつける。
「こっちの台詞だ!」
 瞬間、空間に満ちたのは、光。
 網膜を焼くほどの、強烈な光だった。
「……っ、!」
 空間全てが白く染まる中で、壱夜は紫暮が驚愕し歯噛みする気配を感じ取った。少なくとも紫暮の足止めにはなっているようだ。
 壱夜が使ったのは、強力な閃光弾だ。殺傷能力は皆無だが、強烈な閃光を数秒にわたって発することで、目にした者の視界を一時的に奪うことができる。これで紫暮の視界を数分間奪い、同時に足止めをすることが出来た。
 壱夜は未だ消えない光の中、目を瞑ったまま二階への階段へ走り出す。万人全ての網膜を襲い視界を奪う閃光弾だが、それは壱夜にだけは通用しない。
 その時壱夜の「鷹の目」がピピ、と反応し、白一色に染まっているはずの視界を正確に映し出した。壱夜が持つ唯一無二の「鷹の目」に、一切の目潰しは通用しないのだ。
 壱夜は階段を駆け上がる。はやる気持ちを抑えて、だけど出来る限りのスピードで、壱夜は祐姫の病室へ急ぐ。
 祐姫の病室は二階だ。だけど階段からは少し遠い。廊下に駆け込むと、むっとした血の匂いが鼻についた。廊下一面には割れたガラスが散らばっている。その上に――
 壱夜は、小さく舌打ちをした。だけど足を止めるわけにはいかない。壱夜は血の匂いの元……割れたガラスの上に血まみれになって倒れている看護婦の横を駆け抜ける。どうせもう死んでいる。気にかけている余地も、暇もない。
 たどりついた病室。走ってきた勢いをそのままにその閉じた扉を蹴り開けるように開いた。
「――やめろっ!」
 聞こえてきたのは、必死な少女の――祐姫の声。
「祐姫!」
 病室に飛び込むと、十数人の黒ずくめの男たちが祐姫を囲んでいた。ほとんど包帯がほどけた腕を掴まれそれでも抵抗していた祐姫は、飛び込んできた壱夜を見て「お前……」と驚きに瞠目する。
「その女から手を放せ」
「ああ?」
 一人の男が怪訝な顔をして振り返った、その瞬間、その男の後頭部から刀身が生えた。
「もう一度言うぞ」
 壱夜は男の口の中に突き入れ、喉を裂き脳髄を貫通し頭蓋骨を貫いた刀を、乱暴に抜く。白目を向いた男は、すでに死体となって崩れ落ちた。
「その女から手を放せ」
 そして、壱夜は言う。
「俺の名は壱夜だ」
 まるで鶴の一声のように、しんと病室が静まり返った。そして一瞬の後、男たちと、それから祐姫の動揺が空気を揺らめかせる。
「壱夜……? あの……」
 裏の世界にいる者なら、誰もが知っている名だ。
 最強の殺し屋、壱夜。最強のリベラルアームス、祐理と並ぶ、世界でたった二人だけの「最強」――。その片割れが、今目の前にいる。
「最強……。お前が……?」
 さすがの祐姫も、驚きを禁じ得ない様子だ。確かにここから出るため無理矢理脅そうとしていた相手がまさか最強だったなんて、誰が想像するだろう。
「はっ、最強だあ?」
 驚き揺らめく空気を一掃するように、一人の男が嘲りに満ちた声を上げた。
「名乗るだけだったら、その辺の雑魚でも出来んだよ!」
 その声に鼓舞されるように、他の男たちも殺気立つ。壱夜は小さくため息をついた。仲間が一人殺され最強が現れた時点で、雑魚は雑魚らしく大人しく退散してくれればいいものを。いつ紫暮が追ってくるかわからないこの状況で、あまり時間を無駄にしたくはないのに。
「殺せ!」
 祐姫の腕を掴んだリーダー格らしき男が叫ぶと同時に、男たちがいっせいに壱夜へ殺到する。だがこいつら一人一人を相手にしている暇はない。だから壱夜は跳びかかられる前にぐっと膝に力を溜め、
「死ねあっ!」
 先頭の男が斬りかかってきた瞬間に、跳躍した。
 黒コートをはためかせた壱夜は男たちの頭上を越え、天井ぎりぎりの空中を駆け抜けて祐姫とリーダー格の男の目の前に着地した。
「……っ!」
 男に何かをさせる間はなかった。壱夜の血と脳漿にまみれた刀が閃き、それは祐姫の腕を掴んだ男の腕を斬り落とした。腕を落とされた男と、目の前で人の腕が斬り落とされるのを見てしまった祐姫の、悲鳴になり損ねた驚愕が伝わってくる。次いで壱夜は返す刀で横薙ぎに刀を振り抜いた。次は驚く間もなく、男の上半身と下半身が分かれて落ちた。
「これでもか?」
 問いは、リーダー格が一瞬で殺され動揺する男たちに向けられていた。壱夜は刀にこびりついた血を一振りで以て払う。
「これを見てもわからないか?」
 壱夜は血を払った刀の切っ先で、こんこんと右頬の赤い仮面――「鷹の目」を叩く。「鷹の目」はこの世界で唯一無二。つまりそれは壱夜が壱夜たる何よりの証明になるのだ。
 病室の空気が驚愕と、何より恐れで凍る。やっと男たちは自分たちでは到底敵わない人間を相手にしているということを悟ったようだ。
「わかったなら、散れ。この娘は俺がもらう。そのことを他の組織にもようく言い聞かせておけ」
 壱夜が言い終えた瞬間、男たちはわっと声をあげて一目散に逃げ始めた。ある者は窓から、ある者は扉から、武器も何も放り投げて逃げる様は無様としか言いようがない。
「……平気か?」
 その中で壱夜はへたりこんだ祐姫に声をかける。祐姫は小刻みに震えていて、返事はない。
 いくら祐理の娘といえど、人の腕が斬り落とされ胴体を両断される光景を目の前で見て平気でいられるわけがなかったか。壱夜はため息を吐きつつ、斬り落とされてなお祐姫の腕を掴み続ける男の腕をむしり取ってやる。
「お前……」
 ふいに祐姫がか細い声を洩らす。ゆっくりと顔をあげて、例の真紅の瞳で壱夜を見る。
「最強、だったのか……」
「……ああ」
 ここに長居している暇はない。とにかくここを離れようと祐姫の腕を掴んだ時だった。
「ぎゃあ!」
 短い悲鳴をあげて、病室の扉から逃げようとしていた男が弾かれるように病室に転がり込んできた。そして真赤な血を振りまきながら床を転がって悶えている。見れば、両目が一文字に切り裂かれて潰れていた。余程鋭利な刃物で切り裂かれたらしく、噴き出す血は半端な量じゃない。
「……くそっ!」
 壱夜は珍しく焦りの色を表情に表して、いきなり祐姫を抱き上げた。祐姫は驚いて声を上げるが、構ってはいられない。
「逃げるぞ」
「逃がすとでも思ってんのか?」
 壱夜が言ったのと同時。扉の向こうから飛来したナイフが、寸分違わず床で悶えていた男の眉間に突き刺さり、男は静かになる。
「閃光弾たあ、嘗めた真似してくれるんじゃねえか。なあ壱夜!」
 扉の向こうから現れたのは、死神のごとき黒い姿。紫暮。その姿を認めた瞬間、壱夜は隠そうともしない盛大な舌打ちを一つした。壱夜にしてはかなり珍しい、不機嫌な感情の発露だ。
「お前がその女をどう思おうが俺には関係ないが、生憎そいつは手放すには惜しい金の卵なんだ。勝手に持っていかれたら困る」
「じゃあこんなのはどうだ? 俺が金を払ってこいつを買い取る。お前は金が手に入ればいいんだろう?」
「は! 残念ながら俺が組織から言われてる額を一個人が払えるとは思えねえなあ」
 交渉は、決裂だ。壱夜は祐姫を抱えたまま刀を紫暮に向ける。紫暮は素手のままだが、じりじりと少しずつ間合いを詰めてくる。
 その時紫暮の体に、異変が起きた。紫暮の右手、その皮膚全体が鈍色の光を帯び、皮膚は硬く硬く、そして指先が鋭く鋭く、変化していく。
 壱夜はそれを見て苦々しく唇を歪めた。それの厄介さを、壱夜は誰よりもよく知っているからだ。
「は、『全身凶器』の真骨頂か……」
 言い終える頃には、紫暮の右手は触れれば裂け突けば貫く立派な凶器となっていた。鈍色の金属にコーティングされたような、凶器としての右手。
「はん、真骨頂? こんなのまだまだだってこと、お前が一番知ってるだろうが」
 壱夜のかつてのパートナー、紫暮。稀に見ぬほどの戦闘狂。多大なる実力を持つ殺し屋。人から呼ばれる名は「全身凶器」。壱夜がいなければ間違いなくこの人が最強であっただろうと言われる、壱夜に次ぐ実力者。
 そして何より紫暮は、全身凶器と呼ばれる所以であり、同時に壱夜に次ぐ実力者たる理由である、ある特徴がある。
 それは、忌子。しかもAランク――戦闘に特化された強力な能力を持っている忌子だ。
 その能力とは、身体を金属に変える能力。その能力を自由自在に操る紫暮は、全身を金属に変えてはいかなる攻撃も全く受け付けず、同時に全身を刃物に変えていかなる攻撃も与えることができる。
 それが紫暮が実力者たる理由で、「全身凶器」の所以だ。どんな実力者であれ、紫暮の金属の皮膚に傷一つつけることもできず、どんな所からも繰り出せる変則的な攻撃を前に倒れ伏すのだ。
 だがその例外が、壱夜だ。壱夜の持つ刀は、忌刀だ。その刀に込められた能力とは「切断」であり、その刀は万物を斬り裂く力を持っている。そしてその「万物」とは、紫暮の金属の皮膚も例外ではない。その刀を持つ壱夜だけが紫暮を斬ることができ、最強の名を冠するほどの瞬発力と身体能力を持つ壱夜なら、紫暮のどんなに変則的な攻撃もかわし切ることができる。壱夜はまさに、紫暮の天敵と言っても過言ではない存在だった。
 或いは紫暮が壱夜を殺すことに執着しているのは、つまりそういうことだからなのかもしれない。
「ここで五回目の決闘でもするのか? 今回はギャラリーがいるみたいだが」
 ギャラリー――観客とは祐姫のことだ。祐姫を抱えて戦う壱夜には、当然その分動きが鈍る。そんな状態の壱夜を倒したところで、それは紫暮の本意ではないのではないか。
「心配しなくてもこれはノーカウントさ。今はその娘が欲しいだけであって、お前を殺すつもりはないからな」
「そうかそれはありがたい、なっ!」
 唐突に跳ねて斬りかかってきた紫暮の刃をよけ、その間際に紫暮に斬りつける。だがそれは予測されていたらしく、軽く跳ねて避けられた。このネコ科の動物のような身の軽さも、紫暮の強さだ。
「……っ、」
「あ、すまん」
 ずり落ちそうになった祐姫を抱え直す。右手に刀を握り、左腕だけで祐姫を抱えているため、少し動いただけですぐずり落ちそうになってしまう。いくら軽いとはいえ、人一人を抱えて戦おうなんて無茶には変わりないのだ。
「危ないから首に腕回せ。片腕でも十分安定するから」
 そう言われて、祐姫は今まで壱夜の胸元を掴んでいた手を離し、壱夜の首に腕を巻きつける。祐姫の腕は包帯がほどけて硬い鱗に覆われた肌が見えている。首に硬いものが絡まる感触は決していいものではないが、強く絞められない限りはこっちの方がいい。体が密着するし、その分安定もする。
「は! 女抱えたままで戦えんのか? そんなんで俺を倒せるとでも思ってんのか!」
「……そうだな」
 短く返事をして、壱夜は驚異的な脚力で床を蹴る。祐姫は小さく息を呑んで腕に力を込めた。
 壱夜も、祐姫を抱えたままで紫暮を倒せるとは思っていない。ただどうにか一撃でも浴びせて、その隙に逃げることぐらいなら何とか出来るだろう。何せ壱夜が持つのは万物を斬り裂く忌刀だ。一撃浴びせればそれで落ちてくれる可能性は高い。壱夜が狙うのはそこだけだ。
 一気に接近した紫暮へ、その一撃を叩きこむ。しかし紫暮もそれを受ける馬鹿はしない。限界まで体を反らして紙一重にそれを避け、反らした反動を利用して凶器と化した右手を振るってくる。壱夜はそれを体を沈めることで避けた。だがそれで終わりじゃない。それを予測していたかのように、すぐさま左足のローキックが迫ってくる。壱夜は限界まで足を折り体を伏せてそれも避けた。さすがに紫暮の表情に驚きが走る。壱夜の体に潰されて祐姫がぐう、と苦しげな声を上げたが、構ってはいられない。低い体勢のまま刀を振り上げる。その刀が紫暮に届く刹那。
 壱夜のこめかみを衝撃が襲った。
「がっ!?」
 完全に予想外だった衝撃は、紫暮の右足が繰り出した、後ろ回し蹴りだった。空振った左足をとっさに軸足にし、体を一回転させて後ろ回し蹴りに切り替えたのだ。その機転の速さと、身のこなしの速さ。どちらも壱夜が予想したものをはるかに上回っていた。
 そしてあらゆるスピードを兼ね揃え、その上先程のローキックの勢いを加えたその一撃は、壱夜の体ごと吹き飛ばし、壁に激突させた。
「ぐ……っ」
 背から胸へ走った衝撃に思わず悶絶する。祐姫をかばったおかげで受け身を取ることもできず、しかも人一人を抱えている分、その重さが衝撃を上乗せしていた。さすがの壱夜も、しばし動けなくなる。誰かを守りながら戦ったことのない壱夜にとって、それは未知の痛みだった。
「おいっ!」
 祐姫が焦ったような声を上げた。壱夜と祐姫、二人の前に紫暮が立っている。
「動きが鈍すぎだぞ、壱夜。女に情なんて移すから悪いんだ。お前が誰かを守ろうだなんて、そんな似合わないことはやめろよ」
 完全に壱夜を嘲り切った台詞だ。そしてとどめとでも言うように、ゆっくりと凶器の右手を振り上げる。
「じゃあな、壱夜。女はおれが貰う、ぜっ!」
 朦朧とする壱夜に、狂刃が振り下ろされた、その瞬間。
 血が舞った。
 ぼたぼたぼたっ、と血の塊が白い床を汚す。だけどそれは、壱夜の血ではなかった。
「あ……?」
 紫暮が、怪訝な顔でかふ、と血を吐いた。それから自分の腹部、そこに突き刺さっている鋭い爪と、恐竜を思わせる琥珀色の鱗に覆われた腕を見る。
「祐姫……」
 紫暮の刃が壱夜を斬り裂く一瞬前。紫暮の腹部を刺したのは、祐姫だった。恐らくとっさだったのだろう。祐姫はぼたぼたと血をこぼし、自らの爪と指を汚す傷口を苦々しい顔で見ている。
「は……はは……」
 紫暮は自ら吐いた血にまみれた唇を歪め、一歩引く。ずるりと気味の悪い感触を祐姫に残して、深く突き刺さった爪が抜ける。
 全身を硬化することができる紫暮は、腹を金属に変えて祐姫の爪を防ぐことができただろう。だが紫暮はあの一瞬、完全に壱夜しか見ていなかった。いや、あの一瞬だけではない。紫暮はずっと祐姫の存在を視野に入れていなかった。完全に戦力外として、壱夜のお荷物として見ていた。紫暮は祐姫を侮り切っていた。だから、防げなかったのだ。
 紫暮はまたごふ、と血を吐いた。今度はかなり大量だ。内臓のどこかが傷ついたのかもしれない。
「は、はは……は、ははは、はははははははははははは!」
 瞬間、紫暮は爆笑した。両手を広げ、体を反らして天を仰ぎ、窓ガラスをビリビリと震わせるほどの哄笑だった。祐姫は血を滴らせる腕を震わせ、壱夜は痛みから回復し刀を握り直そうとした、その瞬間、
「ははは、ははははははは! ふっざけるなよこのガキがああ!」
 哄笑から一転、唐突に激昂した紫暮が、固めた拳で祐姫の側頭部を殴った。突然のことに祐姫は声を上げることもできずに床を転がる。
「祐姫!」
「お前ごときが俺の邪魔をするのか! 壱夜がどれほど美味い餌か知らない小娘が! ガキが手ぇ出すんじゃねえよ!」
 紫暮からすれば、最高級のゲームに水を差されたようなものなのだろう。壱夜と紫暮だけの、殺し合いという名のゲーム。そこには他者の存在すら許されない。
 それを祐姫は犯した。紫暮にとっては万死に値し、何よりも――壱夜よりも――優先して罰せねばならない罪だったのか。あろうことか紫暮は祐姫に意識を向け――壱夜に、背を向けた。
 恐らく、紫暮の敗因は戦闘狂ゆえの猛進性と、すぐに感情に流される思考の極端さ。それに一対一ではなく一対二であるということに、気付けなかったことだ。
 壱夜は刀を握り直し、紫暮のその無防備な背を袈裟に斬りつけた。刀は何ともあっけなく紫暮の背を裂き、傷口からは大量の血が噴き出す。紫暮は一瞬何が起きたかわからないというような顔をして、声もあげずに倒れた。
「悪いな」
 未だ意識を失わず、だが下から睨み上げながら何か言いたげにぱくぱくと口を動かすばかりで、声は出ない。
「祐姫は俺が貰っていく」
 言い終えたときには、紫暮は大量出血で強制的に意識を失ったのか、睨みつけていた目を閉じていた。そこでやっと、壱夜はふっと息を吐き出す。紫暮と戦うには結構な気力が必要になるのだ。息の一つや二つは詰まるものだ。
「立てるか?」
 刀を鞘に戻し、紫暮が意識を失っていることを確認した壱夜は、その先で尻餅をついている祐姫に声をかける。だが祐姫は体を小さく震えさせたまま、力なく首を横に振った。
「……腰が抜けてるのか?」
 図星だったらしく、祐姫は頬をカッと染めて壱夜を睨みつけた。壱夜は小さく苦笑し、先程と同じように祐姫を抱き上げる。
 腰が抜けてしまうのも仕方のない話だ。いくら根性のある祐姫でも、あの紫暮の怒りを向けられたのだ。紫暮の憤怒の表情はさぞかし怖かったことだろう。
 それに、と壱夜は祐姫の爪と指にこびりついた血を眺める。それは未だ乾かず、生々しく光を反射して光っている。殺し屋の憤怒を受ける以上に、恐らくは生まれて初めて人を傷つける方が、ずっと恐ろしかっただろう。自分が初めて人を傷つけた時などとうに忘れてはいるが、今まで表の世界で普通の少女として生きてきた祐姫にとって、その恐ろしさは計り知れないものがある。
「……さて、今度こそ逃げるぞ」
「え……」
「すぐに違う輩が襲ってくるかもしれない。ここに長居する理由はないな」
 壱夜は祐姫を抱えたまま割れた窓に近寄り、そこから向こうの空へ、無造作に身を躍らせた。
「――――っ!」
 祐姫はどうにか悲鳴を呑み込んだ。二階からの落下はそう長く続くわけでもなく、壱夜は膝をクッションにして着地の衝撃を殺す。二人分の重さを上手く緩和できるか微妙なところだったが、どうやら上手くいったようだ。壱夜はすぐに立ち上がり、駆け出す。
「……どこ行くんだ?」
「裏に俺の車が停めてある。ひとまずはそれで逃げよう」
 襲撃のせいか、病院の周りには誰もいない。もうしばらくすれば警察やら騒ぎを聞きつけたリベラルアームスやらが押し掛けてくるのだろうが、今はまだいない。そんなぽっかりと空いた時間の隙間を縫って、壱夜と祐姫は病院から逃走した。




 ひとまず日が暮れるまで車を走られた頃、祐姫は助手席で酷い熱を出していた。
 体が弱いからこその病人だ。襲撃の緊張とそこからくる疲労が出たのだろう。壱夜は一晩、つきっきりで看病した。
 夜の川辺。燃え続ける焚き火の横で、祐姫は寝袋とありったけの毛布にくるまって横になっていた。そして横にいる壱夜に額の濡れタオルを何度も換えてもらいながら、半ばうわごとのように、昔話をしていた。父のこと。母のこと。幸せだった生活のこと。母を殺した父のこと。父に殺された母のこと。自分の腕を奪った父のこと。自分に自らの力を押し付けた父のこと。父を殺す覚悟を決めたこと。自分は父を殺したい、ということ――。
 そしてしらしらと夜が明けはじめた頃、深い眠りについていた祐姫はふっと眼を覚まし、未だに起きて自分のことを見ていた壱夜を見た。
 もう峠は越して、熱は下がり切ってはいないものの微熱にはなっていた。だからぼうっとして、どうでもよさそうな目で自分を見ている壱夜を見ていた。
「……なあ」
「うん?」
 あまりに微動だにせずに見ているものだから、もしかしたら目を開けたまま眠っているのかもしれないと思ったが、小首を傾げて返ってきた答えがそれを打ち消した。
 だから、なのか。宙に浮いてしまった呼びかけを着地させるために、続ける言葉を探した。そうして見つけた言葉を、小さく笑みながら言った。
「ここまで来たからには、もう病院に戻れなんて言わねえよな」
 壱夜はそのことに言われて初めて気づいた、とでも言うように、小さくあ……と声を漏らして固まった。祐姫を逃がすことばかり考えていて、その先を完全に失念していた。そして今の状況では、壱夜が祐姫を連れていかなければならないようで――
「……何もかも、お前の思い通りってことか」
 疲れたようにため息をつく壱夜に、祐姫は弱々しいながらもにっと強く笑いかけた。
 自信と気丈さと狂気とが混じり合った、これからの祐姫を象徴するかのような、とても力強い笑みを。
 遠い山の向こうで、朝日が昇った。




 それから。
 祐姫は壱夜の下で鍛錬を積み体を強くすると同時にどんどん強くなり。
 祐姫の強制でリベラルアームスになることになった壱夜は殺し屋から足を洗い。
 スミレの情報操作でLACSでそれなりの力を持つ真希斗たちと出会い。
 同時に真希奈に特製のブーツを作ってもらった祐姫は武器を手に入れ。
 そして彩火と名乗るリベラルアームス殺しの少年に出会うのだけれど。




 それはまだ、未来の話。



end.



あきゅろす。
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