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未来の再現。おいてきた今。




 練習中の空気が、妙にざわついた。
 ジュンと二人で練習した休日の、二日後のことだった。まだまだ夏休みは終わらず――とは言ってもあと数日――今日も夏真っ盛りな一日ぶっ通しの練習中。
 ベンチで水分補給をしていた俺は、それに気づいて外を見た。今はフリーバッティング中なのだが、チームメイトみんなが同じ方向を見ている。それは俺がいるベンチの左、だった。ここからは見えないが、そこにはグラウンド横の道があるだけだ。あるとしたら、グラウンドをぐるりと囲むフェンスぐらいか。
「カナメ! カナメ―――!」
 どうしたんだろう、とベンチを出ようとすると、そんなふうに名前を呼ばれた。呼ばれるというより叫ばれたという方が正しいか。
 叫びながら俺の方へ走ってくるのは、案の定ユリだった。なんだか顔が面白いことになっている。
「あんだよ。どうした?」
「カッ、カナメ、カナメあのねっ」
「あーあー、落ち着け」
 荒い息のままなんとか何かを言おうとするユリをなだめると、ユリは一度ごくりと唾液を呑み込み、口を開いた。
「カナメ、あそこ!」
「あ?」
 ユリが指さした方向を見る。その指の先とチームメイトたちの視線の先はばっちり一致した。そしてそこにいたのは。
「ああ?」
 チームメイト全員の視線を浴びて困ったようにしている、ジュン、だった。
 ジュンはいたたまれなさそうに視線を泳がせていたが、それが俺の姿を捉えると、ジュンは少し安心したような顔で手を振ってきた。
「カナメー」
 そして暢気な声で、俺を呼ぶ。
「行ってあげなよ」
 ユリが耳元でぼそりと言う。俺はさっきまでアクエリが満たされていた紙コップを握り潰した。あの馬鹿。
 俺はぐちゃぐちゃになった紙コップを放り投げ、大馬鹿のもとへ駆け出す。全力疾走だ。その先にいる大馬鹿は俺が何をしようとしているのか全く気づいていない様子で、にこにこと手を振っている。
「こ、んの……」
 そのにこにこにムカついた。なんかムカつく。ていうか何笑ってんだ! 俺は全力疾走の勢いをそのまま使って拳を振り上げ、
「大馬鹿野郎!」
「ぅぼへっ!?」
 大馬鹿野郎を殴った。
「え、えええええええ!? 何すんのカナメ!?」
「うっせてめーなんでこんなとこいんだよ馬鹿!」
「ちょっ、スパイク! スパイク痛いだろって、痛っ! 痛いってカナ、ぎゃあああ! やめて蹴らないで何かほんとすみませんでしたああ!!」
 すみませんでしたなんて言っても許しはしない。こいつは自分の立場わかってんのだろうか。甲子園優勝したっていうのに。全国ネットで顔を知られているというのに。ソフトやってる人間なら絶対高校野球見ていて、ここにいる全員がジュンがどれだけすごい人間か知っているというのに。
 なんでわざわざこんなところに出てくるかなああああ!?
「だっからなんでお前こんなとこにいるんだよ!?」
 二三発蹴りを入れて気が済んだので、聞く。
「なんでって、カナメの練習見に来たに決まってんだろ?」
「……た、く、お前は……!」
 決まってんだろ? じゃ、ない。
「こんなところに来たら注目されるに決まってんだろ!」
「や、そこら辺は覚悟してきたつもりなんだけど」
「――お前が覚悟してきててもな」
 目元の筋肉がひくつく。ジュンがひいっ、と怯えて後ずさった。自分でもわかる。相当な怖い顔だ。
「お前の次に注目されんのは俺なんだよなあああああ。わかる? ドューユーアンダスタン?」
「……川崎先輩?」
 後ろからの声に振り返る。そこには後輩が立っていて、俺が振り返った瞬間にびくっと体を震わせた。そりゃジュンだってビビる怖い顔だ。ビビらない方がおかしい。
「あ、の、甲子園優勝校の、渋谷さんですよね」
 だけど後輩は怯まず、果敢にもジュンのことを尋ねてくる。こいつは意外と将来大物になるかもしれない。
「……そうだけど」
 学習して何も言わないジュンの代わりに、俺が答える。ジュンが一言でも何か言ったら鉄拳を飛ばすつもりだった。賢明な判断だ、ジュン。
「川崎先輩、お知合いなんですか」
 後輩の目は、怯えなどどこかに押しのけてキラキラしていた。なんだか嫌な予感がしたけれど、今この状況での否定に意味はない。
「……そうだけど」
「じゃあ、やっぱり!」
 後輩の目は最上級に輝き、パチン、と手を合わせる。
「渋谷さんが言ってたカナメ、って、川崎先輩のことだったんですね!」
 あのインタビュー聞いた時はまさかと思ったんですけどー……と続けようとした後輩は、だけど俺の鬼の目に気づいて一瞬で固まった。その後輩を、後ろで待機していたユリがやれやれといった表情で回収する。一瞬だけ後輩の固まった表情がくしゃりと崩れて泣き顔に変わるのが見えたけど、自業自得だ。同情の余地なし。
「だーかーらー」
 ゆっくりと振り返ると、ジュンの大きな体がびくりと震えた。ジュンも半分泣き顔だ。泣き顔なんていつ以来だろう。中学生の時にデットボール喰らって半泣きになっていたところを見た以来か。だけど感傷に浸るつもりはない。こいつも自業自得だ。
「こうなるに決まってんだろうがあああああああ!!」
「ほんっとすみませんでしたああああああああああああああ!!」
 半泣きで絶叫したジュンにもう一発スパイクで蹴りを入れてやったのは、言うまでもない。




 俺とジュンは幼馴染。そして昔一緒に野球をやっていたということは、俺やユリからあっという間にチームに知れ渡った。
 それはもう、ジュンがここに来てしまった今、聞かれれば隠す理由がないので仕方のないことではあった。だけど明らかに恋人同士だと思われたり、あのジュンの発言の真意はああだこうだと議論されたり、大分迷惑な状況にはなっている。だから嫌だったんだ。
 当のジュンはベンチで監督としゃべっている。甲子園の経験はソフトにも通じるものがあるんだろう。主に精神面で。
 ふう、とため息をついた。こっちは散々迷惑を被っているというのに、当の本人はいい気なもんだ。
「で、ジュンくんとはどういう関係なのかなああ?」
 いきなりずし、と肩に重みがかかる。肩に腕を回されたのだ。
「だからただの幼馴染だって言ってんじゃないですか……」
 まあたまた照れちゃって、と頬を突いてくる先輩にげんなりする。あああ本当に嫌だ。
「だあから、ちっこいころに野球やってただけでそんなに仲良くなかったし、高校に上がってからはついこないだまで会ってなかったんですってば!」
「でもバッテリーだったんでしょう? 甲子園優勝校の正捕手に受けてもらってたなんて、羨ましーなー」
「別に、昔の話ですよ」
「またまたあ。最近再会したんでしょう? 家近くだって言うし、また受けてもらってんじゃないのお?」
 うぐ、と図星を指されて内心絶句する。なんだってこういうときにばっかり人間って聡いんだ! ああもうむかつく!
「んなわけないでしょ。渋谷くんは忙しいんですよ」
「あーあ、渋谷くんなんて呼んじゃって。普通に幼馴染呼びしていいのよお? ほら、ジュン、って言ってみな」
「そんな呼び方一度だってしたことないです。重いんでどいてください練習中ですよ。ほら監督が睨んでる」
「うそ!?」
「うそですけど」
「ああー! このー、川崎お前先輩だましていいと思ってんのか!」
「だまされる方が悪いです。いいから素振りでもなんでもしたらどうですか打率下がってますよ」
「むきー! むかつくー!」
 きいきいとまだ何か叫んでる先輩を背に、俺はブルペンに入る。まだ午前中だ。投球練習の途中だというのに、休憩にベンチに戻るたびああいう目に遭うから、いつもの倍は疲れる。ああ、今日俺は一日もつだろうか。
「お疲れ……」
 その時、同じく休憩していたユリも戻ってきた。なんだか俺より消耗しているように見える。大丈夫か。
「ユリこそ、お疲れ」
 まあそれも仕方のないことか。こういうことは当事者よりその関係者の方が理解しているし、聞きやすい。ユリ、ご愁傷様。
「ジュンくん、さ……」
 普段温厚なユリは、固く握りしめた拳をプルプルさせながら言った。
「後で一発殴っていいかな……」
「思いっきりやっていいよ」
 ユリの憤慨も頷けるものだ。ジュンがあんな軽率な行動に出なければ、ユリにまで迷惑が飛び火することもなかった。全く、俺も後でもう一発ぐらい殴っておこう。
「まあ来ちゃったものはしょうがないし。そんなんで練習時間削られんのも馬鹿みたいだからやっちゃおうぜ」
「……ま、確かに」
 ユリはミットをはめマスクを下ろして、ブルペンに座る。俺は適当に転がしておいた球を拾って、手の中で転がす。
「一球! ストレート」
「ん」
 ミットに突き刺さった球はパンといい音を立てて、ベンチのジュンにまで聞こえただろうかと俺は少しだけ思った。




「幼馴染って言うのは本当みたいだな」
 午前の練習が終わり、いつも通りアイシングをして弁当を食べていると、監督が話しかけてきた。
 監督は、俺みたいな男のような女だ。一人称は私だが、口調は完璧に男だ。性格も大雑把で男らしい。
 ちなみにジュンはチームメイトに囲まれて、矢継ぎ早に繰り出される質問の的になっていた。ジュンからは助けを求めるような視線が何度か飛んできたけれど、全部無視した。自業自得だ。
「……そんなこと嘘言う必要ないじゃないですか」
「いやあ、にわかに信じられなくてな。川崎があの渋谷と幼馴染なんて」
 監督はどかりと俺の隣に腰を下ろす。胡坐だ。男らしい。
「昔、渋谷に受けてもらってたんだろう?」
「受けてもらうって言っても、小学生の頃ですよ。キャッチボール程度ですよ」
「ふうん」
 監督は思案げに唇を撫でた。監督の癖だ。
「なあ、川崎」
「なんですか?」
「お前、ここに来てから本気で投げたことあるか?」
 意味ありげな監督の言葉に、思わず箸が止まる。
「……どういう意味です?」
「んー。お前のあの思いっきりのストレート。一日五球だけ許してるやつな。あれだってお前の本気じゃあないだろう。もっと強い球を投げられるんじゃないのか?」
 監督の見透かした視線に、俺は内心で舌打ちする。何だって本気の球を一球も見せてないのに、この人は俺が全力で投げてないとわかるのだろう。
「……仮に投げられるとしても、それを捕れるキャッチャーがいないじゃないですか」
 そう、なのだ。本当の本気ではない思いっきりでさえ、正捕手のユリでも捕球が困難だ。ただでさえ五球しか投げることを許されていない剛速球を受けれるようになるには、時間がかかるものだ。
「そうだな。確かにユリはまだ未熟だ。お前の球を捕れない。……でも、今ここにはもっとレベルの高いキャッチャーがいるじゃないか」
「…………は」
 そこでやっと俺は、監督が言わんとしていることを理解した。
「お前が入ってから、ずっとやっておきたかったんだ。渋谷にもう許可は取ってある。川崎、本気で投げてみろ。ストレートも、変化球も。私はお前の本気がどれほどのものなのか知らない。そしてお前自身も知らない。これはいい機会さ。高校ソフト界一の注目株のお前の実力を知る、な」
 監督はにやり、と嫌な顔で笑う。対し俺は目元がひくつくのを感じた。
 午後は、とんでもないことになりそうだ。




「午後は、シートバッティングから始める」
 昼休み後の練習に入る前のミーティングで、監督はチームメイトの前でそう言った。
「今日は渋谷くんが協力してくれるということで、みんなには川崎の本気を見てもらう」
 ざわり、と空気が動いた。チラチラといくつかの視線が俺の方へ向く。みんな監督の言葉の意味を測りかねているんだろう。
「これから、試合形式で五人の打者が立って、川崎が渋谷くんに受けてもらって投げる。打者も守備に入ったやつもその他のレギュラーも、その川崎が投げる球を見てるだけでいい。川崎の本気で投げる球がどの程度なのか、見て確認しろ。それだけだ」
 なんだかプレッシャーが肩にのしかかった。なんでこんなことになってるんだ。
「それじゃあ川崎と渋谷くん以外はストレッチとキャッチボール!二人は裏のブルペンでサイン確認と投球練習してきてくれ。くれぐれも肩を壊さない程度にな」
「はい」
 ジュンはすでにキャッチャーの装備を身につけていた。どれもソフトのものでサイズが少し窮屈そうだったが、基本は同じものなので様にはなっている。でもその下がユニホームではなく私服というのがなんともミスマッチではあるのだけれど。
「じゃ、行くか」
「おう」
 二人で裏のブルペンに向かう。チームメイトはみんなグラウンドに散っていくのに、ユリだけが監督と二人ベンチに残っているのが気になったが、声をかけるほどのことでもないのでベンチに背を向ける。
「あのさ、カナメ」
「ん?」
「こないだ投げたやつは、本気?」
 ブルペンに着くやいなやそんなことを言ってきて、俺はちょっと黙る。その沈黙で悟ったのか、ジュンは小さくため息をついた。
「まあだ上があんのか。何か得体が知れないな」
「なぜかジュンには言われたくない……」
 ジュンは慣れないミットをパンパンと叩きながら、座る。
「あれ以上のストレートと、変化球はもっと切れるのか? 何か信じられないな。球が速くて変化球も抜群か。完璧じゃねえか」
「そうでもねえよ。本気で投げたらスタミナがもたねーし、コントロールも落ちる。そう完璧なピッチングができるわけねえだろ」
 それもそうか、とジュンはミットを構える。
「本気のストレート」
「おう」
 俺は構える。本気なんていつ以来だろう。いや、本気の投球なら一人でいつもやっている。ただ、壁に向けて。人に向けて投げるのなんて、多分、初めてだ。視線の先にはジュンがいる。だけどジュンなら、俺の本気を受け止めてくれる。大丈夫だ。
 俺は大きく腕を振り強く踏み込んで、投げた。全力。本気。それはど真ん中に構えたジュンのミットに突き刺さり、パアン、とブルペン中に響き渡るいい音をさせた。
「……っ、」
 ボールが収まったミットが、小さく震えた。ジュンが震えている。多分、感激に。
 だけどすぐにジュンはボールを投げ返してきて、スライダー、と今度は変化球を要求してきた。俺から見て右に変化するボール。今度のミットの位置は少し高め。投げる。深く握りこんで思い切り投げたスライダーは、一瞬左に動いたミットの前でがくんと変化し、慌ててそれを追うミットを弾いて転々と地面を転がった。
「……おい、ジュン」
「わり」
 ジュンが一瞬ミットを左にずらしたのは、俺のスライダーを嘗めたからだ。俺のスライダーはそれほど変化しないと思いとっさに左にずらし、そして予想以上に変化した俺のスライダーを追い切れずこぼしたのだ。
「てめー嘗めてんじゃねーぞ。俺が本気っつったら本気だ」
「いや……」
 ジュンは転がったボールを拾って投げ返してきた。
「予想以上」
 ぱしりとグローブでそれを受け取った瞬間にジュンが笑って、俺は少しだけ、それに見入った。
「……当たり前だろ」
「うん。じゃあ次。カーブ」
 ジュンは座り直してミットを構える。俺はそのミットめがけて、思いっきりカーブを投げた。
 どこかでごろりと雷が鳴った。




 ジュンとカナメが、裏のブルペンに向かうのが見えた。その時ちらりと見えたカナメの笑顔が、胸に突き刺さる。
「悔しいか」
 ふいに真後ろで囁かれて、ユリは驚いて振り返った。そこでは足を組んだ監督が、見透かすようにユリを見ていた。
 監督は、鋭い。隠そうとした感情も全て、覗いてるんじゃないかと思うほど察してしまう。それは監督として必要な素質ではあると思うけれど、今だけは、見ないで欲しいと思った。
「悔しいに決まってるよなあ。一緒にプレーしてる相方が、違う男と一緒にへらへら笑ってんだからなあ」
「カナメは、そんなんじゃ……」
「分かってるさ」
 だからきっと、その言葉通りわかっているのだろう。カナメがジュンに向けている感情も、そして今のユリが抱えている悔しさも。
「それでも、一発ぐらい殴ってやってもいいと思うぞ」
「……はい」
 ユリは帽子のつばを深く下げた。誰にも、見られていなければいいと思った。無駄だとは思うけれど、監督にも。
「悔しかったら、強くなれよ」
 監督はわかっているのだ。カナメが過去に感じた悔しさも、底から来るジュンへの思いも、そしてユリのジュンに対する嫉妬も、自分の弱さに対する悔しさも。
 そうじゃなかったら、こんなに的確な言葉など言えるものか。
「はい」
 震えも、掠れも、濁りもしないように返事をした。カナメの為にも強くならなければならない。どれだけカナメがジュンを求めていても、カナメには自分しかいないのだから。
 カナメがジュンのことを思う余地もないほどに、強くなろう。




 暑いな、と思った。
 暑いのは当たり前だ。もう終盤に入りかけているとはいえ、まだ季節は夏なのだから。でも違う。こんなに暑いのは。……熱いのは。
 俺は足元の土をならした。ソフトの場合、野球のようにピッチャーが立つ場所に土を盛っているわけではない。だからここはマウンドと呼べるのか、俺は知らない。
 顔を上げると、バッターがバッターボックスに入るのが見えた。バッターはそれなりに俺の球を捕らえている先輩だ。試合でも打率を残す、このソフト部でも一二を争うほどの強打者。
 遠くでごろごろと雷が鳴っている。空にも暗雲がたちこめ始めていて、今にも降り出しそうだ。本当なら雷が鳴り出している時点で安全を考慮して練習を中止させなければならないのだろうが、監督はこの機会を逃すつもりはないようだった。この先輩を一番に持ってきたのも、降り出す前に俺の本気を知らしめるためだろう。
 また、ごろりと雷が鳴る。それにチームメイトも、こんなに雷がなっているのに監督に何も言わない。黙って、どこか緊迫した雰囲気で、それぞれの守備位置に入りベンチでその様子を見ている。その中にはユリもいた。いつもは俺の目の前で俺の球を捕っているユリをベンチに見るのは、酷く見慣れない。しかも試合の時でもないような真剣な表情を浮かべているから、余計に。
 ごろり、ごろり。低音が腹に響く。熱い。汗が頬を伝った。
 審判役の後輩がプレイ、と声をあげた。先輩がバットを構える。後ろで守るチームメイトが守備姿勢を取る。そして俺の目の前で、ジュンがミットを構えた。
「カナメ、打ち取る自信あるか?」
 ふとふとこのシートバッティングに入る前の会話がフラッシュバックする。
「バッカお前、うちは打線もいいんだよ。そう簡単に打ち取れるか」
「そうか。わかった」
 そう言ってジュンは、とてつもなく真剣な目をした。あの甲子園決勝のときにも匹敵するような、虎視眈々と獲物を狙う獰猛な肉食動物のような、ジュンの真剣な目。
「俺も本気でやる」
 或いはここは、あの甲子園決勝の舞台にも匹敵するのだ。あの場所では、ジュンの目の前に立っていたのはあのヨシキというピッチャーだった。でも今目の前にいるのは、あの舞台と同じぐらい真剣になっているジュンの前にいるのは――俺だった。
 眩暈さえした。ジュンが今、プロテクターをつけて、マスクをつけて、ミットをつけて、キャッチャースボックスに座って、ピッチャーとしてグラウンドに立つ俺の、目の前にいる。
 これは紛れもない、夢にまで見た、俺とジュンのバッテリー。
 俺はゆっくりと、ボールを構える。ジュンがさっき確認したばかりのサインを送る。ど真ん中のストレート。それに本気の一段下の球威で、とついてきた。一球目から、勝負に来る。ジュンは打者のデータを全く知らないから、それは探りの意味もあるのだろう。一球目に手を出すのか、速いストレートを振ってくるのか。それには恐らく、俺の球への信頼もあるのだろう。俺の速い球ならたとえど真ん中でも打たれることはない、という信頼。恐らく、だが。
 俺は少しだけ目を閉じ、それからまぶたを上げて頷く。俺は思い切り腕を振り抜いて、投げた。全力よりは幾分か速度の落ちるストレートはしかし、驚異的なスピードでストライクゾーンを高めに貫き、ジュンのミットに収まった。
 一瞬、グラウンド全体が息を呑んだ。それから審判が思い出したように「ス……ストライク」と告げ、打者が構えを外し、ジュンがナイスボール、と球を返してきた。
 俺は少しだけ右手を小さく振った。やっぱり思い切り投げるとコントロールが定まらない。定まらないと言っても全力に比べれば微細なものだから、少し高めに反れただけでストライクゾーンには入ったが。
 それでも今の球は、バッターの先輩に脅威を与えることはできたようだ。一球目は必ず見ると決めている先輩のバットが少し動いたのが見えた。それはつまり、俺の球威に押されて思わず手が出かかってしまったということだ。それに何より、俺の球を見た後の驚愕は、俺にまで伝わってきていたのだから。
 ジュンが次に要求したのは、右バッターに対しては外へ逃げていくカーブ。早いテンポだ。そしてたちが悪い。俺よりもバッターに近いジュンは、当然バットが動いたことも先輩が俺の球に驚愕したことも気付いているだろう。そうして早いストレートが印象付いたところを、遅い、しかも外に逃げていくカーブで振らせようという魂胆なのだろう。全くたちが悪い。
 ジュンの配球は、バッターからしたらいやらしいとしか言いようがない。ずっとジュンの補給を見ていたから分かる。ジュンはバッターの心理を読み取り、試合前に頭に叩き込んだデータに加えてリアルタイムの情報も考慮して配球する。まるでバッターをおちょくるかのように、あるいは肉食動物が獲物をなぶるかのように、飄々と配球する。
 そういう意味でも、ジュンは俺を全力で投げさせることが出来るキャッチャーだった。ユリも優秀なキャッチャーではあるが、ジュンほどではない。逆にバッターに心理を読まれて、配球を読まれてしまうこともある。
 ごろごろと空が鳴いている。そろそろ本当に降り出しそうだ。降り出す前に、この先輩だけでも打ち取ってしまいたい。
 俺はジュンの早いテンポを崩さないように、すぐに構えて投げた。カーブ。スピードの変化に先輩の体ががくりと崩れた。先輩はこのぐらいのスピードの変化で体勢を崩すような打者じゃない。それほどさっきのストレートが印象深かったということなのだろう。全くジュンの思う壺だ。思わず、といった感じでバットが動く。そのままバットは外に逃げるカーブを空振り、ボールは低いところに構えたジュンのミットにいい音を立てて収まった。ツーストライク。
「ナイスボール」
 投げ返されたボールをグローブで受け取り、すぐに出されるジュンのサインを覗く。またど真ん中にストレート。ただし今度は全力で。遊び球を使わず三球で打ち取るつもりなのか。確かに俺の本気を知らしめるなら、それが一番効果的な打ち取り方なんだろうけど。
 また少しだけ、目を閉じる。ごろごろと、少しだけ近づいた雷の音が聞こえた。そして目を開けば、そこには真剣な目で俺の球を捕る、ジュンがいる。
 ああそうか。俺やっと、ジュンとバッテリー組んでるんだ。
 思い切り腕を振る。全力で。いつもよりずっと速く腕を振り足を動かして、指先まで集中して、全力のストレートを放つ。
 ポツリと頬に雨が当たった。
 先輩のバットが空を切った。ずどんとミットに球が突き刺さる。スイングの勢いに振り回されたのか、先輩がバッターボックスに座り込んだ。カランとバットが手から零れ落ち、ヘルメットもずり落ちる。
 雨はすぐに、豪雨になった。それでも俺もジュンも先輩も、それに守備に入ったチームメイトも、誰も動かなかった。一種の真空状態だった。あるいは俺のあのストレートが、このグラウンドの空気一切を吹き飛ばしてしまったのか。結局数秒後に監督が「何やってんだ! 中入れ!」と叫ぶまで、誰も動かなかった。
 それまで俺は、叩きつけるような雨にも冷めない熱に呆けていた。熱い。何でだろう、全てが。
 熱い。
「カナメ」
 名前を呼ばれて初めて、目の前にジュンが立っていることに気付いた。叩きつけるような豪雨に濡れて、少しだけ寒そうに見えた。もう肉食獣のような獰猛な目はしていない。いつもの優しい、ジュンの目だ。
「風邪引くぞ。早く戻ろう」
 そう言われて初めて、チームメイトがベンチに向かって走っているのが見えた。ああもう俺もジュンも皆もびしょ濡れだ。
 ベンチに走るジュンに続いて、駆け出す。豪雨の中で思う。三球で終わってしまった。
 夢にまで見たジュンとのバッテリー。三球三振という結果に終わった。またジュンに投げる機会があるだろうか。多分もうない。ぼうっとした。まだ熱は冷めないのに。
「……ジュン」
 前を走る背中に小さく呟く。それは酷い雨音のせいかジュンには届かなかったようで、ジュンは振り返りもしなかった。だからなのか。熱に浮かされるように、あるいは夢を見るように、手を伸ばした。
「……カナメ?」
 ぐっしょりと濡れたジュンのシャツを掴む。そういえばジュンは私服だった。こんなに濡れてしまって、どうするんだろう。
 ジュンがきょとんとした顔で振り返る。二人で雨の中、立ち止まって見つめあっていた。
 そうやって二人で、先輩に早く入れと言われるまで、雨の中つっ立っていた。




 夕立と思われた雨はなかなか止まず、結局練習は屋内での筋力トレーニングになった。例外なくびしょ濡れになった俺たちは、シャワー室で冷えた体を温めた。ちなみに濡れた衣服はボイラーの近くに干して、シャワーを浴びている間に乾かした。これは野外の部活では伝統となっている裏技で、俺たちは何度これにお世話になっているか知れない。それでジュンの私服も乾かした。
「別に帰っててもよかったのに」
「いや、一緒に帰りたかったし」
 そうして三時間後、練習が終わりすっかり暗くなったグラウンドで、ジュンは俺を待っていた。
 ただでさえ俺達が筋トレに入ってからは何もすることがなくて暇だったのだろうに、少なくともジュンは三時間、俺を待っていたことになる。
「別に、監督とかコーチとかと話してたからそんなに暇じゃなかったしな。結構身になる話も聞けたし」
 雨は練習が終わり俺達が部室で着替えているときにやんだ。だから夜のグラウンドには、雨で洗われたような空気が流れている。その中を、俺とジュン、二人で歩く。
「なあ、ユリ、見なかったか?」
「ユリ? ……ああ、坂下さん? 見なかったけど」
 ユリの苗字は、坂下だ。坂下由利。
「……そうか」
 本当なら、三人で帰るつもりだった。ユリも交えて。だけどユリはさっさと着替えてしまって、それからまだ着替え中の俺の頭を一発殴って出て行ってしまった。文句を言おうとしたけれど、顔を上げた俺は寂しそうなユリの顔を見てしまって、結局部室を出て行くユリに何も言えなかった。
 どうしたのだろう。ユリは今日一日、いや、ジュンが来た辺りから様子が変だった。
「それは、あれじゃない?」
 道すがらそのことをジュンに言ってみると、ジュンは少し考えてそう言った。
「今日は俺が代わりに捕ったから、それで嫉妬して、カナメに八つ当たり、みたいな」
 それを聞いて、あ、と気付いた。そうだユリは、俺がジュンとのバッテリーに焦がれていることを知っているのだった。
 気付いてみれば、その酷さに我ながら絶句した。俺は今までユリを見たことがあっただろうか。ずっとずっとジュンとのバッテリーを夢見ていた俺は、ジュンのことしか見ていなかった俺は、ユリのことを、一度でも。
 そしてユリはそれを知っていた。俺がジュンを見ていることを知っていた。ユリを見ていないことを知っていた。それでもずっと、俺の球を受け続けてくれていた。
 それはなんて酷いことだろう。俺たちはバッテリーなのに。唯一無二の、一心同体の、バッテリーのはずだったのに。どうしてこんなに酷いことが、許されるのだろう。そしてユリはそれにずっと耐えていたのだ。ずっと。
「……俺、」
 思わず、足が止まっていた。ジュンが驚いたように振り返って、立ち止まる。
「ユリに酷いことしてた」
 俺は、どうすればいいだろう。ユリに酷いことをした俺は。酷いことをし続けた俺は。
「じゃあ、謝らなきゃな」
「え……」
 顔を上げると、ジュンはにっこりと笑っていた。俺の重い胸の内を知らないように。あるいは吹き飛ばすように。
「酷いことしちゃったんだろ。だったら、謝んないと」
 ああそうか、と思う。ユリはきっと、許してくれるだろう。俺がごめん、と一言謝れば、きっと別にいいよ、と言って許してくれるだろう。
 わかる。だって、俺とユリはバッテリーなんだから。
「……うん。そうする」
 俺は再び歩き出す。少し先にいるジュンのもとへ、歩き出す。
 俺にはユリがいる。そしてジュンがいる。俺は幸せ者だ。だって俺のことをちゃんと思ってくれる人が二人もいるのだから。
 明日、ユリに謝ろう。ごめん、と。今まで気付かなくて、見ていなくてごめん、と。これからはユリと、みんなとソフトをするよ、と。
「なあ、コンビニ寄ろうぜ」
「コンビニ? 何でだよ」
「アイス、奢るんだろ」
「……そんなの、覚えてたのか」

 未来は今ここにある。そしておいてきた今を、今、拾い上げた。






end.


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