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「練習付き合え」
「練習付き合ってくれ」
 俺とジュンは、ほぼ同時にそう言った。
 横で聞いていたおばさんには、開口一番それなの? という顔をされた。






   ソーダアイスが溶けるように






 ジュンが甲子園から帰ってきた。
 甲子園が終わってから夏休みが終わるまでの一週間ほどは練習が休みになり、しかも夏休み中で授業もないので、寮暮らしだったジュンは実家に、つまり俺の家の向かいに帰ってきていた。
 甲子園で優勝したジュンが帰ってからは、近所の人たちが持ち寄ったお祝いの品々で宴会をしていたらしいが、日々練習がある俺はそれに参加せずにいた。でもそういう集まりが苦手な俺は、練習がなくても行かなかったんだろうけど。
 そしてジュンが帰ってきて四日目。丁度俺が一週間に一度の休みになり、宴会の熱も下がった日。俺はジュンの母親……小さいころからお世話になっているおばさんに半ば無理矢理拉致られて、渋谷家にお邪魔していた。そこで二階から寝ぼけ眼でパジャマのまま降りてきたジュンと対面し、そして冒頭の台詞へ。
「もう、あんたたちねえ、もうちょっと気の利いた台詞はないの?」
 おばさんは呆れたように頭に手をやり、深々とため息をつく。ため息とは、失礼な。
「気の利いた台詞って何ですか」
「だから、久しぶりね、とか優勝おめでとう、とか。カナメちゃんもそのぐらい言えるようにならなきゃ。ほらジュンも! 応援ありがとうとかないの? そもそも女の子の前でそんなだらしない格好しないの! ああもう、二人とも世話が焼けるわね!」
 おばさんはいつでも元気だ。同時に世話好きでもあり、とても好感が持てる人だ。……けど、俺を女の子扱いするのはちょっとやめてほしいと思う。ジュンだって完璧に俺のこと男だと思っているのに。
「……練習、いつやる?」
 ジュンが目をこすりながら言った。あ、こいつさっきから全然聞いてなかったな。これは百パーセント、寝ぼけてる。ていうことはさっきの練習付き合ってくれ、も寝ぼけて言ったのだろう。
 何寝ぼけてんのよ! とおばさんにチョップを喰らうジュンを眺めつつ、寝ぼけている時に俺を見たら練習付き合ってくれ、と言うのはどうなんだろう、と思う。そしてそう言われる俺もどうなんだろう。
「あ、カナメちゃん。そうめんでよければ朝ごはん御馳走したげるよ。ああそうだ、もらったスイカがあるのよ。食べてって」
 顔洗って着替えてきなさい! とジュンを蹴り飛ばしたおばさんに言われて、俺は慌てて首を振る。
「あ、別に構わないでください。すぐにジュンと練習行ってくるんで」
「練習するにしたってお腹に何か入れなきゃ駄目でしょ。いいから食べていきなさいよ。小さいころはよくここで食べてったんだし、今更遠慮なんて気持ち悪いでしょ」
 やっぱり小さいころから、おばさんには敵わない。




 夏の朝に響くのは、涼しげな風鈴の音と、そうめんをすする音。
 渋谷家のそうめんは、つゆに一工夫加えるからとても美味しいと思う。今日はコチュジャンをひとさじ落としたピリ辛そうめんだ。暑さでだれる夏にはとてもありがたいと思う。
 俺の対面でそうめんをすするジュンは、まだ少し眠たそうにしている。パジャマからTシャツ姿にはなったものの、寝癖はちっとも直っていない。
「え? なにこれ? なんで今一塁に投げたの?」
「牽制したの。一塁ランナーが盗塁しないように警戒してるわけ」
「トウルイって何? 警戒?」
「だからー……」
 渋谷親子は決勝戦のビデオを見ながら、微笑ましい会話を繰り広げている。おばさんは比較的若くて何事にも興味を示す性格だけど、何故か野球のルールだけはいくら説明しても覚えられない。こんな会話も聞いたのは一度や二度ではない。
 俺もそうめんをすすりつつ、ビデオを見る。試合は九回の裏しか見てなかったから、試合展開がわかるそれはありがたかった。食べながらでもじっくりと見て、自分なりに分析する。昔からの癖だ。野球でもソフトでも、テレビでやっているのを見ればその試合を自分なりにいろんな角度で分析する癖が、いつの間にかついていた。
 今は三回の裏。まだどちらも点は入っていない。確か前半は完璧な投手戦だったと記憶している。
「ピッチャーがキャッチャーに投げて、キャッチャーが二塁に投げるまで少し時間がかかるでしょう。この時間のうちに、足が速い選手は二塁まで行けちゃうんです。だからそれをさせないために、牽制ってのをするんですよ」
 盗塁の説明に戸惑うジュンに見かねて口を出すと、おばさんは何だかキラキラした目で俺を見てきた。
「カナメちゃん、説明上手ねえ。私がなかなか野球のルール覚えられないのは、絶対ジュンの説明下手のせいよねえ」
「んなわけあるか……」
 ジュンはげんなりした顔でたくあんを齧る。俺はつゆの中に残っためんをかき集めてすすった。それで腹八分目。これから体を動かすには丁度いい腹具合だ。俺はテレビに見入る。三回裏はツーアウトまで追い込んだ。ランナーは一塁にいるが、バッターは八番だ。そう危機感を覚える場面でもない。ピッチャーが投げる。と、同時に一塁ランナーが走っていた。盗塁。ボールを受けたジュンは素早い動きで二塁に送球。残像が目に焼きつくような力強い球は、二塁に入ったショートのグローブの中へ吸い込まれる。アンパイヤのアウト、の声。わっと歓声。
「え? え? 今の何? なんで交代するの?」
「盗塁阻止ですよ」
 テレビの中のジュンの強肩に惚れ惚れしながら、半ば無意識に答える。
「一塁ランナーがさっき説明した盗塁をやろうとしたんですけど、二塁に着く前にタッチされちゃったんでアウトになったんです。で、そのアウトでスリーアウトになったので交代です」
「今、投げたのジュンだったよね」
「そうですよ。だから今のはジュンがとったアウトです」
 おおー、とおばさんが感嘆の声を上げる。その時いきなりぶつんとテレビが消えて、おばさんと俺は二人であー、と濁点が付きそうな声を上げる。
「カナメ、練習いこ」
「え、ちょっ、待てよ! ビデオ見せろよ! 俺今年の甲子園全然見れてないんだぞ!」
「いつでもビデオ貸してやるよ」
「んだよ、食休みついでに見ようぜ!」
「公園まで歩けば十分食休みになるって」
「どんだけ見たくないんだお前!?」
 さっさと立ち上がって玄関から外へ出ていこうとするジュンを追って、おばさんにごちそうさまでした、と言いつつ居間を出る。
「そんなに見たくないわけ? 俺ジュンの強肩にはいっつも惚れ惚れしてんのに」
 玄関先で待っていたジュンに、つっかけた靴を履き直しつつ言う。
「だから嫌なんだよ」
「恥ずかしいのか?」
「それより、その靴で練習やるの?」
 からかってみた言葉をあっさりと無視されて、怒鳴ったりするのもガキっぽくて癪だから、げし、と一発蹴ってやる。
「家で変えてくっからお前もちゃんとミット準備しとけよ! 俺マジで投げっかんな!」
 弁慶を蹴られて声もなくうずくまるジュンを置いて、向かいの自分の家に飛び込む。スパイクに履き替えてグローブとボールを取る。それから強い日差しに対処して、帽子をかぶる。すぐに家を出ようとしたけど思い直して、着ていたタンクトップを半袖のアンダーに変えた。こっちの方が気合いが入る。
 そういえばジュンに受けてもらうの小学生以来だ、と思い当たり、俺は何だか急に体温が上がるのを感じた。だって、ずっと、性の違いを突き付けられた中学生の日から、ずっとジュンに受けてもらいたかったんだから。
 そういえばジュンと一緒に野球をする、ジュンにいつか受けてもらう、という夢が、半分叶うのだ。
「……よし、」
 軟球と硬球を一つずつ持って、家を飛び出す。目の前に広がったあまりにも青い夏に、俺は心地よい眩暈さえ覚えた。




「そういえば、あの公園行くのも久しぶりだな」
 夏の朝を、俺とジュンは歩いていく。まだ朝と言ってもいい時間帯だというのに、すでに日差しは強く、暑い。スパイクで踏むアスファルトも、じりじりと熱を孕んでいる。
 空を見上げれば、立派な入道雲。蝉も鳴いている、なんて夏らしい朝。
「そうだなあ。……小学生以来か。結構経ってるもんだな」
「中学に入ってからは部活が忙しかったからな。高校じゃなおさら」
 二人並んで、近くの公園へと歩く。じりじりと照りつける日差しに、すでに背中にはうっすら汗をかいていた。
「懐かしいなあ。元はと言えば、あんな小さいころにやってた野球がきっかけなんだよな。なんか信じらんね」
「確かに、あの頃はまさかお前が甲子園で優勝しちゃうなんて思いもしなかったもんな」
 ジュンはちょっと苦笑して肩を竦める。実際本人を目の前にしてみると、ジュンが甲子園で優勝したという実感は湧かない。
「ま、俺優勝したし、カナメも頑張れよ」
 ぽん、と軽く頭を叩かれる。なんだかジュンにはいつも子供扱いされているような気がする。同い年で幼馴染なのに。十センチ以上背が違うからだろうか。
「……不公平だ」
「何が」
「なんでこんなに背が違うんだ? 同い年なのに」
「そりゃ男と女なんだから当たり前だろ。カナメだって女じゃ背がでかい方だろ」
「女の中で背がでかい、じゃ意味ないんだよ」
 そう、本当に、意味がない。俺はジュンと同じところにいたいのに、同じ目線でいたいのに、本当に、不公平だ!
「あーあ、ほんとに、男に生まれればよかったなあ」
 カツカツとスパイクとアスファルトがぶつかり合う特殊な足音を立てながら、やがて俺とジュンは公園に辿り着く。
 公園と言っても、それは川辺の河川敷を利用した、ただっ広い空間だ。隅の草むらに一つ二つ遊具があるだけで、あとは薄茶色の地面が広がっているだけ。まさに野球をするにはうってつけの場所だ。
 そこではすでに小学生だろうか、数人の男の子が野球をしていた。カンッといい音がして、白球が飛んでいく。
「先客がいたな」
「まあな。でも二人だけだし、端っこ借りてやろうぜ」
 河川敷へと下る階段を降り、早速グローブをつける。毎日使いこんでいるそれは、しっくりと手に馴染んだ。
 ぱんっ、とグローブの中に軟球を投げ入れて振り返ると、ジュンはまだ階段の途中で、ぼうっと少年たちの野球を見ている。
「……懐かしい?」
「ん? ああ、まあな」
 ちょっと肩をすくめて階段を降りてきたジュンに、ボールを投げる。ミットを小脇に抱えたままのジュンは、ちょっと慌てて両手でそれを受け取った。
「あぶねえな」
「ぼーっとしてる方が悪い」
 ジュンは苦笑しつつも改めてミットをつけ、ボールを投げ返してきた。キャッチボール。
「一番最初に野球やったの、何歳の時か覚えてるか?」
「いや」
「俺もだ。そりゃそーだよな。物心つくころにはもう二人で野球してたし」
 ボールを投げ返し、でもさ、と続ける。
「初めて野球したのは、ここだったって気がしねえ?」
 ボールを受け、ジュンは少し考えるように視線を泳がせた。それからちょっと振りかぶって、投げる。
「そんな気がする」
「だろ?」
 或いは、ここが俺とジュンの原風景なのかもしれない。ここで、二人でキャッチボールをしている風景。それが、俺とジュンの、始まり。
「あー、なんかマジで懐かしくなってきたな」
 ジュンは言いつつ投げる。ちょっと強めに返ってきたボールを、強めに返してみる。いい音を立ててミットに収まったボールに、ジュンは笑う。
「覚えてるか? お前、あんまり暑いからって川で泳ごうとして溺れかけたの」
「うわ、最悪。なんでそんなこと覚えてんだよ」
 あれは四・五歳のころだったか。その年は記録的な猛暑で、外に出ればすぐに汗でびっしょりになるような夏の日だった。そんな日にも関わらず俺とジュンはやっぱりここで野球をして、そして暑さに発狂した俺は川に飛び込んで、予想外の深さに溺れかけたのだ。
 その時はとっさに飛び込んで俺を引っ張り上げてくれたジュンに助けられて大事には至らなかったけど、その時のことを思い出すだけで顔から火が出るようだ。なんだってジュンはあの頃から泳ぎが得意だったんだ。いや、あの時ジュンが泳ぎが得意じゃなかったら俺は死んでいたのかもしれないんだけれど。だけど。
「じゃあジュンだって、間違って犬にボールぶつけて、そんで噛まれて大泣きしてたじゃないか」
「あー、そんなこともあったなあ」
 あの犬が飼い犬だったのか野良犬だったのか、いまでもわからない。その時はジュンに噛みついたその犬に俺が思いっきり蹴りを入れて追い返し、わんわん泣くジュンを引っ張って自宅に戻りおばさんに手当をしてもらったのだ。
 その時の傷を思い出して、少し身震いする。だってあの時のジュンの腕にはくっきりと歯形が残り、血すら滲んでいたのだから。全く、未来の甲子園優勝校の正捕手の腕に噛みつくなんて、あの犬はなんて神経をしているのだろう。今見つけたら蹴りどころで済ますものか。
「じゃあこれは覚えてる? 小学校のクラスメイトがさ、ここで野球してるときにカナメに告白して、カナメが泣きだしちゃったの」
「……あ?」
 そんなの、覚えにない。
「へー、これは忘れてんだ。やっぱカナメってこういう色恋沙汰は忘れるんだな」
 興味なさそうだし、と笑うジュンに、俺は動揺を隠せない。そんなこと、あったっけ。
「なにそれ? 全然覚えてないんだけど。どういうことだよ」
「あー、確か山城って言ったかな。俺もあんまり覚えてないんだけど、そいつがいきなりカナメに好きだ、って言って、そしたらカナメはびっくりしたのかな、とにかく泣きだしちゃって。普通に野球やってるときにいきなりそんなことになっちゃったからさ。カナメが投げなきゃ野球になんないし、その日はそれでお開きになって、そしたら帰り道もお前ずっと泣いてんだもん。一緒に歩いてて恥ずかしかったなー。俺が泣かせたみたいでさ」
「全然覚えてない」
「はは、やっぱカナメってそういうこと興味ないんだな」
 投げられたボールを受けて、返す。言い返してやりたいけど、実際本当に興味がないから何も言えない。
「今も全然男っ気ないし。ソフトが恋人、って感じか?」
 さすがにそれにはむっとして、言い返す。
「そういうお前こそどうなんだよ」
「俺? ああ、そう言われると俺もそうかなあ。野球が恋人、ってやつだな」
「彼女とかいなかったのか? 結構モテそうなのに」
「そうか? ずっと野球一筋だったしなあ。全然だよ」
「一人も?」
「一人も」
 さすがにそれは意外に思う。お世辞抜きでジュンはモテそうなのに。それなりに整った顔をしていて、しかも未来性さえある才能を持つキャッチャー。それでモテなかったらちょっとおかしい。もしくは男目当てで野球を見るような女はピッチャーやバッターのような花形に目がいっていて、キャッチャーなんて言う地味なポジションには目を向けないのだろうか。それでジュンを見落とすなんて、もったいない。
 或いはジュンがあまりに野球に打ち込んでいて、それからあんまりにも恋愛とかそういうのに疎そうだから、手を出せないでいるとか。……なんだかそっちの方が可能性的に高い気がした。しかもジュンは甲子園優勝して、高嶺の花のようになってしまったし。
「カナメは?」
「あ?」
「カナメは彼氏とかいなかったのかって聞いてんの!」
 自分で男っ気ないとか言っておいてそれを聞くのか。俺はボールを投げつついるわけないだろ、と返す。
「へえ、意外だな。一人や二人いそうだったけど」
「はあ? なんで」
「だってカナメ、モテそうだし」
「へえ?」
 またしても意外な言葉に、変な声が出てしまう。俺が? モテそう?
「なんでだよ」
「え、カナメ、男に言い寄られたこととかないのか?」
 言い寄られたことはないけど、明らかに下心がみえみえな男が寄ってきたことは何度かある。女だったら誰でもいいですよと顔に書いてあるような。
 そういうのは、寄ってくる男そのものよりも、自分が女だと嫌でも思い知らされてしまうことの方がずっと嫌だった。そいつらは自分が女だから寄ってくるのだ。性の差を死ぬほど憎んでいた頃の俺は、それが心底嫌だった。
「カナメ、結構有名だったぞ。前にお前んとこと試合したうちのソフト部が可愛いって言ってて、それでお前の写真見た男子も可愛いって騒いでたし」
「え、何それ」
 ボールを投げようとした手が思わず止まる。どちらかというとぎょっとした。なにそれ。
「え、だから有名なんだって、カナメは。俺がカナメと幼馴染って知ってるやつは、紹介しろ、とか言ってきたし」
 そんなの、初めて知った。ていうかそれモテてるって言うのか? ……言うか。意外だった。びっくりした。俺の知らないところでそんなふうに見られていたなんて。
「ま、今はそんなことに気ぃ割いてられないけどな」
 確かに、そうだ。色恋に目を向けている暇などない。大会は秋。すぐそこにまで、迫ってきているのだから。
 俺がジュンにボールを投げたとき、すみませーん、と声がした。振り向くと、俺の足元にコロコロとボールが転がってきた。数人の少年が少し離れたところで手を振っている。俺はそのボールを拾って投げてやる。それは狙い違わず少年のグローブの中にすっぽりと収まって、おおー、と少年たちは感嘆の声を上げる。
「コントロールは抜群、か」
 ジュンはそれを感心したように見ていた。手の中のボールを俺に投げてよこす。
「じゃ、そろそろ始めるか」
「ん」
 しゃべりながらキャッチボールをしているうちに、体は十分ほぐれていた。本当ならこの後にストレッチをしなければいけないのだけれど、そう本格的な練習じゃないのでやらなくても平気だろう。
 ジュンはミットをしっかりとはめ、座った。基本的なキャッチャーの姿勢。
「球種は?」
「スライダーとカーブとシンカー。あと普通のストレートと思いっきり投げたストレート」
「なんだそれ」
 笑うジュンに速度が違うってこと、と返し、手の中でボールを弄ぶ。
「ソフトのボール受けるの初めてだろ。大丈夫か?」
「まあ大丈夫だろ。じゃあ最初は普通のストレートで」
 ジュンが構える。ど真ん中、だ。上等。俺は構えて、投げる。ウインドミル投法。腕を一回転させて投げる、最も一般的なソフトの投げ方。渾身のストレートはジュンのミットに吸い込まれるように収まり、いい音を立てる。
「ナイスボール。意外とずしんと来るな」
「んだよ、嘗めてんじゃねえぞ」
「いや、嘗めてるつもりはないけど」
 これでも俺は県内では屈指のピッチャーなのだ。県内どころか、全国でだって通用すると言われてる。ジュンみたいに。
「そういえば、球数制限されてんだろ。何球?」
「休みんときは五十。練習ある日は三十。全く、こんなんじゃ全然投げらんねえよな」
「練習ある日って、お前もしかして練習終わってからも投げてんのか?」
「はあ? 当たり前だろ。朝練前に二十、練習後に十、って分けてるけどな」
 俺の言葉に、何故かジュンはぽかんとする。珍しく間抜け顔だな、と思ってると、ジュンはううん、と唸ってボールを返してきた。
「それが当たり前だと、ヨシキも家で投げてんのか……。今度確かめておこ」
「ヨシキ?」
「ああ、俺とバッテリー組んでるピッチャーだよ。吉村吉城。甲子園で投げてたやつだよ。見てただろ?」
 あ、と思う。あの長身のピッチャー。そういえば今まで名前を知らなかった。ふうん、ヨシキっていうのか。
「じゃあ次、スライダー」
「おう」
 再び構えたジュンへ、俺はまた投げる。
 俺が投げて、ジュンが受ける。その夢だった現実に、ジワリと実感が染み込んでいく。




「次、ラスト五十」
「ああ? もう五十?」
 気づけば太陽の位置が動いているのがわかるほど、時間が経っていた。もう朝という時間帯ではなくなり、気温はぐんぐん上がってきている。暑い。もう汗びっしょりだ。
「散々走り回ったからって、ごまかしてんじゃねえだろうな」
「それはない。これぐらいじゃバテないし」
 散々走り回った、というのは、ジュンは俺のシンカーやカーブをこぼしまくったからだ。スライダーは普通に捕球するのに、シンカーとカーブはちゃんと捕球できるようになるまで数球を要した。ジュン曰く、これほどキレのあるシンカーとカーブは捕ったことがない、ということだそうだ。一応褒め言葉ではある。
「ヨシキは速球派だったからな。スライダーはそれなりに投げれたけど、シンカーとかカーブはまるっきりだったし」
 でも数球で捕れるようになった俺も褒めてくれよ、と続けたジュンの頭はひっぱたいたが。
「ラスト。思いっきり投げたストレート」
「あ?」
 今日初めて要求されるボールだ。ていうか球種を聞かれた時にそれを言ったのは半分冗談のつもりだった。この球は練習中、というよりは、言葉通り本当に思い切り投げるため肩への負担が大きく、ユリや監督にあまり投げないように言われているものだ。
「投げれるんだろ」
 一瞬どうするか迷ったが、ジュンの挑発するような……というか明らかな挑発に、投げないわけにはいかなくなった。別にいいや。どうせ一球だけだし。
 俺は構え、グローブの中で強めにボールを握る。しっかり握って、思い切り投げる。ただそれだけのストレート。
 腕の振りと同時に思い切り踏み込み、投げる。自身の目で見ても、明らかに今までのどんな球よりずっと速い。ジュンが瞠目する気配がした。
 パアン、といい音を立てて、ミットに球が突き刺さる。驚いたわりにはよく捕ったものだ。狙いはジュンが構えた所から少し上だったが、そのぐらいは微々なるものだ。ストライクゾーンには入っている。
「……すげ」
 ジュンが、にやりと笑った。そして猫のようにブルリと体を震わせる。
「カナメ」
「んー?」
「絶対、来いよ」
 どこに、と問うことはなかった。すぐに理解する。日本一。今ジュンがいる場所へ。
「お前なら、行ける……来れるよ。だから早く、上がってこい」
「……わかってるよ」
 真剣な……本気な目のジュンに、俺は少しだけ苦々しく笑う。そんなマジにならなくったって、俺はとっくに火がついている。本気になっている。
 俺は必ず日本一になる。そして必ず、ジュンと。
「ジュン、あと少し付き合え」
「え? もう五十球……」
「それは軟球の球数さ。こっちならいいだろ」
 持ってきたもう一つの球――硬球を取り出した俺に、ジュンは苦笑する。
「日本一になったら、一緒に野球してくれるんだろ? だったら、こっちも練習しておかなくちゃな」
「両立して、フォーム崩したりしないか」
「言っとくけど、ウインドミルとオーバースローは全然違うぜ。それでフォーム崩すほど不器用じゃない」
「……わかったよ」
 ジュンは改めてミットを構える。俺は硬球を握りモーションに入った。
 オーバースローは、中学のころからほぼ独学で練習していた。本やネットで基本的な投げ方を学び、高校に入ってからは野球部の監督に個人的にお願いして、秘かに投球ホームの指導を受けた。フォームを崩さないように注意して、ウインドミルと同じくらいの球数を投げてきた。試しにサイドスローやアンダースローでも投げてみたけど、やはりオーバースローが一番しっくりした。ウインドミルに少しでも近い投球だと、かえって違和感があるようだった。
 そうやって試行錯誤を重ね、だけど誰にも披露してこなかったこの投球を、やっとジュンにお披露目することができる。
「ただし、二十球だけな」
「ちぇ、わかったよ」
 俺だって肩は壊したくない。そのぐらいが適当だろう。
「一球! ストレート」
「おう」
 俺は腕を大きく振りかぶり、強く踏み込んで投げた。俺の野球が、ジュンのミットに突き刺さる。
 そして俺はジュンの震えるような笑顔を見た。




「あっ、いたいた! ジューン! カナメちゃーん!」
 十数球を投げたころ、元気な声が上から降ってきた。二人で見上げると、階段を上がった土手の上でおばさんが手を振っている。俺たちの視線が自分に向いたのを確認すると、おばさんはおいでおいでと手を振る。俺とジュンは練習を中断して階段を登った。
「もう、二人ともこんなに暑いのに飲み物一つ持ってかなかったでしょ。駄目よ、スポーツマンは体調には気をつけなきゃ」
 はいこれ、ポカリとアイス、とおばさんはジュンにコンビニ袋を渡した。横から中を覗いてみると、そこには言葉通り五百ミリリットルのポカリが二本と、ソーダアイスが二つ入っていた。
「じゃあ私、これからそこのスーパーに買い物行ってくるから。このくそ暑いのにあんまり入れこんじゃ駄目よ。早めに切り上げて帰りなさいね」
 確かに、この炎天下に飲み物一つ持たずに練習に出てきたのは無謀だった。シャツもびしょびしょだし、そろそろ帰るべきか。
「あ、そうそう、カナメちゃん。お昼も御馳走してあげるから、まだ帰っちゃだめよ。スイカも食べてもらわなきゃいけないし」
「え、あの、俺は……」
「カ、ナ、メ、ちゃ、ん」
「…………わかりました」
 やっぱり、おばさんには敵わない。
「それじゃあ行ってくるわね。早めに帰るのよー」
 手を振りながら去っていくおばさんに、残されるは俺とジュン。
「……まずは、休憩すっか。アイス溶けそうだし」
「そだな」
 俺とジュンは草が茂る土手の木陰がある場所を選んで座り、俺はジュンから受け取ったポカリを早速開けて喉に流し込む。意識していなかったから気付かなかったが、体はずいぶんと水分を欲していたらしく、俺は一気に半分ほど飲み干していた。潤されて初めて、喉がからからに乾いていたことに気づく。
 近くでは先程の少年たちが野球をしている。ボールがバットに当たる心地よい音や、笑い声。それに草木が風に揺れる音が涼しげだ。俺は頬を伝った汗を肩口で拭いた。
 隣ではすでにアイスを開けたジュンが、だらしなくアイスを銜えたまま少年たちの野球を見ている。ぼうっと見ているような視線は、見様によっては遠い目にも見える。懐かしんでるような、遠い昔を見ている目。
「楽しそーだな」
「ああ……」
 疲れているのか、ジュンはずいぶんとぼんやりしている。
「混ざりたいのか?」
 からかい交じりに言うと、ジュンは苦笑してまさか、と言った。その横顔に、ふと思い出して言ってみる。
「そういえば、優勝おめでとう」
「……何? いきなり」
「いきなりじゃないだろ。二回目だし」
 一回目は電話だったからな、と続ける。一応、直接言っておこうと思っていたのだ。
「……俺も、行くよ」
 そっと目を閉じる。土と汗と草木の、夏の匂いがした。
「だから、待ってて。俺も行く。絶対に行く。だから……」
 一緒に。
「わかってるよ」
 ふいに、ジュンの大きな手が頭にのった。そのまま髪をかき混ぜるように、くしゃりと撫でる。
「練習付き合うし、応援するし、カナメなら来てくれるって、信じてる。だから」
 待ってるよ。
 呼気と一緒にこぼれた薄い声が、何故か酷く俺の耳に残った。
「ジュン」
「ん?」
「帰るか」
「いいのか? あと何球か投げれるけど」
「いい」
 代わりに今度の休みはジム付き合えよ、と言いつつ立ち上がる。ジュンも食べかけのアイスを銜えたまま立つ。俺は溶けかけたアイスをぺろりと舐めた。ソーダの甘い味。
「今度、アイス奢れよ」
「え、なんで」
「なんとなく」


 二人で帰路に着く夏の終わり。ソーダアイスが溶けるように、夏が終わる。




end.



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