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本気まであと十秒




「なんかさあ、カナメ最近調子よくない?」
「……あ?」
 他のチームメイトとは別メニューの投球練習の最中に、ユリがそんなことを言ってきた。
「いつぐらいからかなあ。変化球のキレ良くなってるし、速度だって上がってるんじゃない? 今度測ってみようか」
 投球練習は一日百二十球まで、と決まられている。しかも間に適度な休憩を挟んで、だ。今はその休憩中だった。今日はまだ五十球も投げていない。こっちとしては投げたくて投げたくてうずうずしてるのに、休憩なんてもどかしい。でもこれは肩や腕を守るのに必要なことだとは理解しているので、それを破るつもりはないけど。
「ま、大会に向けて調子上げてるのはわかるけど。もしくは何かいいことでもあった?」
 いいこと。ユリは鋭いのかどうかよくわからない。調子を上げている理由は前者も正しいが、俺としては後者の理由が強いように思えた。いいこと。それに心当たりがある。
 ジュンのことだ。ジュンはあの日、ずっと俺のキャッチャーでいると言ってくれた。そしてそれがきっと、ずっと俺の中にあった迷いを吹き飛ばしてくれたのだ。
 俺の中にずっとしこりとなって残っていた迷い。俺はずっとジュンとの野球を目指しているのに、ソフトをやっていていいのか、という惑い。それは投げている最中さえ俺の中に在り続けた。だけどジュンは、ずっと俺のキャッチャーでいてくれると言った。ソフトを続けろと言ってくれた。だから俺は、何の迷いもなくソフトに打ち込むことが出来た。例えるのならそれは、重い枷が外れるのに似ていた。その差が、調子になって出てきているのだろう。
 俺はスポーツ飲料を渇いた喉に流し込む。八月の下旬に入ったとはいえ、まだまだ夏は終わらない。炎天下での練習は、一滴の汗でさえ命取りだ。
「そういえば、ジュンくん今日準決勝だね」
 ユリの何気ない一言に、どきりとする。ユリはわかっていてこのタイミングでジュンの名前を出しているのだろうか。でもそんな気配は全くない。わかっていないでこんなことを言っているのなら、ある意味大物だと思う。
「……そうだな」
 ジュンは、甲子園に行った。そして今まで一つも負けずに、ベスト4まで勝ち上がってきた。ジュンが一つずつ勝ち上がって行くたびに、俺はまさか、と震えを止められなかった。まさか、本当に。本当に、ジュンは優勝してしまうのだろうか。あの日の、俺との約束を守って。
「もう試合始まってるよね。今は五回ぐらいかなあ。せめてラジオぐらい、聞ければいいのにね」
 ユリの言葉に、どくん、と心臓が高鳴る。今この瞬間に、ジュンが戦っている。勝っているのかもしれないし、もしかしたら負けているのかもしれない。今遠い甲子園の地で、ジュンはあのピッチャーの球を受け、敵を攻略しようと思考を巡らせているのだろう。ジュンは盗塁を阻止しただろうか。クロスプレイでアウトを取っただろうか。がたいのいいランナーにタックルされて吹っ飛ばされてはいないだろうか。いや、キャッチャーとしては華奢な方とはいえ、ジュンも鍛えあげられた体を持つ男なのだ。そんな失態はあるまい。それにキャッチャーフライを追って怪我をしていないだろうか。いや、ジュンはそこまで馬鹿ではない……けど、普段は冷静でも野球のこととなると途端に熱くなるジュンは、そのくらいの無茶はしてしまうかもしれない。
「……カナメ?」
 ユリの声に、はっと我に返った。いつの間にか深い思考の海に潜ってしまっていたらしい。
 あれ、なんで俺、こんなにジュンのこと心配してんだろ。そう思うとなぜか恥ずかしくなって、どうしたの? と尋ねてくるユリになんでもない、とそっけなく返していた。
「午前の練習終わったらさ、職員室に見に行こうよ。絶対先生たち甲子園見てるって」
「……そうだな」
「じゃ、それまでにもうひと頑張り、ね」
「ああ」
 外していた帽子をかぶり、グローブをはめる。拾い上げたボールの感触に、俺はジュンの姿を少しだけ思い出した。





 午前の練習が終われば、昼休みをはさんで午後の練習になる。夏休み中の丸々一日使った練習はきついが、同時にやりがいもある。正直なところ、練習が終わったときに足りない、と思う日も稀ではない。
 今は昼休みに入っている。今頃他のメンバーはバランスを考えた弁当を疲れた体にかきこんでいるのだろうが、俺は職員室でアイシング中だ。いつもはユリも俺のアイシングに付き合ってくれるのだが、今日は監督に呼ばれていない。キャッチャーであるユリはチームの要だ。監督と細かい作戦会議をするのも稀じゃない。
 俺は右肩に押し付けた氷袋の冷たさに、ほうとため息をついた。炎天下の下で火照った体に、それはとても心地よい。午前の練習が終わったあと、職員室の冷凍庫に大量に突っ込んである氷を使ってのアイシングは、俺の日課だ。そしてやっぱり甲子園がついていた職員室にやってきた俺は、アイシングをしながら九回の試合に見入っていた。
「……マジかよ」
 テレビの中で、ジュンの高校の校歌が流れている。
「勝ちやがった」
 テレビには、校歌を歌うジュンの姿がアップで映っている。ジュンのチームの中で一番有名なのは、ジュンだ。キャッチャーとしての実力は然ることながら、バッティングも打率が高く三番を務めていて、プラス甘いマスクにクールな眼差し。完璧だ。ジュンは有名になるには十分な素質を持っている。
「この渋谷っていうのはすごいな! 七回の決勝打、こいつだろ?」
 渋谷、というのはジュンの苗字だ。渋谷淳。ていうかジュンが決勝打を打ったのか。スコアは1対0。マジかよ。
 校歌が終わりにさしかかり、またジュンの顔がアップになる。ジュンの顔にあるのは勝利の喜びじゃない。次の勝利を――優勝をもぎ取ろうとする、獲物を狙う獣のような表情。
 ぞくり、と背筋が泡立った。本気だ。こいつは本気だ。ジュンはきっと俺との約束のために、本当に優勝をする気だ。野球人生に等しい右腕を差し出してまで俺に誓った夢を、今、果たそうとしている。
「そういえば川崎、お前この渋谷と同じ中学じゃなかったか?」
 一人の教師がじっとテレビを見つめる俺に声をかけてきた。川崎というのは俺の苗字だ。川崎要。
「ええ、そうですよ。むしろ幼馴染です」
「おお、そりゃすごいな。私を甲子園に連れてって、か」
 げらげらと笑う教師に、舌打ちをしそうになるのを何とかこらえる。俺は連れて行って欲しかったんじゃない。そんな他力本願のか弱いヒロインになりたかったんじゃない。できるのなら俺は、ジュンと一緒に甲子園に行きたかった。ジュンと俺の力で、甲子園に行きたかった。
 あの日のジュンの言葉で吹っ切れたと思っていた性の違いは、だけどこんなにも簡単に顔を出してしまう。以前のように泣くほど悔しくなることはもうないが、それでももし俺が男だったら、と考えてしまうことは拭えない。
「俺は連れて行ってもらうより、自力で行く方が性に合ってます」
 適当に言葉を返すと、それもそうだな、と教師たちは盛大に笑う。
 テレビの中では校歌はとっくに終わり、両監督のインタビューに移っていた。それから涙を流している両チームの主将、そして……
「お! 渋谷だ!」
 涙ではなく汗を拭うジュンが、テレビの画面に映った。勝利を勝ち取り、次の獲物を虎視眈々と狙っている、静かな獣が。俺だけの、獣が。
 画面の外のインタビュアーが、ジュンにマイクを向け何か質問する。それにジュンは約束なんで、と短く答えた。これを見ている誰もが、この「約束」はチームメイトやクラスメイトに対するものだと思うだろう。だけど違う。それを俺だけが知ることができる。これは、俺との約束だ。日本一になるという、だからお前も日本一になれという、一緒に野球をすると誓った、幼馴染との「約束」。
 ジュンはいくつかの質問にぽつりぽつりと答え、最後に一言、という質問に、こっち――正確にはカメラだろう――を見た。
「決勝、絶対勝つよ。だからお前も、来いよ」
 ジュンの訳のわからない発言に戸惑い気味のインタビュアーを余所に、ジュンはさっさと画面から消えてしまう。ジュンがいなくなった画面を見つめながら、だけど俺は全く動けずにいた。
 ほとんどの人はその言葉の真意を掴めなかっただろう。当たり前だ。あれは俺に向けた言葉なのだから。テレビの前にいるであろう俺に、ジュンは全国のカメラでメッセージを送ってきたのだ。あまりに突拍子のないメッセージに、俺は固まるしかない。
「……馬鹿じゃねえの」
 全国ネットを全力で私物化しやがって。高校生の分際で。
 でも、全くもってジュンらしい挑発だ。その真意を知る者はいないとはいえ、その言葉を全国の人が聞いたのだ。そんな、全国の人が耳にした「約束」を、破れるわけがないじゃないか。俺も、そしてジュンも。
 思わず、手で口元を覆う。右肩に当てたアイシングの氷袋の中で、大きな氷がごろりと鳴いた。





 午後の練習は主に全体練習に時間を割き、俺はシートバッティングやフリーバッティングで投げた。俺も守備とバッティングの練習をして、ばててへとへとになる頃に練習が終わった。それからダウンをして、俺はまたアイシングをしてシャワーを浴びて、帰路に着く。もう外は真っ暗だ。
「カナメ、お疲れ」
「ああ、お疲れ」
 部室で荷物をまとめエナメルバックを肩にかけたとき、後ろからユリに肩を叩かれた。
「今日、ジュンくん勝ったね」
「それ、誰に聞いたの」
「職員室にいた先生。カナメ、青い顔してテレビ見てたんだって?」
 一体、誰がそんなこと言ったのか。確かにジュンの本気を見て寒気は覚えたけれど、それを顔に出したつもりはない。……つもりはなくても、或いは出てしまっていたのか。
 俺とユリは一緒に部室を出て駅まで歩く。俺もユリも通学組だ。
「ジュンくん、明日決勝だね」
「……そうだな」
「勝つといいね」
 ユリの言葉に、動揺する。ドキ、と心臓が鳴った。いや待て、なんで俺、こんなに動揺してるんだろう。
 ジュンに勝ってほしくないのだろうか。そんなわけがない。ジュンの才能は、ジュンの努力は、誰よりも俺が一番分かってる。それなのに勝ってほしくないということは絶対にない。そもそもそう思う理由もない。
 或いは、と思う。或いは、ジュンの本気に戸惑っているのか。ジュンが本気なのは、当たり前だ。甲子園の決勝まで来て、本気にならない球児の方がおかしい。だけど、だけど違うのだ。ジュンは誰のためでもない、俺との約束のために勝とうとしているから、俺はこんなにも動揺してしまうのだ。ジュンは、本気なのだ。本気で優勝して、そして俺も日本一になってくれると、信じているのだ。
 もしくはその、確信にも似た俺への信頼が、俺には怖かったのかもしれない。自分が優勝すれば俺も優勝してくれると、ジュンはそう思ってる。それどころかきっとジュンは自分が優勝すれば俺も優勝すると、そう決まっているとさえ思っている。その確信が、怖いのだ。その確信を裏切ってしまうかもしれないことが、怖いのだ。
「ジュンくん、優勝したらどうする?」
「え……」
 予想外の言葉に、思わず声を漏らす。ジュンが勝ったら?
「だって、幼馴染なんでしょ? ずっと一緒に野球やってた子なんでしょ? その子が優勝したら、祝ってあげたりしないの?」
 祝う。全く考えもしなかったことだ。俺がジュンを祝う。祝うと言っても、何をすればいいのか見当もつかない。
「なんでもいいんだよ。おめでとうって言ってあげるだけでもいいし。それだけでも結構嬉しいものだよ」
 ま、勝ったらだけどね。と笑うユリを余所に、考える。ジュンが勝ったら、ジュンが本当に勝ってしまったら、どうしよう。俺は絶対に勝たなくちゃならなくなって、それから、優勝してきたジュンを迎えなければいけない。
 そのとき、俺は。
「じゃあ私こっちだから。また明日ね」
 ふと気づけば駅に着いていて、俺の家とは反対側のユリはあっという間に人ごみの向こうに消えて行った。
 明日、ジュンが勝ったら。
 ふうとため息をついた。無意識に入っていた肩の力を抜き、三分後に俺が乗る電車が来ることを知らせる電子掲示板に目をやる。定期で改札を抜け、ホームで電車を待つ間にエナメルの中にいつも入れているキシリトールガムを口の中に放り込む。ぼうっとガムを噛んでいるうちに電車が来た。この時間はほとんど満席で、俺はドア前の手すりに寄りかかる。ドアが閉じて、電車が発進する。流れるホームの景色を見て、思う。
 明日、ジュンが勝ったら。
 どうしよう。





「そりゃジュンくんが気になるのはわかるけどさ」
 次の日。昨日と同じ一日使っての練習の、午前中。
「だからって気のないピッチングするのやめてくれる?」
 俺はとても珍しく、ユリに怒られた。珍しいというより初めて、だ。ピッチングに関することについては。
「……だって、」
 出てきた言葉は、言い訳がましくそして続かない。だって。
「カナメの気持ちもわかるけどさあ、大会までもう一か月切ったんだよ? 全く、なんで調子いいねって褒めた次の日に怒んなきゃいけないの」
「……悪かったよ」
「もう、一応それで許したげるけど、これ以上気のないピッチングしたら受けてあげないからね!」
「わかったよ」
 定位置に戻るユリの背中を見て、思う。今、ジュンは戦っているのだ。決勝で。夢の甲子園の、決勝で。
 今、勝っているのだろうか負けているのだろうか。今すぐにでもテレビの前に飛びつきたいけど、投げないわけにはいかないし投げたい。本当に、いても立ってもいられないとはこういうことを言うんだろうなと思う。いっそのこと練習をサボって甲子園に直接行ってしまえばよかったか。
「カナメ!」
 ユリの声に、思考から無理矢理頭を引き剥がされる。ユリはバンとミットを叩いて、構える。
 はあと息をつく。何を馬鹿なことを考えているのだろう。甲子園に行く暇があったら一球でも多く投げろ。女々しく練習をサボってジュンを見に行くなんてことは、ジュンも俺も、許すわけがない。
「五球!」
「おお」
 ジュンのことはまだ気になるけれど、目の前のユリに集中する。大丈夫。集中できる。
 俺はボールを構え、投げた。ボールは狙い違わずユリが構えたミットの中におさまり、ユリはナイピ、と褒めてくれた。





 アイシングのことなんて、頭の中から綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
 職員室のテレビの目の前。目が悪くなるぞ、と言われたけれど無視した。午前の練習が終わった瞬間に、ここまでまさに飛んできた。全力疾走だ。いきなり駆けだした俺にユリもチームメイトもびっくりしただろうけど、投球練習をずっと集中して投げたのだから、それぐらいは許してほしいと思う。
 九回裏。ジュンたちの守備。ここを守れば、試合が終わる。
 スコアは、3対2。ジュンが、勝っている。つまりこの回を守り切れば、ジュンたちが。
 ジュンが勝つ。
 嘘だ。本当に。本当に本当に本当に、ジュンが勝つ。
 信じられなかった。
 今はワンナウト。ランナー一塁でバッターは三番。テレビを通してでも球場の緊張感が伝わってくる。あとアウト二つ。それで、それだけで、たったの、それだけで。ジュンが。
 ピッチャーは、あの準々決勝の時と同じピッチャーだ。ジュンとバッテリーを組む、長身のピッチャー。
 カウントはツーストライクツーボール。ジュンのサインに頷いて、ピッチャーが投げる。ものすごく速いストレート。それをバッターは打ち上げた。高々と上がったキャッチャーフライを、マスクを外したジュンが落ち着いて捕る。ツーアウト。
 ライトスタンドがわっと沸く。ジュンの高校の応援だ。あと一人、という声。そうだ。あと一人。あと、一人。
 テレビに張り付くように近づく。後ろで誰かが何か言ったような気がしたけど、何も聞こえなかった。テレビから聞こえる、あと一人、という声援。
 ピッチャーが投げる。惚れ惚れするぐらい切れのいいスライダー。空振り。ワンストライク。テレビからの声援が、もう耳に痛いほどだ。
 ボールを投げ返すジュンが映った。マスクの向こうの目。マスク越しで見えにくいはずなのに、恐ろしいぐらい冷静な目が網膜に焼きついた。こんな場面なのに、ジュンは全く動じていない。緊張していなければ、目の前の勝利に興奮することもない。本当に、恐ろしいぐらい本気の、ジュン。
 ピッチャーが投げる。今度はストレート。バッターはそれを大きくファールにした。ツーストライク。
 爆発的な声援が、あと一人、からあと一つ、に変わった。あと一つ。あとストライク一つで、ジュンが。
 ジュンが、勝つ。
 ジュンがサインを出す。ピッチャーはゆっくりと頷いて、構えた。投げる。ストレート。空振り。バッターアウト。スリーアウト。そして、
 テレビの中の歓声と、職員室の中で教師たちが上げた歓声が、俺を包んだ。
 試合終了。ジュンがマスクもメットもむしり取ってマウンドに駆け寄り、ピッチャーと抱き合う。そこに次から次へと選手たちが集まってきて、マウンドは団子状態になった。みんなが笑っている。泣いている選手もいる。歓声は鳴りやまない。その中心で、ジュンは笑っている。
「……あ、」
 その笑顔を見て、やっと気づいた。
 ジュンが、勝った。
「あ、あ」
 ジュンが、勝った。甲子園で優勝した。日本一になった。
 歓喜する選手たちの中心で、高々と拳を上げるジュンが映った。そしてジュンは叫んだ。歓声で全く聞こえはしなかったけど、確かに。
 カ、ナ、メ、と。
「あ……」
 たまらなかった。体が震え、涙が溢れた。そして俺は気付いた時には職員室を全力で飛び出していた。
 息がうまくできず、涙がボロボロとこぼれた。わけのわからない感情が溢れだして、胸が苦しかった。胸を掻き毟りたくなるような感情だった。だって、ジュンが、ジュンが、ジュンが。
 ジュンが、勝ったんだ。
 涙が止まらなかった。





 気づけば誰もいない校舎の裏にうずくまって泣いていた。
 どれぐらい時間が経ったのだろう。それすらも覚えていない。ひく、ひくとしゃくりあげる自分が憎らしい。なんでこんなに、女々しく泣いてるんだろう。これじゃ目が腫れて、午後の練習に出られない。
 ジュンが、勝った。
 涙を止められないまま、テレビで見た最後の場面を思い出す。歓喜の表情で、挑むように空へ高々と拳を突き上げたジュン。遠い地にいる俺へ、俺は勝ったぞと咆哮するように俺の名を叫んだジュン。
 ジュンは本当に、俺のために勝ったんだ。嘘じゃない。本当に、本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に、勝ってしまった。
 ジュン、が。
「カナメ!」
 突然の声にびっくりして顔をあげ、それから泣いていることを思い出して俯いた。泣いてるところを見られると思っても、涙は止まらない。なんなんだこれ。
「……泣いてるの?」
 目の前から声が降ってくる。声でわかる。ユリだ。午前の練習が終わると同時に飛び出して、それからまた職員室から飛び出してしまった俺を心配して、探してくれていたんだろう。
「ジュンくん、勝ったね」
 ユリがしゃがむ気配がした。すぐ目の前に、ユリの吐息の気配がする。
「ジュンくん、すごいね。私たちも、頑張んなきゃね」
 俺は顔を上げた。目の前のユリがちょっとだけ驚いた顔をする。俺が泣き顔を見せたことが意外だったのだろう。
「俺……っ」
 涙に詰まりながらだけど、言う。俺は、言う。
「俺、勝たなきゃ」
 ぐず、と鼻をすする。ジュンのあの恐ろしいぐらいの本気の目が、網膜に焼き付いて離れない。
「俺、ジュンと同じところ行きたい」
 ジュンは本気だったのだ。本気で、俺との約束を守った。本当にジュンは、俺に火をつけるのがうまい。あれだけの本気を見せつけられたら、本気にならないわけがないじゃないか。
「俺、勝ちたい。日本一に、なりたい……っ!」
 心の底から、本当に。本気で。
 校舎の裏。夏の昼下がりに、俺は宣言する。俺のパートナーへ。俺の一生のキャッチャーであるジュンではないけど、十分信頼するに足るキャッチャーへ。きっと俺と一緒に俺の約束を果たしてくれる、ユリへ。
「俺は日本一まで、行くぞ」
 みっともなく涙を流しながら、それでも。
「そうだね」
 ユリは、にっこりと笑って言った。
「ジュンくんとの約束、だもんね」
「え……」
 ジュンとの約束。ユリにそのことは話していない。だから知らないはず、なのに、ユリは。
「実はね、準々決勝のあの試合の時に、お互いカナメを知る者同士ってことでメルアド交換したんだよね。だからそのあとのことも、ジュンくんに教えてもらったの」
 ユリはイタズラが見つかった子供のように舌をぺろりと出して笑う。そうか。ユリは全部わかっていたのか。本当にユリには、一生敵わない気がする。
「じゃ、今日は特別だからね」
「……は?」
 ユリはひょいと立ちあがって、それから肩をすくめ俺の目を指す。
「その目じゃみんなの前に出ていこうにも出ていけないでしょ。監督には私からどうとでも言っておくから、午後はずっと泣いててもいいよ」
「え……」
「どっちにしろその状態じゃまともに投げれると思えないしね。そんな状態で投げさせて怪我でもされたらやだし。大丈夫。監督はわかってくれるよ」
 ぽんぽんと頭を軽く叩かれる。まさかユリの口から練習をサボってもいいなんて言葉が聞けるとは夢にも思わなかった。ユリは鬼監督と同じぐらい練習馬鹿なのに。
「というわけで、はい」
「あ?」
 渡されたのは、俺の携帯。何故ここに。ていうか勝手に持ってきたのか。
「ジュンくんに電話してあげなよ。ジュンくん、喜ぶと思うよ」
「……あ?」
 あまりに予想外な提案に、変な声が出てしまう。なんで、今。優勝直後の、ジュンに。そう思って、でもすぐに気づく。ああ、今だからか。
 ユリから携帯を受け取る。その瞬間、謀ったように携帯が震え始めた。びっくりして落としかける。電話着信だ。
「あれ、もしかして向こうから来たのかな?」
 からかうようなユリの声を余所に、二つ折りのそれを開く。そこにあったのは、ユリの言う通り、ジュンの名前。
「……マジで?」
「じゃ、私は練習行ってくるから」
「ええ?」
 無責任なユリはそれだけ言い残してあっという間に消えてしまって、あとには震え続ける携帯と俺だけが残された。
「マジ、かよ」
 何コールしても、携帯の震えは止まらない。或いは執念のようなものすら感じられる着信に、俺は観念して通話ボタンを押した。
「勝ったぞ」
 開口一番、そう言われた。なんだかもう、苦笑するしかない。
「わかってるよ。馬鹿」
 涙はもう、止まっていた。
「おめでとう」


 本気まで、あと十秒。




end.



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