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チェリー


 私は恋をしているのだろうか。
 いつでも頭の中にある問いを、言語化し意識まで浮上させて反復する。私は恋をしているのだろうか。
「――それで」
 目の前にあるパソコンの画面は、固まっているのか全く動かない。上書き保存のアイコンをクリックしてからだいぶ経つ。動画の編集などという難解なことをやっているのだから多少の重さは目を瞑るつもりだったが、これはいくらなんでも遅すぎると思う。たかだか上書き保存でこの重さ。別にパソコンが古いというわけではないというのに、勘弁してほしい。頑張れ、パソコン。
「宇喜田先輩の亀甲縛りは芸術だったなあ。縄がちゃんと綺麗な六角形を形作ってたんだ。初めて宇喜田先輩が椅子を亀甲縛りにして見せたときは感動したなあ」
 画面を隣で一緒に眺めている男子は、ちょっと遠い目で教室の窓の外を見る。その視線の先では七月の太陽が一日の長い役目を終え、沈もうとしていた。西の空が赤く煌いている。綺麗だ。
 そんな景色を眺めている私には、なかなかおかしな話を聞かされているという自覚はあった。だけど彼におかしな話を聞かせているという自覚があるのかないのか。
「俺も宇喜田先輩から亀甲縛り習ったんだけど、あの域にはまだまだ達しないんだよなあ……」
 私は横目で、先ほど彼に亀甲縛りにされた椅子を見る。今は教室に私と彼しかいないから放置しているが、これはきっと公然猥褻罪だろう。でもどんな犯罪であれバレなければいいのだ。問題ない。
 しかし彼が縛る過程を一部始終見ていたが、どう縛ったらあんな奇抜な形になるのかわからない。見て縛り方を覚えることは三秒ほどで放棄した。もしくは縛り方を覚えてみようとしたところから間違いだったのか。
「私、今初めて亀甲縛り見たけど、別に感動はしなかったなあ」
 気のない声で素直な感想を述べると、彼は呆れたように天を仰いだ。自然、女の私にはない喉仏に目が行く。なんとも綺麗な形をしている。
「あのな、亀甲縛りの魅力は一言では言い表せないんだぞ。亀甲縛りに限らず全てのSMは……いやエロは――」
 後半からは完璧に聞き飛ばした。そういう話題を聞きたくないわけではなく、彼のそういう話は幾度となく聞かされたからだ。少し興味がある話題ではあったけれど、さすがに飽きた。
 だから私は内容は聞き飛ばし、これだけは幾度聞いても飽きない彼の声に耳を傾ける。彼の声は、独特の渋さを持つ低い声だ。どんなに離れていても彼の声だとすぐにわかる、彼だけが持つ声だった。それが私にはとても羨ましく思えた。
 私は熱く語り続ける彼の横顔を盗み見る。彼は少しだけ彫りの深い端整な顔立ちが印象的な男子だった。細身だけど筋肉質で、一目でスポーツをしている人だとわかる。実際彼は陸上部のエースだ。
 端正な顔をしていて、スポーツ万能。これだけでも女の子にもてる条件を十分に満たしているというのに、なんで彼はこういうことを熱く語ってしまうのだろう。全力でそういう才能を無駄遣いしている。もったいない。
 彼は、自他共に認めるオタクだった。パソコンでいかがわしいサイトを見ていたり、秋葉原の地理に詳しかったり、エロゲーの話に花を咲かせていたりする。でも彼と私に中でのオタク像は、どこまでいっても交わらない。彼の口から「萌えー」という単語を聞いた時は、あまりのギャップに軽くショックを受けたものだ。
「――つまり、愛情表現を受け入れてあげるのが愛であって、それが多少歪んだものでも、受け入れてしまえば愛は成立してるんだよ。だからSMだって立派な愛……っと、保存終わったみたいだよ」
 内容を完璧に聞き飛ばしていたせいで聞き逃しそうになった彼の言葉に、慌てて画面を見やると、保存しましたという文字がようやく映し出されていた。やれやれ、やっと作業ができる。
 それからは彼に操作を教えてもらいながら、私はパソコンに取り込んだ動画を切ったりくっつけたりして、頭の中のイメージと同じものを創り出していく。
 ふと、パソコンの向こう側の、夕日に照らされて赤く染まった教室が目に入る。急激に、今私は彼とここに二人きりなのだと理解する。誰もいない、夕日に染まった教室で、二人きり。なかなかロマンチックなシチュエイションだとは思うが、それでドキドキすることはない。多分彼を好きかどうか以前に、何かが起こることを欠片も期待していないからだろう。そこまで私は夢見る少女ではない。
 私は、恋をしているのだろうか。
 さっきから何度も繰り返している自問を、また頭の中で反芻する。
 彼のことは、好きだと思う。だけどこの「好き」が、友達としての「好き」なのか、恋愛対象としての「好き」なのか、いまいちわからなかった。
 彼に対するこの気持ちは、恋、なのだろうか。
「……どうしたの?」
 手を止めた私に、彼は声をかけてきた。鼓膜から入り込んで、じわりと脳髄に染み込むような声。とても独特で、羨ましい彼の声。
「ん、ちょっと考え事」
 彼にちょっと笑いかけて、私は作業を再開した。その笑みに自嘲が表れていなければいいなと、少しだけそう思った。




 彼の名は、島崎昴といった。
 彼と私はクラスメイトだった。だけど内向的で人と接するのが少し苦手な私は、クラスメイトの大部分と話したこともなく、彼もその大部分の一人だった。だから、特に彼を意識したことはあまりなかった。
 だけどそんな私と彼を引き合わせたのは、高校の一大イベント、学校祭だった。私たちのクラスは話し合いの末、映画を撮って上映することになった。その後、文学少女である私が脚本と監督をすることになり、私は戸惑いながらもそれらをそつなくこなし、撮影は無事終わった。
 だけど問題は、その撮った画像を人に見せられるようにする作業――編集だった。脚本と監督を一人でやったため、映画の完成品のイメージは私の頭の中にしかないと言っても過言ではない。故に自然と私が編集をすることになった。でも私は電子機器類がさっぱりで、パソコンなんて全く使えず、当然編集ソフトも使いこなせなかった。ほとほと困り果てた私に助っ人として派遣されたのが、彼――昴くんだった。
 彼はパソコンに詳しく、初めて使うはずの編集ソフトもあっという間に操作を覚えてしまい、それを私にわかりやすく教えてくれた。それから私は何とかコツを覚えて一人でも編集できるようになったのだけれど、彼はわからないことがあった時のために、放課後遅くまで編集をする私に付き合ってくれた。
 それが、初めてできた私と彼の繋がり。学校祭が終わってしまえばきっとすぐにでも切れてしまう、なんて儚い――それ故に、大切に思えた繋がり。




 私のこの、昴くんへの気持ちは、恋なのだろうか。授業中、熱されたフライパンを思わせるグラウンドを眺めながら、思う。
 私は小さい時からずっと引っ込み思案で内向的で根暗で、ついでに純情でシャイで男慣れしていなくて、男の子に話しかけるだけで顔を赤くしてしまうような女の子だった。
 それはきっと、今も治ってはいない。だけど昴くんだけは、女友達に接するようにおしゃべりすることができた。それが何故なのかは、自分でもはっきり分かっていない。多分昴くんは、普通の男の子よりだいぶ変わっているからだと思う。
 昴くんに対して、私はいつでもドキドキしている。話しかけられている時や、おしゃべりしている時、一緒にいる時だって、私の心臓は心拍数を上げる。だけどこのドキドキが、単純に恋だとは思えなかった。何故なら私は純情でシャイで男慣れしていなくて、男の子に話しかけるだけで顔を赤くしてしまうような女の子――だからだ。私は男の子に対しては誰にでもドキドキしてしまって、そのドキドキと恋のドキドキを見分けることができないのだ。だからいつも悩んでしまう。私は恋をしているのだろうか。わからない。いつだって私は、何もかもをわからないままでいる。
 だけど一つだけ、昴くんについてわかっていることがある。
 昴くんはきっと、今までで一番近い所にいる異性であるということ。ただそれだけ。
 ちらり、と斜め前方の席に座っている昴くんを見る。昴くんはこの暑さで、だるそうに机に突っ伏していた。きっと授業なんてまるで聞いていないのだろう。私も人のことは言えないが。
 今日は午前中だけ授業をして、午後から学校祭の準備をすることになっている。明日は一日中準備に当てて、そしてついに明後日が、本番の学校祭だ。
 今は四時間目、午前中最後の授業。これさえ終われば、昼食をはさんで準備が始まる。
 斜め前では昴くんが欠伸をかみ殺し、私はそんな昴くんの横顔に少しだけどきりとして――それを隠すように、眠るふりをして机に顔を伏せた。




 編集の仕事はもう私に完全に任されていて、他のクラスメイトは学校祭の一イベント、各クラスごとのステージパフォーマンスのダンスの練習をするため、ほとんど体育館に行っていた。残ったクラスメイトは教室の内装を飾っていて、それなりに忙しい。
 そんな中で私はひたすらパソコンと格闘していた。すでにシーンをつなげて一本の映画にはなっている。今日と明日あれば、明後日の本番には十分人に見せられるものができるはずだ。時間はたっぷりある。今は細かいシーンの切り替えや音声の調節を、より見やすく聞こえやすくするため調整していた。午後四時からは、みんなを集めて上映会をする予定なので、それまでにより良くしておこうという魂胆だ。
 今、教室に昴くんはいない。昴くんはダンスのメンバーの一人なのだ。なので今は体育館に行っている。昴くんはダンスの練習で忙しいだろうに、それでも練習の合間を縫って私の様子を見に来てくれる。ダンスの衣装のまま、かいた汗を拭きつつ教室に入ってくる昴くんの姿を見るたび、私は胸の底が暖かくなるような気持ちになる。
 私はちらりと時計を見た。針は三時半の少し前を指している。少し焦った。役を演じたクラスメイトの声が少し小さく聞き取りづらくて、それを大きくするのに苦戦しているところだ。このクラスメイトの台詞を全て調節するとなると、四時には間に合わないかもしれない。
「おおい、調子どう?」
 ふいに独特な渋みがある低い声――昴くんの声がして、私はドキリと心臓が跳ね上がるのを感じながら顔をあげた。こんなふうに声をかけられるのは初めてじゃない、どころか何十回も聞いているのに、未だに慣れないでいる自分に少し呆れる。
「ん、いい感じ。四時には大体終わらせる」
「別に無理しなくてもいいだろ。明日も時間あるんだし」
 昴くんは適当な椅子を引っ張ってきて、私の隣に座った。すでに机は全てベランダに出されていて、あとは必要なだけの椅子が妙にがらんとした教室に点在しているだけだ。もはやどれが誰の椅子だかわからない。
 昴くんはパソコンの画面を覗き込む。今画面に表示されているのは、昴くんがちょっとした役でセリフを言っているシーンで、それを見た昴くんはちょっと苦笑した。その横顔を見ていた私は、その苦笑が目に焼きついたのを感じた。苦々しく歪められた唇や、力なく下がった太い眉。笑った時の特徴である、目元の皺まで。
 異性と接したこともない私にとって、異性である昴くんの喜怒哀楽は、少なくとも新鮮だった。喜怒哀楽だけじゃない、昴くんの全てが、私にとっては今まで見たことのない、経験したことのないもので、あるいはそれが、恋とは別に私を惹きつけているのかもしれない。
「これ、もうほとんど完成してるんだろ? だったらもうDVDに写しちゃおうぜ」
「でもまだ時間あるから、細かいところとかできるだけやっておきたいし」
「ふうん、そっか。真面目だな」
「別に、普通だよ」
 確かに、できるところまでやっておきたいという気持ち、それは普通だろう。だけど私には、もう一つ、それ以上の理由がある。
 だって私と昴くんを繋ぐものは、これしかないのだから。私が編集に四苦八苦していれば、少なくとも編集をしていれば、優しい昴くんは私が困っていないかと隣にいてくれる。だけど編集さえしていなければ、昴くんが私のそばにいる理由などたちまち無くなってしまうのだ。
 そしてそんなあまりにも脆い繋がりは、明後日の学校祭まで。学校祭が終わってしまえば、私がこんなにも大切にしている昴くんとの繋がりは、たちまち切れて無くなってしまう。編集が始まる前の、話すこともないただのクラスメイトに戻ってしまう。もしかしたら学校祭が終わった後も、昴くんは私に話しかけてくれるかもしれない。だけどそれでも、私から昴くんに話しかけることはできない。気の弱い私には、そんなことはできない。私から切れた繋がりを繋ぎ直すことなど、できるわけがないのだ。
 だから、これは学校祭が終わるまで。この楽しい戯れは、明後日までの、儚い夢なのだ。
「ダンスのほう、抜けてきて大丈夫なの?」
「んー、だいじょーぶ。俺、物覚え早いから」
 冗談混じりに、昴くんがにこりと笑う。そういえば私は前に、昴くんのダンスを見たことがある。練習を始めてからは、いつでもどこでも体が動いてしまうのだろう。昴くんはいつだったか、私が順調にパソコンを操っている横で、口の中で小さくリズムを刻みながら体を動かしていた。
 誰が考えたのかは知らないが、それはセンスのいい創作ダンスだった。昴くんのしなやかな体が、切れのいいダンスを踊っている様は、私でなくとも見惚れるだろうと思った。
「明後日、楽しみだな」
「……うん」
 例え脆い繋がりでも、儚い夢でも、少なくとも明後日までは、私はこの夢の中にいられるのだ。だから私は脆く儚いことを嘆いたりしないし、時間の流れを呪ったりしない。
 ただ私はここにある幸福に身を浸して、心の底から嬉しそうに笑うだけなのだ。




 学校祭前日の学校は、教室は、慌ただしいなんてものじゃなかった。明日の本番に向けて、上映のタイムスケジュールを組んだり、視聴覚室から借りた映写機を設置したり、お客さんの座る椅子を絶妙の配置で並べたり、急遽客引きのためにポスターを作ることになっててんやわんやしたり、納得するまで編集した映画をDVDに写して映写機のテストを兼ねて最終確認の上映会をしたり、ほとんど全員で合わせて踊れるようになったダンスをクラスの前で披露したり。そんなふうに全ての準備を終えたときには、すでに夏の長い日が落ちようとしていた。
「お疲れ様」
 映写機の操作やタイムスケジュールの組み、それになぜか半分やっていた指揮の疲れにぐったりしていると、目の前にカルピスソーダが差し出された。声ですぐわかる。昴くんだ。
「島崎くんも、お疲れ」
 差し出されたカルピスソーダをありがたく頂き、プルタブを開けて渇いたのどに流し込んだ。新鮮な炭酸が口の中に広がる。
 昴くんも私の隣に座り、こちらはコーラを開けて飲んだ。それから風呂上がりの一杯のように大げさに息を吐いて、ぐったりと背もたれに体重を預ける。
「疲れた?」
「そりゃあ、あれだけ動けばな」
 昴くんは、先ほどクラスのみんなにダンスを披露したままの格好だ。ちょっとパンク系の、黒を基調とした衣装。男子はパンツで女子はスカートという違いはあるが、みんな同じデザインの衣装だ。
 クラスの半数が踊るステージパフォーマンスのダンスは、音楽に合わせると以前見た以上に早く、そして激しいものだった。かいた汗が、その激しい動きで飛び散るほどに。それほどダンスが得意ではなく、それに編集などで忙しいため不参加だった私から見れば、よくこんな短期間でこれほどのダンスが踊れるなと感心してしまうほどのものだった。
 それをアンコールに応えて三回も踊り、その前にも準備のためにいろんな所を駆け回っていた昴くんは、きっと相当な疲労を感じているのだろう。
「……いよいよ、明日だね」
「そうだな」
 準備を終えた教室には、興奮しているような、ほっとしているような空気に包まれていた。クラスメイトのみんなが、みんな思い思いに椅子に座り、雑談をしている。絶妙な配置の椅子が乱れてしまうが、それは明日の朝にでも直せばいいことだ。
「そういえばこれ、先生のおごり?」
 ちびちびと飲んでいたカルピスソーダの缶をヒョイと上げて聞くと、昴くんはコーラを一口飲んでから答えた。
「いや、俺が買ってきたやつだけど」
「え、私に?」
 昴くんがこくんと頷く。完全に予想外だった私は、少し焦って手を無意味に左右に動かしてしまう。
「え、……お、お金、払うよ」
「いーよ、俺のおごりで」
「え、でも……」
 むしろ、おごるべきなのは私の方なのだ。昴くんがいなければ、私はあんなに完璧に近い作品を作れなかった。クラスのみんなからすごいすごいと賞賛されたのも、今私の中にある達成感や満足感も、全て昴くんのおかげなのだ。私は昴くんにどれだけ礼を言っても足りないほど、感謝しているのだ。ジュース一杯では全くもって足りないほど、感謝しているのだ。
 それを昴くんは、わかっているのだろうか。
「だって」
 溢れるほどの感謝を口に出すのは恥ずかしかったから、代わりに私にもおごらせてよと言おうとした時だった。
「俺たちがここまでやれたのって、お前のおかげだろ?」
 何を今更とでも言うような顔で、こんなことは当然だとでも言うような顔で。今までの苦労や努力が丸ごと報われる言葉を。
「……え?」
「だってお前、ずっと中心になってクラスまとめててくれたじゃん。うちのクラス落ち着きないから、こういう共同作業できるのかなってみんな少し不安になってたんだけど、ほんと、お前がいてくれてよかったよ。お前がいたから、こうやって本番前日にちゃんと準備全部終えて、みんなでしゃべってられるんだよ。お前には、みんな感謝してる。だからこれくらいおごらせてくれよ」
 泣くかと思った。私は、なんて幸福なのだろう。自分に一番近い人に、自分がこんなにも惹かれている人に、こんな、泣いてしまうほどに嬉しい言葉をかけてもらえたなんて、なんて、なんて幸福なのだろう。
「だからさ、遠慮しないで飲めよ」
「……うん、ありがとう」
 泣きそうになりながら、一口、カルピスソーダを啜る。昴くんがくれたカルピスソーダは、どんな飲み物よりも美味しく思えた。
「明日、頑張ろうな」
「うん」
 優しい昴くんの声に、私は頷くことしかできなかった。




 学校祭当日。
 その日は、まるで嵐のように過ぎ去っていった。
 上映開始から予想以上の入場者にてんやわんやになり、学校中を駆け回って椅子を集めて追加したり、当番制だったのだけれど、不慮の事態になったら対処できないということで、私は教室に残らなきゃいけなくなったり、上映中教室に熱が籠るので、学校中の扇風機をかき集めて教室中で回したり。
 最初から最後まで慌てっぱなしで、私に限っては他のクラスの催し物を一つも回れずに、だけどその努力のおかげかタイムテーブルが乱れることはなく、学校祭は終了した。


 窓の外は、すっかり夜だった。
 閉会式も終夜祭も終わり、あとはそれぞれのクラスがそれぞれの教室で盛り上がっている時間だった。
 私はそんな音がそれぞれの教室から漏れ、混ざり合う廊下にいた。私のクラスは、ラジカセで誰かが持ってきたCDを大音量で流していた。その音楽が微かに廊下に漏れてくる。この浮かれた雰囲気によく似合う、陽気な歌。
 私は廊下にあったパイプ椅子を開き、座った。自然とため息が漏れる。きっと今日は誰もかもが疲れているだろう。
 私のクラスの催し物は、優秀賞だった。最優秀賞の下、つまり二位だ。
 大健闘だった。私のクラスがコールされた時は、クラス全員が歓喜した。私もまさか映画を上映したぐらいで優秀賞がとれるとは、文字通り思ってもいなかった。
 そして私は、歓喜を通り越して狂喜したクラスメイトに袋叩きにされた。初めはびっくりしたけれど、昨日のクラスのみんなが私に感謝している、という昴くんの言葉を思い出し、優秀賞の歓喜も相まってまた泣きそうになった。
 嬉しかった。
 ふと目の前の教室の扉が開いて、陽気な歌が大きくなった。出てきたのは、昴くんだった。
 ドキリとした胸の高鳴りを抑え軽く手をあげると、昴くんも無言で手をひらつかせて答えた。
「中、すごいよ。誰が持ってきたか知らないけど、お酒まで開けてるんだ。このままだと飲まされそうだったから、逃げてきた」
 昴くんは私と同じようにパイプ椅子を開いて座り、苦笑した。そんな昴くんの鼻先に、私は黙ってさっき買っておいたコーラを突き出した。昨日のお返しと今までのお礼だ。
 もらえ、と無言の圧力をかけている私に昴くんはまたちょっと苦笑して、それから素直にコーラを受け取った。私は大げさにうむ、と頷いて、自分の分として買ったポカリに口をつけた。
「ダンス、かっこよかったよ」
「……ああ。そうか、ありがとう」
 体育館で行われた、クラスごとのステージパフォーマンス。教室での催し物でてんやわんやだった私は、それでも何とか時間をやりくりして、自分のクラスのダンスだけでも見に行った。
 ステージの上で踊る昴くんは、本当にかっこよかった。暗幕を引いて真っ暗にした体育館のステージの上で、色とりどりの照明を受けて踊る姿は、まるで本物のダンサーのようだった。きっとあの場にいた誰もが、体に鳥肌を立てたに違いない。それほどのものだった。
 昴くんは少しの沈黙の後、コーラを口に運び、言った。
「賞とれて、よかったな」
「……うん」
 壁一枚を挟んだ喧騒が遠い。ここが私と昴くんだけの世界と錯覚しそうな雰囲気だった。
「まさか、とれるとは思わなかった」
「そうか?」
「え?」
 思わず昴くんを見ると、昴くんも私を見ていた。
「俺は、とれると思ってたよ。上映会で初めて通して観たとき、まじですげえって思ったから。あいつ、よくこんな物作れるなって思った。そんで今日思ってたよりもいっぱい客入ったから、ああもうこれは上位狙えるなって、思った。みんなそう思ったんだぞ」
 確かに、思った以上にお客さんが入って嬉しかったけど、それでも賞がとれるなんて、私は少しも思わなかったのに。
「監督やってるときだって、カメラワークとかセリフとかに滅茶苦茶こだわってて、脚本だって何度も書き直して、こいつ本気なんだなって気づいたら、こいつ本当にすごいやつなんだって、思った」
 なんでそんなにキラキラと子供みたいに光る目で、なんでそんなに嬉しそうに言うんだろう。
 なんでそんなに綺麗な表情で、私を見てくれるんだろう。
「ありがとうな。賞とれたの、お前のおかげだよ」
 きっと、それは一生忘れない言葉だろうと思う。どれだけ時が経っても、どれだけの記憶の底に埋もれようとも、昴くんの顔さえ思い出せなくなってしまったとしても、それでもなお忘れない……忘れることなどできない、なんて強烈で、美しい言葉。
「……違うよ、私があんなに納得のいく映画作れたのは、みんなと島崎くんのおかげ。島崎くんがいなかったら、私は賞とれるような映画、作れなかったよ」
 それは、事実だ。昴くんがパソコンを教えてくれなかったら、私はあんなにこだわって編集できなかったし、何より映画という半ば無茶な催し物もやることができた。パソコンに強い昴くんがいたから私のクラスが映画をやったと言っても、決して過言ではないのだ。
 確かに、クラスの中心にいたのは私だったのかもしれない。でも中心にいた私をずっと支えていてくれたのは、他の誰でもない、昴くんなのだ。
「だから、お礼を言うのは私の方だよ。……ありがとう。島崎くん」
「何か改めてそう言われると、恥ずかしいなあ」
 昴くんは困ったようにこめかみをかいて、だけどどういたしまして、と頭を下げてコーラを飲んだ。
 それから、二人で黙ってジュースを飲んでいた。途中本来の消灯時間になったのか、廊下の電気が全部消えたけれど、二人で消えたね、消えたね、と言っただけでまた黙ってしまった。廊下は教室から漏れた光で薄暗い。教室から漏れてくる喧騒と薄明りで、廊下はますます静かで孤立的な空間になっていく。
 二人ともずっと黙ったままだったけれど、その沈黙は別に気まずいものではなかった。むしろ心地よささえ感じるものだった。
 私は黙ったまま、ずっと考えていた。なにを考えていたのかというと、このままではあと数時間で切れてしまう、私と昴くんの脆い繋がりについて。このままではあと数時間で終わってしまう、儚い夢について。
 きっと、昴くんとこんなふうに接することができるのは、これが最後だろう。今日このまま解散して、学校祭分の振替休日を過ごした後、普通の学校生活に戻ったらもう、そこに今のような繋がりは存在しないだろう。あったとしても、ほんのわずかな残り滓程度。朝会った時におはようと挨拶を交わすだけとか、ほんの少しだけ話すだけの、なんとも味気ない関係になるだけだ。
 だけどそんな未来を変える方法が一つだけ、ある。
 簡単な話だ。私が自分から繋がりを保とうとすればいい。学校祭が終わった後も今と同じように昴くんに話しかけ、おしゃべりすればいいのだ。いまのこの状態が幸せなら、そうすればいい。それで万事は解決する。だけどそれができるのならば、最初から繋がりが切れることを悲しんだりなどしない。学校祭が終わった後も気軽に昴くんに話しかけられるほどの勇気があるのなら、とっくに男慣れしてるし昴くん以外の男子ともおしゃべりできるだろう。要は私に勇気と呼べるようなものはない。そういうことだ。
 ならどうするか。これもまた簡単な話だ。自分から昴くんに話しかけることができないなら、昴くんから話しかけてもらえるようにすればいい。昴くんの特別な存在になればいい。つまり、告白でも何でもして恋人にでもなってしまえばいいのだ。
 ただこれは、賭けであり諸刃の剣でもある。告白なんてそんなものだ。でもやってみる価値はある。昴くんなら、例え私が告白してそれがどんな結果に転んだとしても、きっと今まで通りに接してくれる。そう確信できた。それにどちらにしろ、このままでは繋がりは切れてしまうのだ。告白して切れたとしても、大差などない。
 だから、告白してしまえばいいのだ。薄暗い廊下には誰もいなくて、私と昴くんだけの世界のようで、まるで図ったかのような状況で――今なら、言えそうな気がした。
「……島崎くん」
「んー?」
 コーラを飲みきり、空になった缶をべこべこと手の中で潰していた昴くんは、気の抜けた返事を返してきた。今の昴くんに告白したらどういう顔をするのだろうという、ちょっとした悪戯心が胸をくすぐり、そのまま唇を開いて好きです、と言ってしまおうとした。
 だけどその寸前に、違和感が私の胸をよぎった。
 いや、待てよ。――好きです? なんで。なんでだろう。なんで私は昴くんに恋をしているのかもわからないでいるのに、告白なんてしようとしているのだろう。
 私は恋をしているのだろうか。この気持ちは、恋と呼べるようなものなのだろうか。わからない。そう――わからないのだ。もしこの気持ちが恋ではなく、友情の類だったり、恋の勘違いだったとしたら、今ここでしようとした告白は、全くの嘘だということになるではないか。
 私はなんでこんな気持ちのままで、告白なんてしようとしているのだろう。こんな曖昧な気持ちのままで、こんな曖昧な気持ちを、昴くんに押し付けるなんて――そんなこと、できないし、していいわけがない。
 名前を呼んだまま長いこと黙ってしまっている私を、昴くんは怪訝そうに見ている。昴くんのことは好きだ。大好きだ、とも言えるだろう。昴くんは根暗な私と初めて仲良くしてくれた異性であり、私に一番近い場所にいる男の子だ。そして初めてできた……大切な人だ。だから嫌われたくないし、迷わせたくないし、傷つけたくなかった。
「……ううん、ごめん。なんでもない」
 少しだけ無理に笑顔を作って首を振ると、昴くんは拍子抜けしたような顔で「……そう」と言った。
「……あ」
 ふいに昴くんは視線を斜め上に固定して、小さく声をあげた。何かと同じところに視線を動かすと、そこには、ガラス越しの満天の星空が広がっていた。
「ああ……。きれい、だね」
「うん」
 廊下が薄暗いおかげで、星空がよく見れた。祭りの後に相応しい、熱狂の跡も歓喜の余韻も疲労の残り香も、丸ごと全て包み込むような星空だった。
 きっとこれでいいのだろう。私はぼんやりと、そう思った。夏も祭りも何もかもが終わり、それらの余韻に包まれた夜に、たった二人だけのような世界で、二人で何よりも相応しく美しい星空を眺めている。幸せだった。だからきっともう、これでいいのだ。
 恋なのかもわからない曖昧な、だけど何よりも温かく感じたこの気持ちには、こんな終わりが丁度いい。だから私はここで何も言わずに星と昴くんを眺めて、幸せに身を浸していればそれでいいのだ。
 私は星空を眺める昴くんの横顔を見た。昴くんの黒い瞳に星がいくつも映っていて、とても綺麗だった。
 こんなにも綺麗な人とこの夏を過ごせて、本当によかった。クラスのみんなで頑張って映画を作って、本当によかった。昴くんを好きになって、本当によかった。
 この一夏、私は本当に幸せだった。だからもう何も望みなどしない。これで十分、十全。これ以上の幸福なんてありはしない。だからもう、いいのだ。
 私は幸福に身を浸し、何よりも大切な人の姿を目に焼き付けて、そっと瞼を下ろした。



end.


月別御題
四月「恋」


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