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  第一章 梶原相談事務所=アンデットオフィス



 初めての家族旅行だった。
 それで初めて飛行機というものに乗った。当時十二歳だった俺は窓から覗いたときの高さが怖くて、飛行機の中でずっと両親にしがみついていた。両親はそれに見かねて俺の頭を撫でて大丈夫だよ、飛行機は落ちたりしないよ、と言ってくれた。結局それは嘘になってしまうのだけれど、両親のその言葉でひどく安心したことを今でもはっきりと覚えている。その時の両親の笑顔も。
 やがて俺は退屈で眠ってしまったのだが、その眠りは長く続かないうちに叩き起こされることになった。
 俺を起こしたのは、体をシートベルトに押し付ける大きな揺れとそれに驚いた乗客の悲鳴だった。覚醒してからも揺れは収まらず、それどころか揺れはさらに大きくなっていく。乗客はざわめき、両脇に座っていた両親が俺の体を抱き締めた。
 何が起こっているのか全くわからない。俺は不安になって母親の服をきつく握る。そんな混乱の中、ついに機体はガクンと大きく揺れ――大事な何かを失ったかのように落下を始めた。
 爆発する悲鳴。内臓が浮き上がる感覚。両親の腕がさらに強く俺を抱き締めた。
 その腕と窓越しに、俺はすぐ目の前に地面が迫っているのを見た。あ、と思う間もなく襲ってきたのは衝撃。下から突き上げるようなその衝撃に何もかもがわからなくなる。自分の居場所も、自分を強く抱き締めてくれているはずの両親の腕も。
 そして薄く開いた視界を埋めたのは、炎の赤。
 それは無慈悲に暴力的に全てを奪う、炎の赤。
 俺たちを襲ったのは、漏れた燃料に引火して巨大化した、炎だった。真紅のそれは津波のような勢いで機体を包み、俺達を焼いた。


 断末魔は、炎に呑まれた。




 片瀬鈴の朝は、お気に入りの目覚まし時計の音で始まる。
 ジリジリとうるさい目覚まし時計をばちん、と少し乱暴に叩いて黙らせ、鈴はサイドテーブルに手を伸ばして眼鏡をかける。
 鮮明になった視界に、いつも通り綺麗に整頓された自分の部屋が広がった。視界に入るのは本棚と机と鏡台ぐらい。質素というか、女の子の部屋にしては洒落っ気のない部屋だった。鏡台の上にあるのは制汗料と櫛とコロンぐらいしかない。部屋と同様、見事に洒落っ気のない内容だ。
 鈴は一つ伸びをしてベッドから降り、パジャマを脱ぎ学校の制服に着替えた。鏡の前で乱れがないかチェックし、髪を梳かして二つに縛る。
 鏡に映るのは、セーラー服を着た平均的な身長の少女。二つに縛った髪と眼鏡で少し地味な印象は受けるものの、顔はこれと言って綺麗でもなく不細工なわけでもない、平均的な容姿。人に自慢できるようなところといったら、友達によく羨ましがられる白くて綺麗な肌ぐらいだ。特に人とは違う手入れなどをしているわけではないのだが、鈴の肌にはニキビどころか黒子一つない。
 制服に乱れがないことを確認した鈴は、部屋を出て台所に入った。お気に入りの黄色いエプロンをつけ朝食を作り始める。
 鈴の母は夜遅くまで仕事をしているため朝は遅い。鈴はそんな母の分も朝食を作ってあげている。
 昨日の夕飯の残りの野菜炒めを温め、簡単な味噌汁を作りご飯をよそう。冷蔵庫から惣菜を出して、ちゃんと手を合わせて頂きますと言ってから手早く食べた。
 それから皿を洗いエプロンを外し母の分の朝食にラップをかけて、鈴は自分の部屋に戻り鞄を取った。
 時計を見ると七時過ぎ。やばい、少し遅くなってしまった。
「いってきますっ!」
 返事はないけれど大きな声で言い、家を飛び出す。鈴の家は古めの木造アパートだ。貧乏という偏見を受けそうなところではあるが、母と娘二人だけが住むなら丁度いいし、住んでみれば意外と快適なので鈴はとてもここが気に入っている。住めば都とはよく言ったものだ。
 鈴はアパートの階段を駆け下り、駐輪所の自分の自転車に駆け寄る。前のかごに鞄を突っ込み鍵を外して、鈴は朝の街に走り出した。鈴は自転車で走る朝が好きだ。朝のまだ覚醒し切れてない、でも始まる予感に満ちた冷えた空気の中を駆け抜けるのは心地よい。
 鈴が向かう先は学校じゃない。こんな早い時間に出て行ったって学校には誰も居ないしやることもない。鈴が向かっているのは、最近始めたアルバイト先。
 そこは丁度自宅から学校への直線距離上にあって、自転車なら五分程度で着く。鈴はキッと自転車を止めて、そこを見上げた。
 古いビルの二階の窓に書かれた「梶原相談事務所」の文字。そこが、鈴のアルバイト先だ。
 鈴は自転車に鍵をかけ鞄を引っつかみ二階への階段を駆け上る。二階の廊下に二つある扉のうち「梶原相談事務所 相談・調査承ります(勧誘お断り)」と書かれた看板がかかっている扉を開ける。
「おはようございまーす!」
 元気に挨拶するが、返事はない。でもそれはいつものことなので鈴は気にせず靴を脱ぎ、ソファやテーブル、テレビが並ぶ事務所を横切り「宿直室」という札が下がった奥の扉を開けた。
「おはようございます!!」
 もう一度大きく挨拶。だけどまた返事はない。
 八畳の宿直室。そこに布団を敷いて三人の男が雑魚寝していた。皆少年と言っていい年頃で、実際皆ティーンエイジャーだ。
 鈴は全員が全員深い眠りに入ってることを確認すると、部屋の片隅に置かれた(鈴がここに勤めるようになってから常に置いてある)中華鍋とお玉を取った。そして鈴はすうっと大きく息を吸い、
「おはようございまーす! 皆さん朝ですよー!!」
 中華鍋をお玉でがんがんがんがん叩く。その大音量で、一番手前にいた黒髪の少年がうめき声を上げまぶたを震わせた。顔立ちからして十代後半ほどの少年。
「おはよう智也くん。今日もいい朝だよ」
 智也と呼んだ黒髪の少年の横にしゃがみ、声をかける。その間も中華鍋を叩く手は休めない。これも職務を全うするためだ。容赦はしな……じゃない手は抜かない。
「ん……。おはよう、鈴」
 智也はまぶたを開いてその奥の黒い瞳で鈴を見る。黒髪黒目の平均的な顔立ちの少年だ。一般的な「少年」のイメージを、そのまま具現化したような少年だった。それほどかっこいいというわけでもなく不細工なわけでもなく、とても印象に残らない顔をしている。
「うん。おはよう」
 智也は寝惚け眼をこすりながらも体を起こした。こうなれば智也は二度寝はしない。一人目クリア。
 鈴は依然がんがんがんがんと中華鍋を叩きながら次の布団へ向かう。そこにはタオルケットを蹴っ飛ばして布団から大幅にはみ出している、くすんだ金髪の少年がいた。
 歳は智也と同じぐらいだろうか。大きく開けた口の端から涎が垂れてるあたり、智也より幼く見えるが。
「氷河くん! 起きて! 朝だよ―――!」
 その耳元で中華鍋を容赦せずがんがんがんがん鳴らす。このくらいしなきゃこいつは起きない。
「ん……」
 氷河という少年が薄く目を開ける。その目をこじ開けるように、鈴はさらに強く中華鍋を叩く。
「ほーらー起きて今起きてすぐ起きて起きなきゃ永遠の眠りに就かせるぞこらー!」
「…………。わかったよ起きるよ……」
 氷河は目をこすりながら体を起こした。くすんだ金色の髪が揺れる。
「もー、鈴はこうもっと優しい起こし方とか出来ないかなー? 起きないとチューしちゃうぞ! みたいな」
「セクハラ発言で訴えるよ」
 こういう戯言を言えるのならもう目は覚めているのだろう。二人目クリア。ということで鈴は氷河を無視して中華鍋とお玉を置く。残りの一人はこれがなくても起きる。
 三人目、はタオルケットに頭まで包まって小さく丸くなっていた。それが可愛らしくて鈴は思わず口元に笑みを浮かべてしまう。
「たっくん、朝だよ。起きて」
 そのタオルケットに包まった小さな塊を優しく揺すると、タオルケットの端からぴょこんと頭が出てきた。
 それはくしゃくしゃの黒髪の少年だった。まだ幼さが残る顔立ちは、智也や氷河と違う十代前半のようだ。
「……まだ眠いよ」
 タオルケットの中から小さな手が出てきて隈がある目を擦る。この隈は寝不足のせいとかではなくいつでもこの少年の目の下についている。少し陰湿な性格がそうさせているのか。
「でも今日も学校行くんでしょ。今日はたっくんの好きなチョコトーストとベーコンエッグにしてあげるから、早く起きてね」
 鈴がたっくんと呼ぶこの少年の本名は、神崎巧。四つも年が離れているため、鈴は弟のように親しみを込めて巧をそう呼ぶ。
「……本当?」
「うん。本当」
「……わかった。起きる」
 巧がもそもそとタオルケットの中から這い出してきたので鈴は立ち上がる。三人目クリア。オールクリア。やった。
「お布団、ちゃんと畳んでおくんだよ!」
「……はーい」
 力のない声を背に宿直室を出た鈴は、そのまま事務所も出て三階へと続く階段を駆け上る。三階も二階と同じ造りで、鈴は二つある扉のうち「金丸陽子」という札が下がっている扉を開ける。
「おはようございます、陽子さん」
「おはよう、鈴」
 今度は挨拶に返事があった。開けた扉の先、一人用の白いソファに新聞を広げた女性が腰掛けていた。歳は二十代半ばほどに見えるが、鈴は彼女の実際の年齢を知らない。小麦色の長い髪が白いソファに広がり、切れ長の目の奥で黒と言うより闇色と言ったほうが似合う瞳が鈴を見ていた。
 美しい女性だった。タンクトップとホットパンツという出で立ちのせいでその細く長い手足が露わになり、その豊かな胸や完璧と言っていい体のラインが浮き彫りになっている。肌は日を忘れたかのように白く、妖艶な笑みを浮かべる唇は薄く、紅い。
 その美女――陽子は、智也や氷河たちと同じ梶原相談事務所の従業員だ。さすがに女性があの部屋で三人と一緒に寝るのは好ましくないので、陽子は三階の部屋で寝起きしている。
「今日も早いですね」
「ああ、いつもすることがなくて早く寝てしまうからね」
 鈴は陽子が眠っているところを見たことがない。どんなに早く来ても陽子はいつもそのソファに座って新聞を読んでいる。一度陽子が眠っているところを見てみたくて、夜も明けないような時間に来てみたことがあるのだが、その時も陽子はいつも通り新聞を読んでいて、なんだ鈴、今日は妙に早いな、とけろりとした顔で言われてしまった。朝刊も届いていない時間だったので、手に持っていたのは昨日の夕刊だったが。
「今から朝食作るんで、降りてきてくださいね」
「ああ。わかった」
 頷いて、陽子は妖艶な笑みを深める。それだけでなんだか色気にあてられるような感覚を覚えた。同姓なのに陽子の美しさにはため息が出る。
 だけど陽子の美しさは傾国美女のように人を惹きつける物ではなく、逆に人が遠ざけるような美しさだ。絵に描かれた幽霊のような、今にも闇に溶けてしまいそうな、幽玄の美。
 鈴はそれを、人外の美しさだと思っている。
 鈴は陽子の部屋から出て、また二階に降り事務所に入る。風呂場兼洗面所で顔を洗っている三人を横目に台所に入り、黄色いエプロン(家のと同じ種類)をつけて食パンをオーブンに放り込み、早速朝食を作り始めた。
 フライパンに油を馴染ませベーコンを並べて焼く。その上に卵を割り入れ(片手で卵を割るなどお手の物だ)目玉焼きにすればベーコンエッグの出来上がり。その頃にはトーストも焼きあがり、鈴はベーコンエッグとトーストを皿に盛り巧の分のトーストにはチョコシロップをたっぷり塗った。冷蔵庫からは牛乳と漬け置きの惣菜を出し、それらを盆に載せて事務所へ持っていく。
「朝ごはん出来ましたよー!」
 事務所のソファにはすでに陽子を含む四人が座っていて、鈴が盆を持って登場すると主に氷河が歓声を上げた。
 四人それぞれ専用の皿に盛り付けたトーストとベーコンエッグ、それと惣菜を並べ、四つのコップに牛乳を注ぐ。
「それじゃどうぞ」
「いただきまーす」
 ちゃんと四人揃って手を合わせ食べ始めた。巧などは口の周りをチョコだらけにしてチョコトーストを頬張っている。
 いつも一人で朝食を取っている鈴は、少しだけそれが羨ましいと思う。
「今日は皿洗いしてる時間はないから当番の人がやっておいてね。お昼ごはんは冷蔵庫の中にあるから温めて食べて」
「はーい」
 元気のよい返事を聞いて、よし、と頷く。
 鈴が皿洗いをしないときは四人が交代で皿洗いをすることになっている。今日は氷河だったはずだ。ちなみに今日の昼食はつゆを温め麺を入れれば食べられるうどんだ。ちゃんと上に乗せる具も用意している。
 時計を見れば八時を過ぎていた。そろそろ行かなければ。
「じゃあ私学校行ってくるね」
 エプロンを外しながら言うと、いってらっしゃーいと揃って声が返ってきた。それも自宅にはないもので羨ましくなる。
 でも、と思いながら鞄をつかみ、靴を履いて事務所を出る。階段を駆け下りて自転車の鍵を外した。古ぼけたビルを見上げる。目に飛び込んでくるのは「梶原相談事務所」の文字。
 でも、私だって梶原相談事務所の一員なんだから。
 鈴は口元に笑みを灯して自転車で駆け出す。初夏の涼しい風が髪を撫ぜ、鈴はさらに笑みを深めた。


 それは半月前のこと。
 古ぼけたコンクリートのビルを見上げて、鈴はごくりと生唾を飲み込んだ。
 もうすぐ初夏という日の午後だった。その日は休日だったので鈴はTシャツとスカートという出で立ちで、手に紙を一枚持っている。
 鈴が見上げるビルは四階建てで、一階はシャッターが閉められ車庫になっているようだった。その横に上へ上がる階段があり、二階の窓には赤い文字で「梶原相談事務所」と書かれている。三階と四階は空室になっているようだ。
 鈴の用事があるのはその「梶原相談事務所」だ。鈴はもう一度生唾を飲み込んで、手の中の紙を見る。
 それはアルバイト募集のチラシだった。チラシの一番上には「梶原相談事務所 おさんどん募集中」の文字が躍っている。なんでまた「おさんどん募集」なんて書いてあるのかはよくわからないが、まあアルバイト募集と考えていいだろう。
 仕事内容はおさんどんらしく料理洗濯掃除などの家事全般。これは家事が得意な鈴にとっては天職のようなものだ。ありがたい。勤務時間は自由との事なので、これも学生の鈴にはありがたい条件だ。これなら学校が終わってからゆっくりと来ることが出来る。それに給料も悪くない。
 ただ心配なのは、募集定員。チラシの一番下に赤く大きな文字で書かれているのは「先着一名採用」の文字。
 鈴がこれを見つけたのは、ついさっき、お昼ご飯を買ってこようと近くのスーパーに向かおうとしたときだった。鈴は人気のない住宅街の電柱に昨日の学校帰りにはなかったこのチラシを見つけ、大急ぎでチラシを剥がし一旦家に帰って昼食を作り、そして大慌てでここに来たのだ。
 まだ誰も来てないだろうか。鈴にとってかなり条件の良いこのアルバイトはだいぶ外したくない。ていうか先着一名採用ってどれだけいい加減なんだろう。一人に限るのなら面接とか何かすればいいのに。
「……とにかく」
 いつの間にか一人でずっとここに突っ立っていたことに対する気恥ずかしさと、初めてのアルバイトへの緊張を紛らわせるために声を出す。
「行ってみないことには始まらないか……」
「あの」
「ひゃあっ!」
 突然声をかけられて思わずオンナノコらしくない声を上げてしまった。驚愕と羞恥で顔が赤くなっていくのがわかる。
「あ、あの……」
 困惑した声がして、振り返る。そこにいたのは一人の少年だった。
 そこにいたのはよく言えば悪くない、でも悪く言えば平凡で、もっと言えば印象に残らないような少年――智也だった。黒い短髪と黒い瞳、良くもなければ悪くもない平均的な顔には困惑の表情を浮かべている。
 智也の左手にはコンビニ袋が下がっていて、しかもTシャツとジーンズという明らかなちょっとそこまでスタイルだ。
「えーと、……ごめんね?」
 智也は頬を掻き、状況を把握できてないけどとりあえず謝っておこうという雰囲気を感じさせながら謝った。
「君は、ここの事務所に用事があるのかな?」
 そう言って智也はビルの二階を見る。あ、そうだ。用事を忘れるところだった。
「あ……は、はい。あの、事務所の方ですか?」
 どもりそうになるのを堪えながら何とか言う。初対面の人にはどうしてももじもじしてしまう性格が昔から嫌いだ。
「そうだよ。一応所長やってる」
 こんなに若い人が所長なんだ、と思った。意外に思うと同時になんだか不安になる。
「あ、あの、これ!」
 どもりそうになりながらしゃべるのがもどかしくなって、とっさに手に持ったチラシを突き出す。今のはあまり良い印象を与えなかっただろうか、とまた不安になる。
 だけど智也は特に気にした様子もなく、チラシを見てああ、と声を漏らした。
「これもう来たんだ。意外と早かったな」
「え、じゃあ……」
「ああ。おさんどん希望は君が最初だよ。おめでとう。採用決定だよ」
「え……?」
 さらりと言われた言葉に絶句する。……もう?
「え、え、もう採用なんですか?」
「え? だって先着一名採用って書いてあるでしょ?」
 あまりにあっさりと言われて、そうじゃなくて……という言葉さえ飲み込んでしまっていると、智也は察してくれたらしくまたああ、と言った。
「別に面接とかはしないんだ。家事は得意なんでしょ?」
「は、はい」
「なら特に問題はないよ。あー……でも皆が気に入らなかったらまずいかもしれないけど、まあ大丈夫でしょ」
 ……なんかとても不安になった。皆というのは事務所の人だろうか。正直仲良くできる自信がない。
「でもまあ心配しなくても大丈夫だよ。俺たちは仲間なんだから」
 だからその仲間の中に入る自信がないんですよ、と心の中で突っ込む。だけど鈴は「仲間」と言った智也の表情が一瞬安らぎと誇りに満ちたことに気付いた。全てを包み込むような温かな光が、平凡な黒い瞳に映るのを鈴は見た。
「じゃあ、採用おめでとう。これからよろしくね」
 智也が手を差し出してきて、鈴はおずおずとその手を握った。特に大きいわけでも小さいわけでもない、平凡な手。でも、とても温かい手だと思った。
「ようこそ、梶原相談事務所へ」
 智也の笑顔を見て、鈴はこれからどうにかやっていけるかもしれないと、そう思った。



「じゃあ事務所案内もかねてお茶でもどう? 一応面接みたいなこともしておこうか」
 というわけで鈴と智也は、二階への階段を登っている。
「あ、そうだ。自己紹介が遅れたね。俺は梶原智也。さっきも言ったけど、ここの所長」
「あ、えと、片瀬鈴です。鈴って書いてりんです」
「へえ。いい名前だね」
 お世辞でも嬉しくてありがとうございます、と礼を言う。鈴も、自分の名前は好きだ。
 階段を登りきると左手に廊下が伸びていて、扉が二つある。奥の扉はトイレだと智也が教えてくれた。
「で、こっちが事務所」
 智也が指差した扉には「梶原相談事務所 相談・調査承ります(勧誘お断り)」という看板がかかっていた。
「じゃあ改めて、ようこそ」
 智也が事務所の扉を開ける。まず目についたのは校長室にでもありそうな重量感のある机。その上は綺麗に整頓されていて埃一つない。その手前には来客用なのか小奇麗なソファとテーブルが置いてある。奥には来客用とは違う少し古い印象を受けるソファとテーブル、それからテレビが置かれている。そこは新聞や飲みっぱなしのコーヒーカップが置いてあって、少し汚い。さらに奥には「宿直室」や「台所」と書かれた札が下がった扉がいくつかある。
「靴は脱いで……スリッパ使っていいよ。そこのソファで待ってて。コーヒーで良いかな?」
「あ……はい」
 薦められた来客用のソファに座って向こうのソファを見る。というか視線を上げると自然とそこが目に入ってしまう。
「ごめん、ちょっと散らかってて。あっちは見ないことにしておいて」
 智也は苦笑して、「台所」と書かれた紙が張ってある扉に消えた。
 一人になってどこか所在無さ気にきょろきょろと事務所を見回していると、
「なるほど君が例のアルバイトさんか」
「おひゃああっ!?」
 鈴はまたしてもオンナノコらしくない声を上げて飛び上がった。でも絶対不可効力だと思う。だって今の事務所には鈴一人しかいなかったはずなんだから。
「ああ、驚かせてしまったか。すまないな」
 振り返ると、そこにいたのは美しい女の人だった。小麦色の綺麗な髪がさらりと揺れ、深い闇色の瞳が笑みを孕んで鈴を見ている。
 彼女――陽子のソファに寄りかかる姿は、どこか猫のようだと鈴は混乱する頭の片隅で思った。そのしなやかな肢体も、白い細面も、切れ長の瞳も、全てが息を呑むほどに美しい。
「え、あ、の、ここの……従業員の、方ですか……」
 その、人とは思えないほどの美貌と唐突に現れたことに混乱しながら、何とか言葉を紡ぐ。だけど陽子はそんな動揺も露知らずといった表情で「ああ。そうだよ」と笑う。
「名は金丸陽子という。陽子と呼んでくれ。一応あれの保護者ということになっている」
 陽子はピ、と細い指で「台所」の扉を指す。その時その扉がガタン! と震えて鈴はびくりと反射的に体を震わせる。
「あ!? あ――――!! また陽子だな! お客さん来てんだから悪戯するなよ!」
 ガタガタ揺れる扉の向こうから、智也のくぐもった声が聞こえる。どうやら陽子が何かしてるせいで扉が開かないらしい。何をしたのかはさっぱりわからないが。
「心配するな智也。お客さんは私が誠心誠意おもてなししてやろう」
「それが心配なんだよ!」
 智也のツッコミを無視して、陽子はさて、と鈴に振り返る。
「名前を聞いていなかったな。これほど素敵なお嬢さんなんだ。さぞ素敵な名前なんだろう」
 なんだか気障な男のような台詞を言われて戸惑う。陽子は男ではないが何せ完璧と言っていいほどの美貌を持つ絶世美女だ。同姓の鈴でもかなりどぎまぎする。
「え、と……片瀬、鈴です。宜しくお願いします……」
「カタセ、リン、ね。なるほどとても似合ったいい名前だ。トモヤなどよりもよっぽど呼びやすい」
「うおおい! なんか俺の悪口的なこと言ってないか!?」
 依然がたがた揺れる扉の向こうから智也が叫んでくるが、やっぱり陽子は無視する。
「私はそうだな……所長補佐という感じの立場にいる。これからよろしく、鈴」
「は……はい!」
 妖艶な笑みを深める陽子に、鈴も笑顔で返す。どうやら気に入られたようだ。よかった。
「さて、そろそろ制限時間付きの鍵(リトルクロージング)も切れるし、私は部屋に戻るよ。ちなみに私の部屋はこの上だ。用があるときはいつでも来るといい」
 その瞬間、陽子の体が燃え上がった。
「え!?」
 朱色の炎が一瞬にして陽子の体を包み、そして完全に包まれたと思った瞬間、陽子も炎も部屋からいなくなくなっていた。
「え……ええ!?」
 とっさに立ち上がって陽子が消えた場所から離れる。だけど陽子が触れていたソファや床には焦げ目一つない。突然の異常事態に頭が混乱で飽和状態になる。
 その時、ずっとガタガタ言ってた扉が突然勢いよく開き、勢い余ったらしい智也が「ぶへえっ!」と床に顔面スライディングを決めた。
「え、……あ、え……!?」
「くっそー、陽子の奴ホント信じらんね……」
 智也は強打したらしい鼻を押さえつつ、涙目で陽子への恨み言を漏らす。
「と、智也さ……、陽子さんが、消えた……!」
 混乱で泣きそうになりながら震えた声で言うと、智也はなんでもないことのようにああ、と声を漏らした。
「狐火による空間移動(テレポーテーション)だろ? 普通の妖狐でも出来る術だし、そんなに驚くことでもないと思うけどな」
「よ……妖狐……!?」
 妖狐とかテレポーテーションとか突飛な言葉が普通に出てくることになんだか眩暈を覚える。とても失礼だけどこの人頭大丈夫だろうか。
「ああ、今のヨウコは妖しい狐のほうの妖狐な。さっきの陽子とは違うから。全くややこしい名前付けるよな、陽子は……」
 智也は面倒臭そうに頭を掻きながら立ち上がり、それから台所に戻って二つのカップを持ってきた。
「そういえば、その話はまだしてなかったね」
「……はい?」
 智也がテーブルにマグカップを置きソファに座ったので、鈴も混乱を抑えてその向かいに座り直した。混乱を落ち着けるためにいただきます、と断ってからコーヒーを一口飲む。
「陽子はさっきも言ったように妖狐。そしてもう知ってるかもしれないけど、僕はアンデット。一般的に言えばゾンビみたいなものかな」
 手に持ったカップを落としそうになった。アンデット? ……ゾンビ? 本当に失礼だけどそろそろ頭大丈夫ですかと聞いてもいいだろうか。なんだかもう割と頭が耐えられそうにない。
「……で、君は?」
「……あの」
 問われた時点でもう耐えられなくなり、思い切って聞いてみる。
「さっきから、何言ってるんですか? 妖狐とかアンデットとか……一体何なんですか?」
 その瞬間、智也の表情が笑顔のままぴしりと固まった。
「…………え」
 目が徐々に見開かれ、その表情が青くなっていく。
「え、そ、え、き……君まさか……」
 そのワナワナと震える唇が、またしても鈴の理解を超える言葉を吐きだす。
「天界人じゃ……ない?」
「……天界人って何ですか?」
 鈴が首を傾げたその瞬間、智也はこの世の終わりみたいな顔をしてソファに寄りかかった。眩暈さえ起こしたのか、目に手を当てている。
「マジかよ……。天下のアンデットオフィスが秘密の漏洩なんて……やばいよ……あー……氷河に殺されかねねえ……」
 そしてなんだかわけのわからないことをぶつぶつ呟き始める様は……はっきり言って異常だ。
「あ……あの、大丈夫ですか……?」
 何かまずいことでも言ってしまっただろうか? 自分は至極当然なことしか言っていないはずだが……やっぱり智也のほうがおかしいのだろうか? 智也は頭おかしい人なのだろうか?
「いや……言ってしまったことはしょうがないか……」
 智也は何とか立ち直った(というか諦めた?)らしく、でもまだ青い顔で鈴に向き直った。
「もう一度聞くけど……本当に天界人じゃないんだね?」
「……はい」
 頷くと、智也はまたがっくりとうなだれる。なんだかそういう状態にしてしまうのも悪いと思うけれど、かといってどうすればいいのか鈴にはわからない。
「……今ここで聞いたこと見たこと忘れてもらえる……わけないか。うーん……、どうしようかなあ……。巧に頼もうかな……でも絶対怒られるな……って、いや待てよ」
 またしてもぶつぶつ言い始めた智也は、不意に顔を上げてポケットに突っ込んだチラシを取り出した。鈴が持ってきたここのアルバイト募集のチラシだ。智也はくしゃくしゃになったチラシの皺を伸ばして、鈴に見せるようにテーブルに広げた。
「これ、見えるんだよね?」
「……? 見えますけど」
 真面目な顔で問われて、少し戸惑いながらも頷く。
「字も、ちゃんと読める?」
「……はい。読めます……けど」
 また頷くと、智也は真面目な顔をして黙ってしまった。なんだか居心地が悪くなる。
「君は天界人じゃない……けど、天界は知らないかな?」
「天界……? 天国とか、そういうところのことですか?」
 首をひねりながら答えると、智也はまた黙ってしまった。なんさかさっきからどうしたらいいのかわからない。どうやらここはおかしいらしい。人が突然現れたり消えたり扉が開かなくなったり所長はおかしなことばかり口走るし、ここでバイトするべきじゃないのかもしれない。なるほどちょっとおかしな職場だから、あんなに条件がよかったのか。
「……わかった」
 智也は不意に顔を上げ、決意したように頷く。
「君に天界のこと、天界人のこと、アンデットオフィスのこと、全部教えよう。君は少なからず、天界に関わりのある人間みたいだから」
「…………はい?」
 だけど鈴は智也の言葉を少しも理解できずに、また首を傾げる。




 天界。それは人間の想像から創造された、もう一つの世界。
 そこには人間が「いるのではないか?」と思った全ての生物が存在する。妖怪や伝説上の生き物や未確認生物まで。
 そこに住む生物は「天界人」と呼ばれ、天界人は独自のルートを使って人間の住むこの世界に来ることが出来る。
「旅行気分でここに来る天界人もいるけど、ここはなかなか住みやすくて面白いところだからね。移住してくる天界人も少なくないんだよ」
 ……らしく、この世界には結構たくさんの天界人がいる。
 しかしそれほどたくさんの天界人がいれば、時々正体がばれそうになったり問題を起こしてしまったりすることがある。
 そこでそんな困った天界人のために作られたのがこの「アンデットオフィス」。表向きには相談調査請負の「梶原相談事務所」だが、この世界に来た天界人の間では結構有名な避難所らしい。
「ま、最初は俺と陽子で始めたただの自営業だったんだけどね。これが結構好評で、今ではここに来た天界人でアンデットオフィスを知らない人はいないぐらい有名になってる。従業員もいつの間にか増えて、今では四人でここに暮らしてるんだ。後でみんな紹介するよ」
「……あの、一つ聞いていいですか?」
「ん、何?」
「……頭、大丈夫ですか?」
 がつん! と凄い音を立てて智也がテーブルに頭をぶつけた。危うくコーヒーがこぼれかける。
「あっ、わ、あ、あ、頭……大丈夫ですか……?」
「さっきとは違う意味での『頭大丈夫ですか』だね、って違うよ! ここまで話して信じてくれないわけ!?」
 涙目の凄い形相で迫られてぶっちゃけ引く。
「だ……だって、そんなの……漫画じゃないんですから……」
「漫画じゃなくても実際にあるんだよ。陽子の狐火による空間移動(テレポーテーション)だって見ただろ?」
「あ……」
 あの、陽子の肢体が炎に包まれあっという間に消えてしまった現象。あれは紛れもない、自分自身の目で見た現実の光景だ。漫画でも、映画でもない、現実の。
「陽子は妖怪の妖狐。俺は死なない人間・アンデット。俺たちは嘘でもなんでもない、現実にここにいる天界人だよ」
 智也の目には虚偽でも誤魔化しでもない、自分が天界人であるからの故の誇りが光っていた。そういう光を映している智也は、平凡な少年ではなく天界人を守る誇り高き「アンデットオフィス」の所長だった。
 鈴はその光に、見惚れる。現代人には……いや人間には持ち得ないその光は、きっとどんな人間にとっても羨ましいものだろう。
「それで、本題なんだけど」
 智也はテーブルに広げたチラシを指す。
「これ、実は天界人にしか見えないように細工がしてあるんだ」
「……え?」
「だから君が来た時、君が天界人だと思って普通に天界のことも話しちゃったんだけど……。あ、でもそれで君が天界人ってわけじゃないんだ。ほんの少し天界人の血が混ざってたり、近しい人に天界人がいたりすると本当に稀にこういうのも見えちゃうときがある。君はそういうのだと思うんだ。だから心配しなくていいよ」
「はあ……」
 鈴は生返事を返す。でも天界人が結構たくさんいるなら、曾曾曾曾曾じいさんとか学校の友達とか先生とかに天界人がいてもおかしくはない。つまり自分はそういう世界に巻き込まれてしまった……ということだろうか。
「せっかく来てくれたアルバイトさんを追い返すなんてことしたくなかったし、それに一応これが見えた原因を調べておこうと思って話したけど……、信じてくれるかな?」
 智也の少し困ったような、でも綺麗だと思える笑み。どこまでも平凡な少年の、唯一平凡じゃないと思える、普通の人には持ち得ない綺麗な笑み。
 だから、ちょっとまだ混乱してて信じられないけれど、信じてみようと思った。この人と一緒に、仕事をしてみたいと思ったから――。
「……はい」
 だから鈴は、精一杯の笑顔で頷いた。ここにいる人たちが人間だろうが天界人だろうが、関係ない。その人が素敵で一緒に仕事をしたいと思える人なら、それでいいんじゃないかと鈴は思った。
 そして、鈴のアルバイト生活が始まる。




 朝梶原相談事務所の皆さんを叩き起こし登校した鈴は、退屈な授業を適当に聞き流しながら窓の外を眺める。少しぐらい授業を聞いていなくてもノートをしっかり取っていれば問題はないので気にしない。
 今日は気持ちのいいぐらいの快晴だ。青い空からは少し鋭いぐらいの日差しが差し、わたあめみたいな雲がいくつか浮かんでいる。
 ちなみに鈴はこの県内有数の進学校で上の中辺りの成績を保っている。この高校を選んだ理由は進路とかステータスのためではなく、ただ単に家から近いという理由なのだけれど。
 アルバイトを始めて半月が経った。始めのころは戸惑っていたけれど今ではもう慣れたもので、寝坊助の彼らを起こし朝食を作ってから学校へ行き、学校が終わってからは皿洗いと洗濯と掃除とそれから夕食を作り、明日の昼食の準備をする。買い物も献立作りも全て鈴の仕事だ。さすがにこれだけの仕事を一人でこなすのは大変なので所々で彼らに手伝ってもらってはいるが、もはや梶原相談事務所は鈴なしでは成り立たないほどになってしまっている。
 というか何より鈴が来る前の荒れ具合といったらなかった。初めて来た日のテーブルは氷山の一角でしかなかった。台所は使用済みの皿がシンクに溢れかえり、生ゴミはゴミ箱からあふれてハエまでたかっていた。宿直室は何日も洗ってない布団が無造作に積み重ねてあり、何とも言えない汗の匂いが篭っていた。風呂場などはもう見れたものではなく、完全なる水垢とカビの配下だった。
「なんか……ごめんね?」
 阿鼻叫喚の地獄絵図でも見るような表情の鈴に思わず智也も謝ったほどだが、家事が得意というか綺麗好きな鈴がこれを見て黙ってるわけがなかった。
「明日……、一日下さい。明日で全部綺麗にしてあげますよ」
 と宣言し、そしてその翌日本当に全ての部屋を新築みたいにピカピカにしてしまったのは、もはやアンデットオフィスの伝説になっている。実際それを成し遂げた時の鈴は、従業員の皆に神様に向けるような尊敬の視線を浴びた。
 そういうわけで鈴が来てからの事務所の台所は常に綺麗に整頓され、宿直室には太陽の匂いがするふかふかの布団が常備され、風呂場はピカピカに磨かれ快適な入浴が可能になった。まさに鈴様々というものだ。
 ふと鈴はぼんやりと眺める窓の外、グラウンドの向こうの道に、従業員の一人、大和氷河が歩いていることに気付いた。氷河は事務所からこの近くの大学に通っているらしく、この辺りを歩いていると氷河と出会うことがよくあった。一人で歩いているということは、午後の講義あたりに出るために登校しているところだろうか。
 氷河はカラーリングしたくすんだ金髪の少年で、その軽快な性格がとても好ましい。智也の話では氷河は人狼らしいが、鈴はまだ陽子のようにその能力の一端を見ていない。だから鈴にとって氷河は天界人というよりは人間に近い存在だった。
 ふいに氷河がこちらに気付き鈴を見た。結構な距離があったけれど、天界人で人狼だから目がいいのかもしれない。氷河が手を振ってきたので手を振り返すと、こつんと頭にチョークがぶつかった。
「こらー、よそ見してるんじゃないぞ」
「……はーい」
 気のない返事をするとクラスが笑いに満ちる。
 窓の外で氷河が笑っているのが見えた。




 追っかけてくるんじゃなかった、と祐司は後悔した。
 夜の住宅街を街灯の微かな灯りを頼りに歩いていく。暗い夜道は正直すごく怖い。思わず飛び出してしまったものだから、懐中電灯を持ってくるのを忘れてしまった。今となっては致命的なミスだったとつくづく思う。
 こうなってしまったのは、全てあの少年のせいだと思う。祐司がバイトしているコンビニに夜遅くやって来た少年は、パーカーのフードを深くかぶり顔の下半分を完全に覆うマスクをしているという、とても典型的な怪しい人の格好をしていた。怪しいから警戒するというより、これほど典型的なのも珍しいという興味から少年を見ていると、案の定少年は商品を万引きしようとしていた。
 怪しいと思ったところで隣にいた先輩に言えばよかったのかもしれない。だけど祐司は妙な正義感でも働いたのか――もしくは万引きを捕まえたという手柄を独り占めしたかったのか――誰にも相談せずに、コンビニを出て行こうとする少年に声をかけた。
 そうしたら少年は急に逃げ出し、祐司も思わずその後を追って、この顛末。少年は住宅街に逃げ込み祐司もそこに入り、そこで少年を見失った。
 見失ってしまったからには、捕まえられなかったと言ってコンビニに戻るべきだろう。だけど祐司が万引きを追いかけて飛び出したということを誰も知らないのだ。何の証拠も持たずに万引きを追いかけてました、なんて言っても仕事中に飛び出すとは何事か、と指摘されたらどうしようもない。
 だから祐司は暗い住宅街を当てもなく彷徨っている。万引きさえ連れて帰れば何の問題もないし、何より自分はヒーローになれるのだ。
 ふと祐司は、家の柵の茂みの下に微かな街灯の灯りを反射して光るものを見つけた。近づいてみれば、それはパンを包んだビニール袋だった。明らかに、万引きされたコンビニの商品だ。
 祐司はその茂みの中を見てみる。寝静まり全ての部屋の電気が消えた家。その庭に車庫のようなものがあり、そのシャッターが人一人通れるだけ開いていた。
 どうするか、迷う。ここに入ったら明らかに不法侵入だ。だけど迷いは一瞬だった。夜遅い住宅街の人通りは全くと言っていいほどない。見つからなければいいわけだし、それにここまで来て目の前にある手柄を放って帰るわけにはいかない。
 祐司は音を立てないように慎重に柵を越える。庭は芝生敷きだったので足音を極力立てずに済んだ。
 人が通れる分だけ開いたシャッターからそっと中を覗く。奥の暗がりに人がいるのが何とかわかった。そしてその辺りから、懸命に食べ物を咀嚼するがつがつという音が聞こえてくる。
 多分、間違いない。そう思い身じろぎした時、腕がシャッターに当たりがしゃんと音を立ててしまった。しまった、と思うがもう遅い。その音に反応して奥の人が振り返った。
「誰だ?」
 祐司は舌打ちして、だけどこうなってしまったら仕方がないとシャッターを一気に開け、近くにあったスイッチで車庫の電気をつけた。
 少年にしては声がずいぶんとしわがれているなとは思ったけれど、そんなことは深く考えなかった。
「君が万引きしたコンビニの店員だ! 万引きした分きっちり金を払――」
 祐司が言葉を切ったのは、驚愕と恐怖で口元が引きつりそんなことを言ってる場合ではなくなったからだ。
 車庫の電灯に晒された少年の顔。フードを取りマスクを下げた少年の顔。
 目が異常に釣り上がり耳が尖り、大きく裂けた口からは有り得ないほど巨大な牙がはみ出している。食べかけのパンを握った手は少年にしては異常に大きく骨ばっていて、そして肌の色が人間には有り得ない赤黒。
 少年は顔を見られたことに警戒したのか、牙を剥き喉の奥から蛇か何かが出すような警戒音を発した。
「――ひ、あ……っ!」
 恐怖で足が竦む。小さな手柄などに囚われてここまで来てしまった自分を死ぬほど呪った。逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ殺される。だってこんなのは――人間じゃない!
 祐司は何とか逃げようと震える足を後退させる。だけどその瞬間、異形の少年は後ろ足に力を入れ、猫か何かのように跳ね祐司に襲い掛かった。
 そして祐司の絶叫が、夜の住宅街に長く長く響き渡った。





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