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  俺はそこにいない




 幼いころは性なんて関係なかった。男も女も関係なく一緒に遊べた。一緒にいれた。だから俺はお前の隣にいることができた。お前に向かって思い切り、堂々と球を投げることができた。それが幼い子供のお遊びだったとしても、お前と野球ができること、それだけで充分だったんだ。
 ――どうして、男と女は違うのだろう。
 その違いは人間の手じゃ絶対に越えられないぐらいに圧倒的で、それはまるで世界の隔絶にさえ似ていた。小学生の時は一緒だった俺とお前の世界が、年を経るごとに引き裂かれていく。その世界が引き裂かれる音は、俺の心が引き裂かれる音だった。俺の心の断末魔だった。


 そして世界があまりにもくっきりと隔絶してしまったことを理解した瞬間、俺の心にあったのはとても純粋な絶望だけだったんだ。




 夏の高校野球。野球少年たちの情熱と青春がぶつかり合い、せめぎ合い、散っていく場所。その一つ一つがどうしようもない価値を持つものなのに、そのどれかが確実に消えてしまうその儚さに、人は惹きつけられるんだろう。
 俺は、というより俺の所属している高校のソフトボール部は、その準々決勝の試合を観戦することになっていた。基本は同じものとはいえ、なんでソフトボールをやっている人間が野球を見に行かなければならないのだろう。意味がわからない。まあ練習がないのならやることがないので別にいいと言えばいいのだが、なんでよりによってこの試合を見なければならないのだろう。正直、真剣に嫌だ。
「……俺、帰ろうかな」
 試合が行われる球場の外。そこには同じく観戦に来た人間たちが多く集まっていた。そこで入場を待つソフトボール部員の中で、俺は小さく呟く。厄介なのは、観戦が強制であることだ。本当にもう、嫌になる。
「カナメ、いい加減自分のこと俺って言うのやめなよ」
 耳ざとく俺の発言を聞いていたユリが、口うるさく言ってくる。ユリは俺とバッテリーを組むキャッチャーだ。キャッチャーらしく筋肉がつき女の子にしてはがっしりとした体格をしているが、顔や性格は典型的なオンナノコだ。
「何で」
「何でって……全然女の子らしくないよ」
 俺のキャッチャーであると同時に唯一の親友であるユリは、少し口うるさい。なんだって友人にまで教師みたいなことを言われなくちゃいけないんだ。
「カナメさ、もったいないよ。せっかく可愛くてスレンダーで胸も大きいのに、そんなんじゃ男の子寄ってこないよ? もっと女の子らしくすればいいのに」
 確かに、自分で言うのもなんだが俺は美人な方、らしい。それで胸も人に言えば誰もが大きいね、と言うぐらいのカップで、ウエストも平均より細い。少し有名なソフトの大会に出れば、とてもマイナーな雑誌のマイナーな記事に顔が載るぐらいには、俺は魅力的な人間らしい。
 だけどそれら全ては、俺にとっては煩わしいものでしかなかった。恋愛というものに全く興味がない俺には、明らかにこの顔で寄ってきた男たちははっきり言って邪魔でしかなかったし、この人よりは大きい胸もソフトボールをするには邪魔でしかない。それに筋肉がつきにくいこのほっそりとした体も、俺にとっては最悪なこの上ない体だった。
 なんだって、俺は女に生まれてきてしまったんだろう。
 世界の隔絶を感じた幼い日から、何千何万と繰り返してきた疑問を頭の中で反芻する。いや、何千何万なんて数字じゃ全然足りない。何百万? 何千万? ……何億?
 俺は昔から男勝りで、というよりは男そのもので、小さい頃は男の子と野球をしてよく遊んだ。小学校のころなどは男の子と取っ組み合いの喧嘩をして勝っていたし、今でも女としゃべるよりは男としゃべる方が気が合うし楽しいと思えた。
 でも、俺は結局、女だった。
 俺は結局男ではなくて、部活も体育の授業も男の中に混ざっていくことなどできない。筋力も体力もその辺の軟弱な男に比べればずっと勝っている自信があるのに、それでも俺は男の中に入って真剣勝負を繰り広げることなどできない。何故か? 簡単だ。俺が女で、女と男ではその間に圧倒的な壁があるからだ。性という名の、壁が。
 その壁にぶち当たって、俺がどれだけの涙を流したか。どれだけの涙を飲んだか。きっと、のらりくらりと生きている常人には、絶対に想像できないに決まっている。
 瞬間、俺の脳裏にざらついた笑顔の映像がかすめ、俺は血が出そうなほど、唇を噛みしめる。
「……女らしくして、どうしろって言うんだよ」
 思わず漏れた俺の低い声に、ユリはしまった、という顔をして口元を押さえた。ユリは俺の過去を知っている。俺が過去に感じたあの圧倒的な絶望を知っている。何気ない話題がそれを刺激してしまったことにやっと気づいて、ユリはとっさにごめん、と謝る。だけど俺の中の怒りは消えない。怒りとは少し違う。これは、悔しさ、か。
「俺はずっと女になんてなりたくなかったっていうのに、なんでわざわざ女らしくしなきゃいけないんだよ」
「ご、ごめん、カナメ。私そんなつもりで言ったわけじゃ……」
「もういい」
 俺がふいと顔をそむけると、ユリが顔を俯かせる気配があった。親友でも許す気なんてない。俺の深い所にある闇を無遠慮に突いたことを、じっくりと後悔してればいい。
 それとほとんど同時に人波が動き、やっと入場が開始したようだった。俺は俯いたままのユリを置いて、動きだした人の流れに乗って球場の中に入って行った。




 俺の過去の絶望は、さらに深く潜れば一人の少年の姿に辿り着く。
 名は、ジュンと言った。俺の家のお向かいさんで、俺の幼馴染。物心がつくころにはすでに一緒にいて、小中も一緒だった。さすがに高校ではお互い野球とソフトの名門に進学したため別れてしまったが、それでも俺の心に根付いたジュンの姿は深かった。
 ジュンに関する記憶で一番多いのは、一緒に野球をして遊んだ記憶だ。初めは家にあったグローブを持ち出し、二人でたどたどしくキャッチボールをしていた。やがてそこに近所の子供たちが集まって、わりと本格的に野球をし始めた。周りは全員男の子で、女の子は俺一人だけだったけれど、周りも俺も、そんなことは全く気にしていなかった。そんなことはどうでもよかった。
 自然と、俺のポジションはピッチャーだった。ジュンとキャッチボールをしていたおかげか、キャッチャーのところに一番正確に投げれるのは俺だったし、それに男の子はみんなバッターをやりたがった。だから自然と、俺がピッチャーだった。
 そして俺の投げた球を受けるのは、ジュンだった。ジュンは始めから何のこだわりかキャッチャーをやりたがっていた。他にキャッチャーなんて目立たないポジョションをやりたがる子なんていなかったから、自然とジュンがキャッチャーだった。だから自然と、俺とジュンが、バッテリーだった。
 ジュンとのバッテリーは、心地よかった。ジュンになら力の限り精一杯投げることができたし、そのおかげかどんな男の子も俺の球を容易に打つことはできなかった。周りからは打てなくてつまらない、とブーイングが上がったこともしばしばあったけれど、そんなブーイングも俺にとっては称賛の声だった。
 小学校に上がってからも、俺は男の子に混ざって休み時間に野球をした。もちろん、俺がピッチャーで、ジュンがキャッチャー。俺とジュンのバッテリーで。
俺は、楽しかった。ジュンに全力の球を投げるのが楽しかった。ジュンと一緒にバッターを打ち取るのが楽しかった。ジュンとする野球が、楽しかった。ずっとジュンと野球をしたかった。ジュンとバッテリーを組んでいたかった。ずっと二人で野球ができると、信じて疑わなかった。そんな夢を見ていた……幼い自分。
 夢想していた夢は、中学に上がった時、ひびが入った。生徒は全員入らなくてはいけないという部活動。俺はそれに当然野球部を希望した。ジュンも当然とばかりに野球部を希望した。迷うことなんて一瞬もなかった。だけど俺は教師に言われた。野球部に女の子は入れないんだよ。
 何で? 恐ろしいほど幼く無邪気で無知だった俺は、教師にそう言った。ジュンも野球部に入るのに、なんで俺は入れないの? 俺はずっと、ジュンと一緒に野球をしてきたのに。
 教師は困った顔をして、無垢な俺に言い聞かせる。女の子は、男の子と一緒に野球はできないからだよ。なんで? 今までずっと一緒にやってきたのに、なんでこれからはできないの? 男の子と女の子では力の差があり過ぎるからだよ。なんで? 俺はどんな男の子も打てない球を投げられるよ? それなのになんで? なんで? なんで? なんで…………。
 ――結局俺は野球部に入れず、女子だけのソフトボール部に入部した。入部してからも、教師に投げかけた疑問は晴れなかった。なんで俺はジュンと野球をしてはいけないの?
 放課後の練習の時も、その疑問は頭にこびりついて離れなかった。校庭の少し離れたところで「野球」をしているジュンの姿を見るたび、胸の中が滅茶苦茶にかき回されるような気持ちになった。同じグラウンドに立っているのに、同じようなことをしているのに、俺の投げる球を受けるのは、ジュンじゃなかった。ジュンが受ける球は、俺が投げた球じゃなかった。
 それでも俺はジュンではない人間にボールを投げ続けた。今は駄目でも、いつか必ず、ジュンと野球できる日が来る。そう信じて、だから俺は球を投げ続けた。正しい指導者の下で体を鍛え、正しい投球フォームを習った。俺が投げることができる球種はあっという間に増え、スピードは飛躍的に上がった。度重なるソフトボールの試合で、俺の球を打てる人間など一人もいなかった。俺のいるチームは地区内どころか県内でも負けなしだった。俺のいるチームは全国レベルとして注目され、そこのエースである俺もそこそこに注目された。だけど俺が見ていたのは、全国とか、そういうものではなかった。
 俺が見ていたのは、ただ一つ。ジュンとの野球、それだけだった。俺はいつの日かジュンと野球をするために、日々練習を続けた。筋肉がつきにくい体質である体を人よりも何倍も動かして適度な筋肉をつけた。何球も何球も投げ込んで、強く速い球を投げられるようにひたすら努力した。俺がいるソフト部のように全国レベルに達した野球部の、キャプテンであり一番の注目株であるジュンに負けないように。
 いつかまたジュンが俺の球を受ける時に、すごいキャッチャーに成長したジュンが受けるにふさわしい球を投げるために。今はソフトと野球と道を分かたれているけど、いつかまた、二人の道が交わるその時のために。
 だけどいつの日か、俺は理解していた。俺は時が経つにつれて体に肉がつき、胸が大きくなって生理が始まった。ジュンは背がどんどん伸び、体格ががっしりしてきてたくましくなった。いつの間にか俺はジュンを見上げるようになり、ジュンは俺を見下ろすようになった。保健の授業では性の勉強が始まり、男女の話題にセックスという単語が増えた。
 そしていつの日か、俺は理解していた。俺とジュンがいる世界は、元々違うものだったのだと。元々、俺とジュンが立っている場所は、全く違うものだったのだと。今までは、俺とジュンの世界が重なり合っていただけにすぎなかった。それなのに俺は、俺とジュンは同じ場所にいるものと勘違いをしていた。俺とジュンの世界は、時を経るごとに乖離していく。その乖離がお互いの体に表れ、世界はあっという間に隔絶してしまった。
 俺は理解する。俺とジュンの間には、どうしようもない壁ができてしまったことを。人間には絶対に越えることのできない、圧倒的な壁が。
 俺は理解する。俺とジュンがまた、二人で野球することはできないということを。俺がどれだけ頑張っても、どれだけジュンに受けてもらうために球を極めても、俺の投げる球が、ジュンの構えたミットに届くことはないということを。俺がどれだけすごいピッチャーでも、バッターをどれだけ打ち取ったとしても、全国大会で優勝したとしても、俺はジュンには届かない。俺の投げた球をジュンが受けることはない。絶対に。何故か? 簡単だ。俺がいる世界が女で、ジュンがいる世界が男だからだ。そしてその二つの世界の間にはどうしようもない壁がある。絶対に越えることはできない、性という名の壁が。
 夢は瓦解した。あまりにあっさりと、乖離する世界に引き裂かれて。
 それは、とてもとても純粋な、絶望だった。俺はその絶望に、たくさんのたくさんの涙を流した。
 ずっと追いかけていた背中が、ずっと近づいてきていると思っていて、だけど一気に遠くなってしまった、ジュンの背中が、涙で滲んだ。
 そして見えなくなった。




 球場に入った俺とソフトボール部員は、ネットの一番前に席を陣取った。
 夏大会となれば客はそれなりに多い。それに準々決勝ともなれば学校側も総力をかけて応援にかかる。席を取るのも一苦労だ。
 ネットのまん前に座った俺は、とても近い距離で練習をする選手たちを眺める。やはり夏大会の準々決勝ともなればみなガタイが良くて、一様にうまい。女子のソフトとは比べ物にならないレベルだ。そう思いあたって、俺はまた込み上げる悔しさに歯噛みすることになる。男と女では、こんなにもレベルが違う。また垣間見てしまった性の壁に、俺は悔しさを噛みしめることしかできない。
 ふと練習終了のアナウンスが流れて、球場に散っていた選手たちがベンチへ下がっていく。つかの間の沈黙。ベンチに見える選手たちの背中が熱意と緊張に固い。
 やがて二校の選手が並び、試合開始のサイレンが低く鳴り響く。試合が始まった。アナウンスが二つの高校の名前を読み上げ、その片方、よく知った高校の名前に、俺は少しだけ顔をしかめる。
 俺が知る方の高校は、後攻だった。だから一回表は守備に回る。先発投手がマウンドに上がる。俺よりもずっと背の高い、その分縦に細く見えるけれどきっと誰にも負けないぐらいしなやかな筋肉を持っている、ピッチャー。そのピッチャーに、プロテクターとマスクをつけた人間が歩み寄る。その人間を視界に入れた瞬間、全身に鳥肌が立った。
 ジュン、だ。マスクでよく顔が見えなくても、一瞬でわかる。あれはジュンだ。俺が追いかけて追いかけてだけど世界を隔てた遠い所に行ってしまった、俺のキャッチャーだった、ジュンだ。
 ジュンはその長身のピッチャーよりは背が低いが、それなりに背の高い方だ。また伸びたんじゃないだろうか。キャッチャーとしては比較的華奢に見えるが、その細い体の内側には鍛え上げられた筋肉があることを、俺はとてもよく知っている。
 ジュンはピッチャーに一言二言告げた後、キャッチャースボックスに戻り、ミットを構える。その風格に、溜息が出た。ジュンには独特の雰囲気がある。一目でジュンだってわかる、実力のあるキャッチャーだってわかる、強者、もしくは玄人の雰囲気。
 投球練習でピッチャーが投げた球を受け、投げ返す一連の動作はとても手慣れている。そして俺も見慣れている。かつてジュンはそうやって俺の球を受けていた。小さいころから変わっていない、だけど格段に洗練された、ジュンの捕球。
 俺は、いつの間にか唇を噛み締めていた。俺の知りもしないピッチャーが、だけど俺よりも数倍優れたピッチャーが、ジュンに投げている。ソフト界では怪物ピッチャーだ、数年来の逸材だと言われても、そんな評価は俺にとって寸毫の価値もない。ソフト界では負け知らずの俺でも、例えば今ここであのマウンドに立ったなら、どれだけの力を発揮できるというのだろう。女の世界ならトップレベルの俺でも、この男の世界ではほんの少しの力だってない。何が、誰も打てない剛速球、だ。今ここに、俺の球を打てる選手なんていくらでもいる。俺の力なんて、結局はそんなものなのだ。
 俺はどんなに背伸びしても、どんなに頑張っても、男という一段上の世界にいるあのピッチャーに敵うことはない。あのピッチャーは確実に俺よりもいい投手で、俺よりも……ジュンに相応しいピッチャーだ。だけど、駄目だった。どれだけ自分に言い聞かせても、仕方がないんだと諦めようとしても――悔しくて、たまらない。
 ジュンに球を投げるのは、俺だった。かつてあのマウンドに立っていたのは、俺だった。だけど俺はそこになく、代わりに立っているのは俺よりもずっと優れたピッチャーだ。
 俺は、ずっとそこに焦がれていたのに。ジュンがキャッチャーミットを構えたその視線の先にいるのは、俺でありたかったのに。
 なんで、俺は女に生まれてきてしまったんだろう。
 また、あの疑問が頭の中に滲み出る。俺が、男だったら。俺が男に生まれてさえいれば、今あのマウンドに立っているのは俺だった。男にさえ生まれていれば、ジュンはずっと俺のキャッチャーでいてくれた。男と、女。たったそれだけの違いなのに、それはこんなにも遠い。あの時ああすればよかったとかそんな後悔をすることも許されない、生まれる前から決まっていた、自分の力ではどうしようもなかった、圧倒的な違い。
 なんで世界は男と女という二つの世界に分かれているのだろう。子孫を残すため? ふざけるな。そんな曖昧な存在意義のために、なんで俺はこんなにも悔しくて苦しくて悲しい思いをしなければいけないんだ。男と女がいなければ俺と言う存在自体も生まれなかったというのなら、生まれてこなくたってよかった。一瞬の迷いもなく、俺は断言できる。こんな世界なら、生まれてこなければよかった。
 男に生まれればよかったのに。そうでさえあれば、俺は幸せだった。ジュンと一緒に野球が出来た。ジュンと一緒に甲子園を目指せた。ジュンと一緒に、青春を謳歌することが出来た、のに。それなのに。
 なんで、俺、は、
「カナメ」
 ふいに名前を呼ばれて、俺は深く入り込んでいた自分の世界から戻ってきた。
「カナメ、ネット千切れるよ」
 名前を呼んだユリに言われて、初めて自分がネットを力の限り握り締めていることに気づいた。慌てて手を離すと、手にくっきりとネットの跡が残っていた。よほど強く握り締めていたらしい。
「カナメ、気づいてる? 今すごい顔してたよ」
 心配そうに顔を覗き込んでくるユリに、思わず顔に手をやってしまう。すごい顔。きっとそれは絶対に越えられない悔しさと世界への怒りに染まった、とても醜い顔だったのだろう。
「ごめん……」
 俺はベンチに座り直し、左手で両目を覆う。その暗闇に、気分を落ち着ける。悔しさが引き、怒りが収まるのを待つ。今は目の前の野球を楽しむことだけを考えろ。
 プレイボール、というアンパイヤの声に手を下ろす。心はすっかり落ち着いてはいたけれど、「野球」をするジュンが視界に入るたび、胸がざわつくのは抑えられなかった。




 圧倒的な試合展開の末、ジュンの高校が勝った。当たり前だ、ジュンがいるんだから、と思う一方で安堵しているのも事実だった。こんなタイミングでジュンが負けたら、ジュンが泣いているところを見たら、何か俺の大切なものが決壊するような気がした。
 負けた対戦相手はベンチで、グラウンド上でわんわんと泣いている。見ているこっちも泣きそうになるぐらい、悲痛なシーンだ。全く彼らを知らない俺でも、少し泣きそうになってしまう。
 対して、ジュンの高校はみんなで抱き合って喜んでいた。まだ準々決勝なのに大げさな、とは思うが、彼らにとっては一勝一勝がものすごい価値を持つものだ。遠めに見えたジュンの笑顔がどうしようもない感情を湧きあがらせたが、先程のような深い悔しさや怒りは湧き上がってこない。大丈夫だ。
 だけどその瞬間、ふっとジュンがこっちを見た。明らかに、確実に、目が合う。ばっちりと、目が合った。そしてジュンは嬉しそうに顔をほころばせ、話しこんでいたチームメイトに断ってこっちに向かってきた。
 とっさに立ち上がり、慌てて観戦席を駆け上がる。駄目だ。いきなりすぎる。たった今一緒に野球がしたいと、一緒にいたかったと泣きたいほど思っていたのに、その一緒にいたいと願った相手と、いきなり普通に会話なんてできない。
 どこに行くんだ川崎、というコーチの声を背に受けて、俺何やってんだろ、と思う。これじゃ逃げてるみたいじゃないか。逃げてる? この俺が?
 だけど駆ける足は止まらず、俺は観戦席から球場の外へと逃げ出した。
 俺が座っていたネット際まで来ているだろうジュンが、どんな顔をしているかなんて、わかるわけがなかった。




 球場の外にあるトイレに駆け込み、手洗い場で頭を冷やすために顔を冷水で洗う。俺は何を。何をやってるんだろ。
 ジュンと会うは、ほとんど一年ぶりだ。俺は自宅から高校に通っていたけど、ジュンは高校の寮に入ったから高校に入学してからは滅多に見なかった。だから、久しぶりに話すのかと思うとびっくりしてしまって、逃げ出してしまった。
 ……ジュンのいない一年間は、ソフトに打ち込むことで過ごした。ずっと追いかけていた背中。失ってしまった夢。覗いた、絶望。それらを忘れるために、ジュンのための努力を無駄にしないために、今度はソフト界で活躍するために、努力した。そしてその努力はこの一年間で報われようとしている。今度こそ、報われる。
 それでも、俺のソフトをする根本的な理由だったジュンを、俺はまだまだ忘れられそうになかった。たとえ今度こそ報われたとしても、それは俺が本当に望んだ幸せじゃない。俺の本当の幸せは、いつだってジュンにあるのだから。
 いい加減もういいだろう、とびしょびしょの頬を伝う水滴を手で拭いつつ、顔を上げる。ふと、鏡に映った自分と目が合った。
 邪魔だからと短く切り揃えられた髪。日に焼けた肌。少し露出した服を着れば一目でソフトをやっている人間だとわかる、ユニホーム焼け。活動的、というよりは野性的、と言った方が正しい顔立ちはきっと人を惹きつけ、この大きな胸は異性を惹きつける。だけどそんなもの、何の価値があるというのか。俺が欲しいのは、人望でも愛でもない。ただ、ジュンと一緒にする野球だけ。ジュンが構えたミットへと精一杯投げられる、マウンドだけ。
 俺は、自分を映した鏡へ拳を振り上げる。なんで俺はこんな姿で生まれてきたんだろう。なんで俺は女に生まれてきたんだろう。振り上げたまま、振り下ろせない拳が震える。なんで、なんで、なんで、……どうして。振り上げた拳を、ゆっくりと下ろす。どうして。
 いつの間にか、泣きそうになっていることに気づき、慌てて目をこする。鏡を見て確認する。腫れてはいない。
 俺はトイレを出た。いつまでもトイレにこもってはいられない。試合は終わったのだからもう部員たちは帰る準備を始めているだろう。下手すれば置いてけぼりを喰らってしまう。
 ふと、俺は地面に転がった一つのボールに気づいた。落し物か、それとも場外ホームランの残骸か。どちらにせよ、地面のボールに気づくということは俯いていて歩いているせいだと気付き、苦笑する。
 俺は何気なくそのボールを拾った。硬球の固さに、猛烈な懐かしさを覚える。小学生までは、これを使っていたのだ。
 すぐ近くにある球場の壁に、ボールを放る。投げるとも言えない角度とスピードで壁に弱々しくぶつかったそれは、転々と地面を転がって足元に戻ってきた。それを拾い、一歩下がって、また放る。戻ってきて、拾って、また下がって、今度は、投げる。それを繰り返すうちにいつしか壁からずいぶん離れ、本格的な投球モードに入っていた。ソフトの時のようなウインドミル投法ではなく、野球の、上手投げ。ずいぶんと久しぶりの上手投げは、コントロールもスピードも滅茶苦茶だった。それでも、投げる。無表情な球場の壁に、マスクとプロテクターを着けてミットを構えるジュンを見ながら、投げる。投げる。投げる。
 それはもう、なんだか八つ当たりみたいなもので、それを分かっていても俺は止められなくて、俺はそんな幻みたいなジュンにまで縋ってしまうほど、その夢に焦がれていたのだと、気づく。
 今度こそ、報われる、だって? それがどうしたというのだ。報われたから、どうなるというのだ。そこに、俺の幸せはないというのに。たとえ日本一になったって、日本代表選手になったって、世界一になったとしたって、俺は絶対に幸せになれない。俺は世界一にも日本代表にも日本一どころか一勝だって出来なくてもいいから、俺は、ジュンと野球がしたかったのに。ジュンと野球ができれば、もうそれで俺は幸福なのに。
 どうして、神様。どうして、俺はこっちの世界に生まれてきたの。どうして、あっちに生まれてこなかったの。どうして……俺の幸せは、どう足掻いても行けないあっち側にしかないの。
 壁に描いたジュンに、あるいは最悪な運命を押し付けた神様に、思い切り、フォームもコントロールも無視した、本気で全身全霊のボールを、叩きつける。変な角度で壁にぶつかったそれは、全く見当違いな方向に跳ねて、俺から大分離れた所へと転がった。が、
「あ……」
 それを拾いに行こうとした俺の足が止まる。俺が拾う前にそれを無造作に拾い上げた人物がいたからだ。ビリビリ、と体が震える。
「ジュン……」
「なに、カナメ。お前こんなところにいたの」
 ジュンは少し荒い息を整えながら、手の中のボールを弄んでいる。ジュンはユニホームのままだった。それどころか、さすがにミットとマスクはしてないけど、プロテクターを着けたまま。まるで邪魔なマスクとミットだけを置いて追っかけてきましたよ、とでも言いたげな姿。
「いきなり逃げるんだもんなあ。びっくりしたよ。久しぶりだってのに酷いんじゃないの。せっかく一年……や、一年半ぶりに会ったのに」
 ジュンは弄んでいたボールを素早い動作で俺に投げ返す。それなりに早い球を、俺は素手で受け取った。だけどソフトの軟球より硬いそれは、素手で受けるとじんじんと痛かった。
「ほら、」
 ジュンが、よこせ、と手をひらひらさせる。俺はそれに従ってジュンにボールを投げ返す。ジュンの大切な手が痛くならないように、優しく。
 ジュンはそれを受け取るとすぐに俺に投げ返してきた。また俺が受け取る。ジュンに促されてまた投げる。また投げ返される。キャッチボール。
「カナメ、高校入ってから頑張ってんじゃねえの。違う学校で違う部活なのに、お前の話ばんばん耳に入ってきたぜ。高校ソフト界に怪物が現れた、って。それ俺の幼馴染なんだって言ったら、みんな驚いてさ、あれはちょっと気持ちよかったなー」
 俺とジュンの間を行き来するボールに言葉を乗せるように、ジュンは話し出す。
「ジュンだって、すごいじゃん。準決勝進出でしょ。ベスト4なんて、すごい」
「すごくねーよ。まだまだ、俺は先見てっかんな。目指すは甲子園で、優勝だ。それまで負けらんねえよ」
 甲子園。それはジュンが見ている、夢。ただジュンと野球がしたい、なんていう俺のちっぽけな夢とは違う、壮大な、ジュンに相応しい夢。
「カナメは、将来プロのソフトボール選手になるんだろ?」
 ジュンのその何気ない言葉に、ボールを投げようとした手が止まった。カナメ? とジュンが怪訝そうに見てくるが、その言葉でタガが外れてしまった感情は、止まらなかった。
「……なら、ないっよ!」
 ジュンの手のことも気にせずに、思い切り投げる。中途半端な勢いのそれは、驚いたジュンの手の平を弾いてコロコロと地に転がった。
「俺は、ソフトボールの選手になんか、ならないよ!」
 涙が溢れた。感情は涙のように溢れて止まらない。感情が溢れるから涙も止まらないのか、涙が溢れるから感情が止まらないのか、もうわけがわからない。
「俺は、俺はずっと、ジュンと野球がしたかったんだよ!」
 泣きながらの告白に、ジュンはボールを拾いに行くどころかボールに弾かれた手を下ろすことさえ忘れて、ずいぶんと呆けた顔をしている。
「でもっ、お、俺、はっ、女で! ジュンはっ男だから! 一緒になんかできるわけなかったんだ! 一緒になんかできない、のに、ずっと、願ってた! 諦めきれなくて、ジュンと一緒にやってきた野球捨てたくなくてっ、ソフトに走って、でもソフトでどれだけ頑張っても! 全然うれしくなくて……っ、お、俺、俺はっ!」
 涙でぐしゃぐしゃになりながら、訳もわからずに言葉を紡ぐ。
「俺は、ずっとジュンとバッテリーでいたかった! ジュンとずっと野球がしたかった! 俺が……俺だけが、ジュンのピッチャーでいたかった!」
 叫んだらもう、何の力も湧いてこなくて、俺は情けなくしゃがみ込む。地に膝をついて、顔を俯かせて、涙をぽろぽろこぼして。
 激情を吐き出したら、俺の中には何も残ってはいなかった。本当に、この想いだけが、この夢だけが、俺の全てだったんだ。
「なあ、カナメ」
「……?」
 ジュンの声が降ってきて、俺はそっと顔を上げる。ジュンは一歩も動いてないところで、どこか険しい目で俺を見ていた。
「ずうっと小さいころ、俺がキャッチャーやりたがってた理由、知ってる?」
「え……知ら、な……」
 そういえば、知らなかった。初めての野球。テレビの中の人の真似をしただけの、テレビの中の人と同じものを見つけたからやってみただけの、小さな小さな、二人だけの野球。そのころはピッチャーとキャッチャーどころか、ゲッツーもスクイズもフォークもインフィールドフライも何も知らなかった、小さな俺とジュン。そんな何も知らなかったジュンが、なんでキャッチャーというポジションに執着したのか。それは……、
「それはな、カナメがピッチャーだったからだよ」
 俺の、ため?
「俺は、カナメのキャッチャーになりたかった。他の誰にもカナメの球取らせなくなかった。俺はカナメの球を受け続けたくて、野球やってた。それは今も、これからも、ずっと同じだ……!」
 ジュンはくるりと踵を返し、弾かれたボールを拾いに行く。
「カナメ、ソフト、やれよ」
「……え」
「せっかく才能あるのに、それでプロ目指さないなんて駄目だ。いっぱい努力して挫折していく人への侮辱だ。ソフトは秋に、大会あるんだろ?」
 ジュンの言葉に思わず頷く。ソフトの大会は秋にある。この夏が、最後の山場となるのだ。
「じゃあ、日本一にぐらい、なってみろよ。俺も行くよ。甲子園。甲子園で勝って、俺も日本一になってみせる。だから、やめるなよ、ソフト」
 ジュンは拾ったボールを手に俺に歩み寄って、半ば乱暴に俺の腕を掴んで立たせる。至近距離でしかも俺より十センチはでかいジュンに、少し怯む。
 ジュンは俺の右手を取って、その手にボールを握らせた。手の中にあるのは、硬球のざらざらした感触。
「そしたら、俺がカナメの球、取ってやる。俺が日本一になって、カナメが日本一になって、そしたら嫌ってほどお前の球受けてやるよ。俺は後にも先にもカナメだけのキャッチャーだ。俺がキャッチャーやり続ける限り、誰の球を受けていようと、最初から最後まで、俺はカナメだけのキャッチャーだからな」
「俺だけの……?」
「ああ、そうだ」
 あまりに自信に満ちた声に、俺は手の中の硬球を握りしめる。
 ジュンが俺だけのキャッチャーだと言うのなら、俺は、ジュンだけのピッチャーだ。そう思った瞬間、俺はそれが、ずっと叶わないと思っていた、俺の夢だということに、気づく。
「さあ、カナメ、投げろ!」
 その声に前を向くと、ジュンが左手にタオルをぐるぐる巻きにして、十分に距離をとった場所に構えていた。
「上投げで、思いっきりな! ここに届くように、俺に投げろ!」
 それは確かに思い切り投げなければ届かない距離。でも思い切り投げた球があのタオルを巻いただけの手に届いてしまったら、ジュンの左手は、ジュンの大切な左手は、壊れてしまうかもしれない。
 俺の逡巡を感じ取ったのか、ジュンはまた俺に叫んでくる。
「いいんだ、カナメ! 俺はいいんだ! 左手が壊れても!」
「え……」
「カナメの投球なんかで壊れるような左手だったら、どちらにせよ日本一になんてなれないからな! それにもしこれで左手が壊れたら、」
 その時俺は、幼いころだって見たこともない、ジュンの心の底からの笑みを見たような気がした。
「俺は本当に正真正銘のカナメだけのキャッチャーになれる! それなら俺は、左手がぶっ壊れても、本望だ!」
 それは多分、ジュンの愛だ。今までの人生をかけた大切な大切な右腕を差し出して、そうすることで俺に誓っている。俺の球を受け続けることを誓ってる。本当に俺だけのキャッチャーでいることを、証明しようとしている。
 涙が出た。
「さあ、投げろ! カナメ!」
「うんっ!」
 俺は大きく振りかぶって、手の中の硬球を力の限りジュンへ投げる。



 そして俺はその先に、紛れもないジュンの姿を、確かに見たんだ。







end.




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