今でも、あの光景を忘れる事はない。
小さかった自分。
何で、どうしてそうなったのか…理解もできなかった、小さな自分。
一生好きにはなれない匂いの漂う廊下を、走り回る大人達の中で…
ただ、立ち竦む事しかできなかった小さなあの時の、自分。
―大丈夫よ、…三郎くんは必ず、助かるから―
守れなかった。
俺では、守る事ができなかった。
小さな小さな手の弱さを、あの時、思い知らされたんだ。
大事な子を一人、守る事もできなかったあの時の悔しさ。
忘れない。
だから、決めたんだ。
俺は…
「…っ、と」
躓きそうになる彼を、とっさの判断で受け止める。大丈夫か、と、崩れた体制の状態の彼に問い掛けると、うん、と頷いて足を整え直した。
ス‥と伸びた細く長い足は、立とうとする彼を、今日もちゃんと支えてくれている。
「…‥今日は疲れたか?」
「…んー‥、ちょっと」
「…そっか、じゃあ、帰るか」
今日は、結構な距離を歩いた気がする。
思えば生まれてから死ぬまで。人間の足とは、つくづく長持ちするものだなと思う。
人一人を支え続け、この身をどこまでへも連れて行ってくれる。
それが当たり前の事と思って、人はそれを使い続ける。
「…どうだ?気分は」
「…‥いい」
「…ふ、なら良かった」
少し汗をかいた彼の顔色は確かに良く、気分の良さが伺えた。
髪をくしゃくしゃと撫でると、少し不満そうにその手を払い退けようとしてきた。でも、その行為が照れ隠しである事を自分は知っている。
一人の男ならばきっと尚更、何とか弱みを見せないようにして生きるのは自然の事なのだろう。
何かを抱え、それが今も一生忘れる事のできない記憶の上に立っているのだとしても…
「…八」
「うん?」
「…喉、かわいた」
こうして彼が、甘えを見せたり笑ったり。感情をぶつけてきてくれる事が、今は凄く嬉しかった。
そう、ただそれだけさえあれば、もういい。
純粋に今を幸せと、思える日々がやっと帰ってきてくれたのだから…、もう他は何もいらない。
彼さえ居れば、もう何も…。
「…ん?…もういらないのか?」
「…ん、いらない」
「はいよ、じゃ、」
そうして余った缶ジュースの中身を飲み干して、近くにあったゴミ箱へそれを放り投げた。
ガゴンッ‥と無機質な音を聞き届け、竹谷は立ち上がって鉢屋に手を差し出した。
これはもう、何ら違和感のない、彼らの日常だ。
その手に素直に従い、よろける身体を支えて貰って。
誰にも追い付く事のできない歩調でも、ずっと彼は隣を共に歩んでくれた。
いつだって隣で、笑ってくれていた。
―罪悪感、だろ?
お前がずっと、俺と一緒にいてくれるのは…―
キキキキーーーーッ
ドンッ!!
何度も蘇る、あの日あの瞬間の音。
焼き付いた、光景。
それは新聞にも載る程の、大事故だった。
そう…、鉢屋の足はもう、普通の人のようには歩く事ができなくなっていた。
記憶の中に眠る、小さい頃のあの、大きな事故。幼馴染みである竹谷と、笑って遊んでいたあの日…。
失ったものは、小さな俺にはあまりにも大きくて…。
生きた地獄だと、思った。
つい昨日まで、数時間前まで、自由に走り回っていたというのに。
それももう、自分の力ではどうする事もできない身体になってしまったんだ。
自分の足なのに
自分の身体からまるで切り離されたみたいに、動かない足…
死ねば、良かったのに…
そう、思った。
歩けない足ならいっそ、あのまま死んでしまえば良かったのに。
背負う運命にはあまりにも重く、辛い現実。
小さな身体の小さな胸の中、俺は本当に死んでやろうかと思った。
―さぶろう!!―
光一つ無い、暗闇の中で生きていくなんて…俺にはできなかったから。
―さぶろう!!さぶろう!!!―
けれど…、そこに光はあった。
暗闇に生まれた、たった一つの光が…俺にもちゃんと、あったんだ。
面会が許され、事故後初めて会った幼い彼は、涙を滝のように流し、無我夢中でその身をぶつけてきた。
生きてて良かった。
三郎が生きてて、本当に良かった、と。
馬鹿みたいに泣き続けるものだから、思わず釣らされてその日、押し殺していた不安や恐怖を全てぶちまけるように泣いた。
同じだけの小さな身体をぎゅっと抱き締めて、抱き締められて。
生きているんだと、まだ終わりではないんだと、その温もりに縋って。
―オレがさぶろうを、ずっと守るから―
その言葉に、縋って。
それでもやがて、成長していく身体と心。
周りに置いて行かれる不安と、言う事の聞かない身体への苛立ち。
あの時の言葉を、律儀に守り続ける彼への…本当の想い。
―罪悪感、だろ?
お前がずっと、俺と一緒にいてくれるのは…―
きっと彼は、自分のせいだと思い続けている。
自分のせいで俺の足は動かなくなったのだと、思っている。
だから、もう、辛かった。
そうやってこれからも、罪悪感を背負って生きていくつもりなのかと…。
そんなのはもう、いらなかった。
お互いが、辛いだけだ。
だから、チャンスを与えた。
俺から逃げ出す、最後のチャンスを与えたんだ。
―…お前、それ本気で言ってんのか?―
本気じゃなかったら、一体何だと言うのだ。
―…俺がこの十数年間、何でお前の側に居たのか…
それが、罪悪感だって?
…それ、本気で言ってんなら…殴るぞ―
暗い部屋の中で、その一瞬、身動きがとれない事を改めて悔やんだ。
同じだった筈なのに、彼の身体は自分よりも一回りは大きく、力も強く、全てがずっと自分よりも成長していた。
抑え込まれ、それを望んだのは自分だったのに、だんだん離れていってしまう事に恐怖すら感じた。
でも、仕方のない事だと思った。この先もずっとずっと、なんて、有り得る筈がないのだ。
彼と、俺では…。
身体が震えた。
彼の、力への恐怖ではない。
彼を失う事への、恐怖だ。
そう、いつの間にか…。
いや、きっと幼いあの日からずっと、彼に依存していたのは俺の方だったんだ。
だから、解放してやる時だと思った。
―もう、いい‥よ、八―
お前はもう、十分過ぎるぐらいに俺の為に生きてくれた。
だから、もう…‥いいんだ。
自由になって、いいんだよ。
抑え込む彼の表情を見る事もできずに、鉢屋はただ震える声で精一杯伝えた。
今、こうして生きていられるのも
今、こうして自分の力で歩けるようになったのも
全て、お前がいてくれたから…、
だから…
もう、いいんだ。
もう…、いいんだよ。
こんなにも涙を流すのは、久しぶりな気がした。
いや、きっと、幼かったあの日以来だ。
そう、お前はいつだって、俺の心を乱す存在だ。
いつだって…
―…‥許さねぇ‥
離れるなんて、絶対に…
許さねぇ―
お前はそうやって俺の心を簡単に、乱していく存在なんだ…。
「…なぁ、三郎」
「…‥」
「…、おい、三郎?」
「…へ」
「…ぷっ、何ボーっとしてんだよ」
それとも、だいぶ疲れたか?
くしゃくしゃと髪を撫でると、今度は抵抗しないでされるままそれを素直に受け入れてくれた。
家の中だと、性格は一変して甘えやすくなる。
静かなリビングのソファーに座らせて、その身体を優しく抱き寄せた。
そして額や鼻先、頬に何度も何度も確かめるように口付けを繰り返す。
その度に生まれる、むず痒いような擽ったい感情。されるまま身を預けていると、今度は強く、それが唇に重なった。
そこから生まれ広がる熱が身体中を支配して、痺れたように動かない。
それでも手のひらは、彼の存在を探るように求める。ぎゅ‥と絡み合った指と指を強く握って、溢れ出る想いを一つ残さず感じて。
愛と言う名の感情が、何度も何度も体内を循環して。
あの夜に起こった出来事から、二人の関係は大きく変わっていった。
幼い頃と同じように泣きながら、それでもあの頃はまだ知らなかった想いを、好きだと、愛していると、呪文のように何度も囁き合って、身体を重ねて…。
―言っただろ?お前は俺が、一生守るって…
わかってんのか。もうお前は、一生俺の側からは離れられないんだぞ―
最奥にぶつけられた熱を感じてその時やっと、彼が抱く想いもまた同じだったんだと。この想いは、許された事だったんだと、実感した。
そう、彼はあの時も、そして、この時も…ずっと隣に立って、待っていてくれたんだ。
逃げ出さず、真っ直ぐに俺を見てくれていたんだ。
それを、自分の感情で突っ走って理解しないでいたのは、俺の方だったんだ。
何度も泣いてごめんと繰り返す俺に、彼はこう言ってくれた。
―ありがとう、だろ―
と…。
生きていこうと思った。
誰にも追い付く事のできない、こんな不出来な足だけど…
彼が隣にいてくれるのならばきっと、ゆっくり前へ歩み続ける事ができるから。
だから…、笑って生きていこうと思った。
そうすれば、きっと…
そう、きっと幸せは
必ず、訪れてくれるから…。
≫今回はちょっと重めなお話でしたが、彼らはちゃんと幸せです^^どんな障害をも乗り越える愛がこいつらには在ると思いませんか…!(笑)
ちなみに幸せとは、まぁ竹谷のプロポーズですよね^^結婚でも何でもすればいいと思います
とまぁ、当たり前に送れる日常がある事は本当に幸せですよね
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