Ep.3
朝)――その人の優しい目は、僕と同じ人間だと思えないほど美しく、どこまでも澄んでいた。
きっと、あの月と水面(ミナモ)を僕は一生忘れる事はないだろう…
『僕はそれでも歩いていく。【プール】』
朝)「あっれ?おかしいな〜、たしかこの辺に置いたんだけど…」
――引越しを終えて数日、まだ若干忙しさは残っているものの、それなりにここの暮らしには慣れてきた。
このまま何事もなく時が流れるかと思いきや、やはり問題は起った…
朝)「自転車の鍵…どこに置いたっけ…」
――毎日を共にする相棒である自転車。
もちろん車の免許は取れないので、唯一の交通手段である。…徒歩というのはあえてはずす。
そんな自分にとって必要不可欠な相棒の鍵をあっさり落としてしまうとは…はぁ
今日の買い出しで使って、鍵をかけたのまでは覚えている…多分。
「となると、家に入るまでだから、庭…かな?」
視線を窓の外へと向ける。
もう夜なので外は暗いが、懐中電灯を持てば何とかなるだろう。
朝)「庭…探してみるか」
――懐中電灯を片手に庭へ出ると、不思議な事に、いつもより夜が明るかった。
夜空を見上げて気付く。
「わぁ…満月だ…綺麗だなぁ…」
雲が少ないせいか、ちょうど丸い月はその淡い光を闇の中に漂わせていた。
「良かった…おかげで鍵が探しやすい…」
そうして僕は目を凝らし、相棒の一部を探す。
しかし、狭い庭の中なのに、いくら探してもそれは姿を現さなかった…
「ぇ…庭にもない…?じゃあどこで…(うーうー悩む)」
夕)「お。朝野くんじゃん」
朝)「おわっ!」
夕)「あ。ごめんごめん、ビックリさせた?」
朝)――確か、回覧板で見たっけ…この人の名字は…
「よ、芳浦さん…?」
夕)「ども♪」
朝)――柵の上からひょっこりと顔を出していたのは、つい先日、僕のために歓迎会をしてくれた人だ…
そういえばあれから忙しくて、ろくに顔も合わせてなかったな…
夕)「どうしたんだ?暗い中、地面なんかに這いつくばって?」
朝)「あの…自転車の鍵をなくしちゃって…」
夕)「鍵…?」
朝)「はい…。あの、今日ここらへんで見ませんでしたか?」
夕)「ん〜…。…わりぃ、見てねーなぁ」
朝)「そうですか…」
ガックリと肩を落す。
はぁ…また明日、明るくなってから探そうかな…
夕)「君も引越し早々、災難だね」
朝)「うぅ…言わないで下さいよ…」
夕)「わりぃわりぃ」
朝)笑顔で謝られても、反省している感じがない…いつもこんな感じなのだろうか…
そういえば、どうしてこの人はこんな夜に出てきたんだろう…?
「あの、芳浦さんこそ夜にどうしたんですか?」
夕)「俺?俺はちょっと散歩しようかな〜って思って。ほら、月が綺麗だし」
朝)「へぇ〜散歩ですか!良いですね」
夕)「ん?じゃあ朝野くんも一緒に行く?」
朝)「え。良いんですか?」
夕)「あぁ、一人より二人の方が楽しいだろうし」
朝)「じゃあお言葉に甘えて…」
夕)「鍵のショックもあるしな」
朝)「うっ。せっかく忘れかけてたのに言わないでくださいよ〜」
夕)「はははっ、おもしろー」
朝)――柵越しに他愛のない会話をしながら、僕は鍵探しをやめ、庭から出た。
夕)「朝野くん、そのまま行くのか?たしかに夏だけど、ちょっと薄着すぎないか?」
朝)「大丈夫です!俺、体は丈夫なほうなんで」
夕)「ならいいけどー…じゃあ行くか〜」
朝)――薄い夜の中、どこを目指すわけでもなく足を進める。
耳をすませば虫の音が聞こえ、深呼吸をすれば夜の澄んだ空気が鼻腔をくすぐる。
ここ数日の疲れが吹き飛ぶようだった。
夕)「なかなかこういう日ってないよな〜すげぇ貴重だよ…」
朝)「そうですね〜、癒されます〜」
夕)「ぉ。そうだ、今からプール行かねぇ?」
朝)「プール?」
夕)「そ。ここの近くに廃校になった小学校が使ってたプールがあるんだよ。今は夏になれば誰でも自由に使える場所なんだ」
朝)「でも、さすがに夜は開いてないですよね」
夕)「真面目だなぁ朝野くんは。柵を飛び越えて進入するに決まってるじゃないか♪」
朝)「え゙っ。ダメですよそれは〜」
夕)「大丈夫、大丈夫♪前も裕桧と入った事あるし」
朝)「常習犯ですか!しかも妹さんまで巻き添えにして!」
夕)「は?妹?」
朝)「だからこの間の女の子ですよ、たしか名前は…ゆうひ…とかって…」
夕)「はぃ?いやいや、あれ俺の娘だし」
朝)「へっ!?むっ、娘!?」
夕)「うん、俺の娘。じゃあ俺は何だと思われてたんだ…?ベビーシッター?」
朝)「ぉ…お兄さんかと…」
夕)「随分、年の離れたお兄さんだな(笑)」
朝)「でも…お父さんにしては若すぎ…あ…すみません」
夕)「なんで謝んの(笑)」
朝)「いや…だってその…何か事情があるんじゃないかって…」
夕)「あぁ、そんなの気ィ使わなくて良いよ(笑)」
朝)「でも…」
夕)「ほら、プール着いたぞ」
朝)――話に集中していたせいか、芳浦さんの歩く方向についていくような形になっていて、視線を外せばプールがすぐそこに見えた。
夕)「よいしょっと。ほら、朝野くんもこっち、そこに足かけて登っておいで…っと!(着地)」
朝)「ぇっ、待ってくださいよっ!」
――急かされるように柵を登り、プールサイドに下りる。
夕)「ほら…綺麗だろ…」
朝)「わぁ…」
――目の前に広がるプールの水面に映る月はとても幻想的で、思わず見入ってしまうほどだった。
夕)「やっぱり。ここに来て正解だ…綺麗に映ってるな〜…」
朝)――その言葉に、「最初からこれを見るつもりだったんだ…」と思った。
夕)「おー、水も冷てー!」
朝)――彼はまるで子どものようにはしゃぎながら、プールサイドに座り、水の中に足を入れバタ足をし始めた。
夕)「朝野くんも、どう?」
朝)「あ。はい」
――ズボンの裾を捲り、水面に足をつける。
ふわんと波紋ができ、広がっては、消えていく。
月夜の所為だろうか…当たり前のことが、とても美しく見える…不思議だ。
夕)「うりゃ!」
朝)――突然、バシャ!という音と共に、肌にひんやりとしたものが広がる。
「ちょ!芳浦さん何するんですかいきなり!あー、袖濡れちゃったし!」
夕)「どうせすぐ乾くだろ?(笑)」
朝)「このー!やったなぁ!おりゃあ!」
夕)「ぶっ!…おま、ちょっとは考えてやれよ!水かかりすぎだろ!」
朝)「俺は三倍返しが基本なんで!(ふふんと鼻で笑う感じ)」
夕)「っこんのガキ〜…どりゃあっ!」
朝)「ぎゃ!」
――背中を思いきり押され、僕はプールの中へといきおいよく落ちた。
ゴボゴボという音と、青い視界。
目の前で空へと向かっていく気泡がすごく綺麗だと、突き落とされたのも忘れて思う。
…その時間、約3秒。
「ぶはぁっ!っげほげほっ」
夕)「おーおー大丈夫か〜?」
朝)「ッ…だッ大丈夫じゃないですよ〜ぅえっ、服ぐっしょり…」
夕)「はははは!わりぃ、ほら、手ぇ貸してやっから…」
朝)――その余裕な態度が気にくわなくて、睨みつけようと顔を上げる。
「だれがっ…ッ!」
一瞬、息が詰った。
さっきまでの意地悪な笑みとは違う、穏やかな表情。
その輪郭は月光でぼかされ、よりいっそう笑みを柔らかいものにしている。
夕)「ほら、掴まって…」
朝)「ぅ…はぃ…」
――この時初めて、さっきこの人が自分の事を父親だと言っていたことに納得出来た気がした。
僕じゃあ、こんな顔は出来ない…自分の愛する者がいるからこそ出来る顔だ…
夕)「しっかり掴まってろよ…よいしょっと!」
朝)――ザバァとプールから引き上げられ、プールサイドに大きな水溜りができる。
――なんだか、この人には勝てない気がする…
水を吸った服が重いと、とりあえずTシャツの端を絞っていると、上から呑気な言葉が降りてきた。
夕)「なんか濡れてるとカッパっぽいな、朝野くん」
朝)「はい?」
夕)「いやなんか、頭のペッタリ具合が…(笑)」
朝)「失礼ですよ…」
夕)「いやいや、可愛いって言ってるんだよ。なんか息子が出来た気分♪なんちて」
朝)「それこそ、ゆうひちゃんよりあり得ないですよ(呆)」
夕)「んーでもさ、朝野くんは友達〜って感じはしないんだよね。ずっと若く見えるっていうか…(わざとらしく悩む)」
朝)「…俺もそう思います」
夕)「あ。やっぱそう思う?だよなー、ってどうした?!急にしぼんでるぞ!!」
朝)「…なんでも…ないです…」
夕)「もしかして息子設定が気にくわないとか?」
朝)「なんか、くやしいです…芳浦さんと対等だと思ったのに…」
夕)「友達の方が良いってわけか〜…ん〜…。でもさ、俺がもし朝野くんだったら、息子の方が嬉しいな〜」
朝)「なんでですか…?」
夕)「だって、愛の深さが違うだろう?それに、いくら君が俺の本当の子どもじゃなくても、息子だって認めた時点で、俺は自分の持つすべての愛情をやるよ」
朝)「そ、そんな簡単に…おままごととは違うんですよ?」
夕)「おままごとじゃないよ。俺が言ってるのは、人間としての純粋な気持ち。俺はさ、友達にはない「帰る場所」ってのが、「親子」って言葉の意味にはあると思うんだよね…」
朝)――正直、この人の言っている事は独特…だと思う。
でも、分かるような気もして、簡単には否定出来ない…
夕)「って、自分でも言ってる意味理解してるのか微妙なんだけどさ(苦笑)変だと思っただろ?」
朝)「別に、俺は良いと思いますよ…考えなんて人それぞれですし」
夕)「お。じゃあカッパも?」
朝)「それは別です(キッパリ)」
夕)「なんじゃそりゃ(笑)」
朝)――月の穏やかさは変わらぬまま、漆黒ばかりがどんどん深かを増していく。
さすがに濡れたシャツが風に当たると寒い。
そんな僕を見て、芳浦さんは自分の着ていたシャツを脱ぎ、僕に着せた。
そして「帰ろうか」と、またあの笑顔で言ったのだ…
――僕がこの人の「息子」になった日。
――僕に「帰る場所」ができた日。
この月と水面が、僕の記憶が本当であるという証拠…
朝)「はっくしゅ!うぅ…」
裕)「はい、ゆういち!リンゴだよ!」
朝)「も…もうリンゴは良いよ裕桧ちゃん…(苦笑い)」
夕)「ほれ、タオル取り替えてきたぞ」
朝)「ありがとうございます…(鼻水を啜りながら)」
夕)「あと薬だけど、俺ので良かったら、病院から出た薬にすれば?市販よりは効き目あると思うんだけど…」
朝)「はい…それでお願いします…」
夕)「裕桧ー!薬箱から「セキ」って書いてある袋取ってくれー!」
裕)「仕方ねーなー!分かった!ちょっと待ってろよ!」
夕)「あぁ、頼むー!」
裕)「らじゃ!」
朝)「あの…鼻炎の薬じゃないんでずが…?(鼻づまり)」
夕)「はぁ?鼻炎の薬だろ?今、裕桧が持ってくるから待ってろ」
朝)「でも今、『咳』って…」
夕)「……。」
朝)「よ、よしうらさん…?」
夕)「ぶはははははっ!あー!そうかそうか!なるほどね!あはははははっ!」
朝)「……(ポカン)」
夕)「セキってのは俺の名前!夕方の「夕」って書いて、セキって読むんだ。 にしても…咳って…ぶっ(笑)」
朝)「は…初めて知りました…芳浦さんのお名前…」
夕)「そうだよなー、朝野くんに言ってなかったっけかー あー、でもおもしろー!」
朝)「な…なんか、そんな名前の人に看病されても、治らないような気がします…(げっそり)」
夕)「だな!俺もそう思う」
裕)「とーん!持って来たよー!」
夕)「おぅ!偉いぞ〜裕桧〜。ありがとな♪」
裕)「どういたしまして!えへへ!」
朝)――裕桧ちゃんの頭を撫で、芳浦さんは苦笑しながら微笑む。
夕)「でもまぁ…名前を超える愛情で、息子の風邪を治してみせるよ」
Ep.3 fin.