[携帯モード] [URL送信]
忘れたくても忘れられない日があった。いや、他の誰が忘れたとしても、俺だけは忘れてはならないのだ。
それは、誰よりも俺を愛してくれた彼にさよならを告げた日だ。
彼の恨むような目が、ずきりと心臓を痛め付ける。少なくとも俺のなかでは裏切りではなかった。あれは、俺が俺であるために必要なことで、きっと何度繰り返しても、何度でも俺は彼に別れを告げるのだろうと思う。
咲き誇る薔薇の庭をくぐり抜け、木製のドアの前に脚を並べた。この中に、彼が息づいている。
独立の前は何度も訪れた、その暖かい場所。俺は、彼のつくるスコーンが本当は嫌いではなかった。確かに、フランスがつくるものよりよっぽどまずいのだと思うし、世間的にもそうなのだろう。けれど、生まれたときからあの味で育った俺には、食べられないものではなかったし、ときどきどうしようもなくあの味が恋しくなるのだった。
誰にも告げずに彼の家に、しかも一人で訪れるのは初めてのことだった。今ごろアメリカ本土は大騒ぎになっているかもしれないけれど、少しの間だから許してほしい。
いやに緊張して、喉が乾く。手のひらに汗がにじむ。彼はどういった目を、今度は俺に向けるのだろうか。
公式の場以外で、つまり個人的には会うのは、あれから今日がはじめてだ。
ベルを鳴らせば彼は出てきてくれるだろうか。そういえば、ベルをならすのもはじめてだ。今までは、そんなもの鳴らさなくたって彼の家に入っていけた。
深呼吸をしてから、震える手で、ベルを鳴らす。古くさいアンティークのベルからよく家の中から聞いていた懐かしい音がした。
一分にも満たない時間だったかもしれないけれど、俺にはひどく長い時間に感じた。自分の鼓動が、耳の中でうるさく響いた。
とんとん、と軽い音が家の中から聞こえ、ゆっくりとドアが開いていく。
少しくすんだ金の色。ペリドットの瞳。薄いやわらかなくちびる。彼を彩るすべてが、鮮やかに彩られていく。
深い緑の中に自分の姿が映る。泣きそうな顔をしているのは俺の方だった。
時が止まる。彼のペリドットがじわりとにじんでいく。
本当に彼の瞳に映っていたのは恨みだったのだろうか。
アメリカ、と俺を呼ぶ震えた声は、やっぱり甘いままだった。
泣き出しそうな声。彼はこんなに弱かったんだと今更に知った。
いつか俺を抱き締めてくれた身体を、抱き寄せたいと思った。衝動が、指先を走るのを、なんとか身体の奥に押し止めた。
俺が傷付けて、彼を弱くしたのだというのなら、今度は俺が彼を守りたい。傷付かないように、悲しまないように、涙を流すことのないように。
強く凍った、もろく壊れやすい彼のこころを壊してしまったのなら、どれだけ時間がかかってもそれを治してあげたいと思う。それは、ただの俺のエゴかもしれないけれど。
たぶん、ひとつだった俺と彼はふたつのものになって、本当はそこは終わりじゃなくて始まりだった。
彼のくれたぬくもりを、彼に与えたいと、そう思う。

「……久しぶり、イギリス」

きっと俺たちはまた始まることができるんだ。もう一度、この場所から。


Don't
Obey
Raining


(131126)





あきゅろす。
無料HPエムペ!