小学部高学年の時に肺炎になりその時に背骨の病気『側湾症』がわかりました背骨がS字みたいに曲がる病気、小学部六年から再び地元の大きな病院の整形外科に通うようになりました。半年に一回づつ中学部3年の頃、主治医から『側湾専門医に一度受診したほうがいいですよ、50度を越える曲がりだと手術が必要ですから』と言われ紹介状を書いてもらい中学部三年の春に東京の側湾専門医に受診しました。
〈第七章〉
そして側彎症の入院生活と手術
やはりここでも主治医に言われ『50度を越えると手術が必要、今やっておかないと一生ひどくなる、年令も16才から18才ぐらいまでがいい』と言われました。三ヶ月に一回の検診で順調に手術の日取りも夏休み明けには決まり、入院の手続きもその時にしました。
九月からは自己血をするのに毎週通い、血圧も普通の人より低く貧血をおこし気を失い救急車で運ばれた事もありました。普通の人より血管も細くおくにあり200mlとるのに3時間以上かけてとりました。
そして10月10日入院17日が手術の予定、一人で泊まれるのかと心配でした。初日はなんとかよかったのですが、二日目三日目ともなると毎晩泣いて『お家に帰りたい、迎えにきて』と泣いて電話してきました。
一日おきに通い本人を落ち着かせて寝かせて帰るという形で一週間がたちました。13日には主治医から手術の説明があり、かなりの大きな手術がわかり、それでも背中が真っすぐになればいい、元気でいてくれればいいと心の中で思ってました。
そして手術の日にちも17日から16日に変更になり私たち夫婦は当日を迎えました。看護士から前日に『朝の8時までに病院にきてください』と言われていたので前日はビジネスホテルに泊まりました。
手術当日、私たちは病室にいるかおりに会い、『かおちゃん、頑張るんだよ』と声をかけ、手術着に着替え点滴をされストレッチャーに乗せられたかおりは手術という事がわからず『手術をしたらお家に帰ろうね』と私たちに言い、よほど一人で病室にいたのが心細く淋しかったんだと思いました。
病室に一緒にいたおばちゃんたちに見送られかおりは手術室に向かいました。2階にある中央手術室にくるとかおりは私たちに『バイバイ』と手を振り手術室に入って行きました。何も知らずわからないままのかおり。
〈第八章〉
そして手術を向かえた
9時に始まった手術私たちにとって長い一日が始まりました。4時間から5時間かかる手術と聞いていたので、かおりが無事にでてきてくれればと願うばかり、近くに神社がありお参りにも行き、食事も喉を通らず主人とふたりで時計の睨めっこでした。
ナースステーションに電話が入り手術が終わったとの知らせがあり、何人もの看護士から声をかけられ私たちはかおりが戻ってくるのを待っていました。障害のある子だけに看護士も心配してくれていました。
エレベーターからベッドが一台おりてきました。中をのぞくと麻酔から覚めたばかりのかおりがいました。真っ青な顔をしていたけど『ママー痛かったぁー』と泣いていました。私たち夫婦は涙しながら『頑張ったね』と声をかけ主人は無事に手術が終わった事を家族に連絡してました。
かおりはリカバリールームに入り看護士たちの処置が始まり15分がたった頃に看護士から『面会できますよ』と言われリカバリールームに入りました。
点滴を4本両手にされ、酸素吸入を付けられ寝ていたかおりを見つめてました。かおりは痛み止めの注射をされ眠っていたのです。リカバリールームからでた私たちは主治医から手術の説明がありました。手術は成功したときいて私たち夫婦は『本当にありがとうございました』とお礼を言って帰りました。
〈第九章〉
今回の入院生活と手術を振り返る
主人とふたりで『今回の手術は良い経験になったね、金具が入った身体になったけど、これでよかったんだよね』と話しました。
リカバリールームに入ってからは一日おきに会いに行き手術から4日目がたった頃に付き添いができる二人部屋の個室に移りました。
点滴も入れるのに時間がかかり、また夜中には抜いてしまった事もあったので付き添ったほうが安心だと思いました。
手術後は順調に回復していき、装具も作り退院の日にちも近づいてきた頃採血とレントゲンをとって異常がなかったので11月12日に退院の日が決まりました。
色々な困難をむかえ今回の手術。私たち家族の絆が深まりいい経験になりました。また特別な人生を歩ことにもなったけど、障害の事、側湾症の事その他の事が色々と勉強になりました。障害がある子だけど本人が生きていてよかったと思うように私たちは応援していきたいと思います。
今年は高等部2年生です。みんなよりも違った人生を歩んでいくけど頑張ってほしいです。
あとがき
実際に父母の手記に載った実話です。児童相談所とかに《はげみ》という本
に記載されました
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