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なつきのプロフィール

このお話は実話です小説は次回に書きますね私の娘のお話障害を持つ家族や娘の絆がつまったお話

側彎手術とかおりの人生

〈第一章〉
生まれてきた子供に
平成二年六月九日に3389sで生まれたのが、次女のかおり、生まれた時は異常もなく元気な子。
この時に私たち夫婦はこの子と特別な人生を歩とは思ってなかった、かおりがすくすく元気に育ちなんの不安もないまま半年が過ぎた頃、町の乳児検診があり、先生から『この子は一度精密検査を受けたほうがいい、このままだと普通にお座りや歩行ができない』と言われました。
確かに他の子と違ってハイハイやお座りが違った、心の中では『ただ遅れてるだけ大丈夫』と思ってました。でも現実は違ったのです、私は先生に進められ大きな病院で色々な検査をしましたが、どれを検査しても異常が認められず病院の先生の紹介で甲府のあけぼの医療福祉センターに行きました。

〈第二章〉
リハビリに通う生活
河口湖からバスで一時間、甲府駅からタクシーで30分の所にあけぼの医療福祉センターがありました。その頃私のお腹には三人目がいました。かおりが一歳三ヶ月の時に、11月予定日だった私のお腹が大きくなりはじめた頃、あけぼの医療福祉センターに通いはじめました。
平成三年の九月から毎週金曜日の午後にリハビリが一時間あり、私の心の中では『お金がかかってもいい、この子を普通の子と同じになってほしい』という思いが強かった。
でも普通の子にはなれなかった。リハビリの先生がお話するには『5ヵ月頃から発達する足の筋肉が弱いため、普通にお座りやハイハイが遅れてる、このままだと歩く事もできない』と言われました。

〈第三章〉
障害と認めた時
この頃私の心には障害という言葉がよぎるようになりました。身体障害、知的障害どっちの障害にもなるんだと思い自分をせめたりしました。
『あの時に運動をさせていたり、抱いてあげたりしていたら今頃はきっと元気な普通児になっていたんだ』何度も思い浮かべては泣いていた日々もあり、あけぼの医療福祉センターに通いはじめて2ヶ月の頃普通のハイハイができ、さらに2ヶ月がたった頃つかまり立ちができるようになりました。

〈第四章〉
リハビリのおかげ
日に日にかおりの成長が延び、娘の成長が本当に嬉しかった。リハビリの先生方の一生懸命な指導があったからこそ、かおり自身も頑張れたんだと思います。
リハビリに通いはじめて三才四ヵ月の頃には一人で歩けるようになりました。この頃から言語の訓練も始まり又整形外科と小児科の検診も始まりました。
整形外科では、つちふまづがないため足低装具を付けるように指導されました。又言語の先生には『この子は目で見ようとしないし手で触っていても目先は違うところを見ていて耳から入った言葉が頭に入らずお話ができない』と言われ言語の訓練では、目で見て手で触り言葉を教えるという訓練がはじまり少しづつだけど言葉を覚えお話ができるようになりました。

〈第五章〉
第2の決断
リハビリと言語の訓練にも通いながら保育園にも通いました。友達や先生にも良くしていただき、2年間の保育園生活が終わる頃、言語の訓練は終了し又リハビリもほぼ同時に終わり、たまに整形外科と小児科の検診に通っていました。
保育園生活も終了するころには普通の学校にしようか?養護学校にしようかと私たち夫婦は悩み、かおり自身成長が延びるのであれば養護学校に。
また今の友達と仲良くいけるのなら普通の学校がいいのか?町の教育委員会や家族と色々話し合いました。
でも一番に考えたのはこれからの人生一人で自立ができ将来を考えると養護学校が一番いいのではないかと思いました。そして年長組の秋には近くのふじざくら養護学校に入る事を決意し、みんなよりも違った人生を歩ことになるけど頑張ってほしいと願いました。

〈第六章〉
そしてふじざくら養護に入学
平成9年4月にふじざくら養護学校に入学。小学部中学部高等部とある郡内の養護学校で、小学部から順調に成長していきました。
小学部高学年の時に肺炎になりその時に背骨の病気『側湾症』がわかりました背骨がS字みたいに曲がる病気、小学部六年から再び地元の大きな病院の整形外科に通うようになりました。半年に一回づつ中学部3年の頃、主治医から『側湾専門医に一度受診したほうがいいですよ、50度を越える曲がりだと手術が必要ですから』と言われ紹介状を書いてもらい中学部三年の春に東京の側湾専門医に受診しました。

〈第七章〉
そして側彎症の入院生活と手術
やはりここでも主治医に言われ『50度を越えると手術が必要、今やっておかないと一生ひどくなる、年令も16才から18才ぐらいまでがいい』と言われました。三ヶ月に一回の検診で順調に手術の日取りも夏休み明けには決まり、入院の手続きもその時にしました。
九月からは自己血をするのに毎週通い、血圧も普通の人より低く貧血をおこし気を失い救急車で運ばれた事もありました。普通の人より血管も細くおくにあり200mlとるのに3時間以上かけてとりました。
そして10月10日入院17日が手術の予定、一人で泊まれるのかと心配でした。初日はなんとかよかったのですが、二日目三日目ともなると毎晩泣いて『お家に帰りたい、迎えにきて』と泣いて電話してきました。
一日おきに通い本人を落ち着かせて寝かせて帰るという形で一週間がたちました。13日には主治医から手術の説明があり、かなりの大きな手術がわかり、それでも背中が真っすぐになればいい、元気でいてくれればいいと心の中で思ってました。
そして手術の日にちも17日から16日に変更になり私たち夫婦は当日を迎えました。看護士から前日に『朝の8時までに病院にきてください』と言われていたので前日はビジネスホテルに泊まりました。
手術当日、私たちは病室にいるかおりに会い、『かおちゃん、頑張るんだよ』と声をかけ、手術着に着替え点滴をされストレッチャーに乗せられたかおりは手術という事がわからず『手術をしたらお家に帰ろうね』と私たちに言い、よほど一人で病室にいたのが心細く淋しかったんだと思いました。
病室に一緒にいたおばちゃんたちに見送られかおりは手術室に向かいました。2階にある中央手術室にくるとかおりは私たちに『バイバイ』と手を振り手術室に入って行きました。何も知らずわからないままのかおり。

〈第八章〉
そして手術を向かえた
9時に始まった手術私たちにとって長い一日が始まりました。4時間から5時間かかる手術と聞いていたので、かおりが無事にでてきてくれればと願うばかり、近くに神社がありお参りにも行き、食事も喉を通らず主人とふたりで時計の睨めっこでした。
ナースステーションに電話が入り手術が終わったとの知らせがあり、何人もの看護士から声をかけられ私たちはかおりが戻ってくるのを待っていました。障害のある子だけに看護士も心配してくれていました。
エレベーターからベッドが一台おりてきました。中をのぞくと麻酔から覚めたばかりのかおりがいました。真っ青な顔をしていたけど『ママー痛かったぁー』と泣いていました。私たち夫婦は涙しながら『頑張ったね』と声をかけ主人は無事に手術が終わった事を家族に連絡してました。
かおりはリカバリールームに入り看護士たちの処置が始まり15分がたった頃に看護士から『面会できますよ』と言われリカバリールームに入りました。
点滴を4本両手にされ、酸素吸入を付けられ寝ていたかおりを見つめてました。かおりは痛み止めの注射をされ眠っていたのです。リカバリールームからでた私たちは主治医から手術の説明がありました。手術は成功したときいて私たち夫婦は『本当にありがとうございました』とお礼を言って帰りました。

〈第九章〉
今回の入院生活と手術を振り返る
主人とふたりで『今回の手術は良い経験になったね、金具が入った身体になったけど、これでよかったんだよね』と話しました。
リカバリールームに入ってからは一日おきに会いに行き手術から4日目がたった頃に付き添いができる二人部屋の個室に移りました。
点滴も入れるのに時間がかかり、また夜中には抜いてしまった事もあったので付き添ったほうが安心だと思いました。
手術後は順調に回復していき、装具も作り退院の日にちも近づいてきた頃採血とレントゲンをとって異常がなかったので11月12日に退院の日が決まりました。
色々な困難をむかえ今回の手術。私たち家族の絆が深まりいい経験になりました。また特別な人生を歩ことにもなったけど、障害の事、側湾症の事その他の事が色々と勉強になりました。障害がある子だけど本人が生きていてよかったと思うように私たちは応援していきたいと思います。
今年は高等部2年生です。みんなよりも違った人生を歩んでいくけど頑張ってほしいです。

あとがき
実際に父母の手記に載った実話です。児童相談所とかに《はげみ》という本に記載されました読んでくれた人はで感想を待ってます。


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