き
ら き ら 朝、出かける準備をしていたら、出勤前の母親に捕まって鞄に宿題を詰め込まれてしまった。あれもこれも、ペンケースも忘れないでね、分からないところがあったら美鶴くんに教えてもらいなさい、とかなんとか。おかげさまで、亘の鞄は宿題とお弁当でぱんぱんだ。こんなのかっこ悪いよ、と文句を言ったけれど、基本的に亘は母親には敵わない。結局、歯磨きをして、テレビを見て、出かける時間になっても、亘の鞄はそのままだった。 もちろん、宿題をやるかやらないかはまた別の話。この間まで塾の夏期講習に通っていたんだから、暫らくは教科書なんか見たくもないというのが本当のところだ。 美鶴が勉強をすると言うなら一緒にしてもいい。けれど、新しいゲームをすると言う約束だ。簡単だった、なんて美鶴は言っていたけれど、クラスでも難しいと評判のそのゲームを、亘はずっと楽しみにしていたのだ。ちょっとした事情で美鶴が一足先に手に入れたけれど、亘ももうすぐ買ってもらえることになっている。でもきっと、独り占めしてゲームをするよりも、こうやって美鶴と一緒に遊ぶほうが楽しいんだろうな、と言う予感がしていた。 だから今日は勉強は二の次。母親には言えないけれど、そう決めていた。 天気予報のお姉さんが言っていた通り、今日もすごく暑い。まだ九時だと言うのに、もう三十度を越えているかもしれない。亘はおざなりに夏用の帽子を被り、美鶴の家へと走った。走るのと、じりじりと照りつける太陽の下を歩くのでは、多分同じくらい疲れるんだろう。だったら亘は少しでもはやく美鶴に会える方を選ぼうと思った。 アスファルトの照り返しがきつい。信号を渡って、散歩中の犬に手を振って、スーパーの前を横切ってから細い道に入る。それから少し歩けば美鶴の家だ。亘は最短距離を駆け抜け、マンションのインターフォンを押した。暫らくすると、美鶴のそっけない声が聞こえてくる。亘だと気づいた美鶴の声音が少しだけ優しく変化するのに満足し、エレベーターに駆け寄った。 「はやかったな」 「うん、走ってきちゃった。外、すごく暑いよ。アヤちゃんは?」 「部屋の掃除をするとか言って、昨日からこもってる。その前に宿題やれって、ワタルからも言ってくれないか」 室内はエアコンが効いていて、うっすらと汗をかいた亘の肌をひんやりと冷やす。言われるままに今のソファに腰を下ろすと、美鶴がグラスに注いだカルピスを手渡してくれて、ありがとうとお礼を言って一口飲み、亘はそうだ、と言って鞄をひっくり返し始めた。 「…なにそれ、おまえ、勉強するつり?」 「違うよ、これはお母さんが無理やり…あ、あった。これ、みんなで食べるようにって」 最初に出てきた教科書やノートを見て美鶴が呟くけれど、亘が取り出したのは、母親が仕事先で貰ってきたファミリーサイズのドーナツだった。粉砂糖がかけられ、一個ずつ包装されたドーナツがたくさん入ったそれは、二人きりの三谷家には確かに多い。その点今ならアヤも混ぜて子供が三人いるし、美鶴の叔母も甘いものが好きだと言っていたから、多分食べきることが出来るだろう。 「もう少ししたら、アヤちゃんも一緒に食べようよ。美鶴、甘いの嫌い?」 「嫌いじゃないけど、悪いな」 「ううん。うちに置いておいても減らないから」 「じゃあ、先に少しゲームするか?」 「うん、やりたい!」 夏休みに入ってから、こうして美鶴の家に遊びに来ることが増えた。まだ小さい妹を一人きりにすることを、美鶴が嫌がるからだ。美鶴の叔母が在宅の時などは二人でプールに行ったりしたけれど、それ以外の日はこうして亘が美鶴の家を訪ねる。亘の母も芦川家の家族構成のことは知っているから、特に注意をすることもなく亘を送り出している。今日なんかは、昨日から母親と二人で作った特製三谷家弁当つきだ。 子供だけで過ごす一日はいつもより少しだけ特別で、わくわくする。美鶴を手伝ってコントローラーをつなぎながら、亘は思わず笑ってしまっていた。美鶴に変な目で見られて、慌てて笑顔を引っ込める。油断は禁物だ。ゲームで分からないところがあったら教えてくれると美鶴は言ったけれど、一度しか言わない上にすぐ次に進んでしまうものだから、かなり真剣に聞かないと余計に分からなくなってしまう。マイペースと言うか、自分勝手と言うか、でも亘が知っている誰よりも美鶴が一番上手いから、うっかりかっこいいとか思ってしまいそうになる。コントローラーを握り締めて、亘はテレビ画面に意識を集中した。 そんなことをしているうちに、いつの間にか十時になっていたらしい。そろそろアヤが来る、と言う美鶴の一言でゲームは一端終了となった。 「簡単だったろ」 「………いや、そんなこと、ないよ…」 あんまり真剣になり過ぎて、亘の目はじんじんと痛んでいた。確かに美鶴の指示は正確なものばかりだったけれど、初めて遊ぶゲームで応用するには難しすぎる。適応能力の高い小学生でもたった二、三回のプレイでそこまで攻略されてしまっては、ゲーム会社だって悔しいに違いない。おかげで妙にスリリングで楽しい時間を過ごせたと言えば聞こえはいいけれど、亘はもうすでにぐったりと疲れてしまった。 「でもやっぱり面白かった!!」 「ワタルも買うんだよな。別に、やりたい時にうちに来てやればいいのに」 「うーん、でもゲームばっかりもつまんないし、今日だけにしとく」 「………そっか」 ゲームは確かに楽しいけれど、そればかりだと美鶴と話したりする時間が全然なくなってしまう。それではつまらないのだと正直な気持ちを告げると、美鶴は照れたように視線をそむけた。けれど美鶴がちゃんと嬉しいと思ってくれていることは亘にも伝わって、二人の間の空気がほんわりと柔らかくなる。 美鶴も亘も、悲しい思いをした経験が多いせいか、自分の気持ちを相手に伝えないと気がすまない方だと思う。亘はストレートすぎて、反対に美鶴は婉曲的すぎるけれど、それは今のところ、二人だけに通じればいいものだった。 パタパタと廊下から軽い足音が聞こえてくる。アヤだ。たった一人の妹として美鶴がすごく可愛がっているアヤは、兄に似ずに明るくいつもにこやかな女の子で、一人っ子の亘も自分の妹のように思っている。 「ワタル、コップこっち。氷溶けただろ、変えるから」 「え、いいよ。あ、じゃあこれに新しい氷入れて欲しいかも」 僕が持っていくから、と言ってキッチンに立ったところで、居間のドアが勢い良く開け放たれた。そこに二人がいないのを見ると、すぐさまキッチンに駆け込んでくる。 「ワタルくんだ!おはよう!」 「おはよう、アヤちゃん。お掃除してたんだって?」 「うん…だってお兄ちゃんがアヤの部屋汚いって…」 途端にしょんぼり、と俯いてしまうアヤに苦笑を漏らして、亘はよく分からないフォローを入れた。 「ミツルの部屋がきれいすぎるんだよ。アヤちゃんはアヤちゃんのしたいようにすればいいよ」 「ワタルくんも、そう思う?」 「思うよ。だってこの前ぬいぐるみ見せてもらったとき、全然汚くなかったよ?」 「ほんと!?」 「アヤはこれ、運んで」 「大丈夫?」 「だいじょうぶー!」 美鶴に手渡された、さっき亘が出したドーナツを抱え、アヤが楽しそうに居間に戻っていく。亘にお礼言えよ、と美鶴の声が追いかけていき、ありがとー!と楽しげな声が返ってきた。 アヤが混ざったことで、一気ににぎやかになる。本当にこれでは勉強どころではないのだけれど、亘は芦川家で三人で過ごす時間が嫌いではなかった。流石に美鶴はべつだけれど、アヤといるとまるで兄弟が増えたみたいで、いつも母親と二人で生活している亘は嬉しくなるのだった。 「後でお弁当もあるからね」 「…ワタルが作ったのか?」 「そうだよ!…って、半分だけだけど」 家族が少ないのは美鶴だって同じだ。でも、料理だけは美鶴よりも亘の方が上手いのだ。何か新しいおかずを覚えるたびに、美鶴が驚いたり感心したりしてくれるものだから、一日中芦川家に入り浸る日なんかはよくお弁当持参で遊びに行く。それも美鶴が本気で料理を始めたらどうなるかは分からないけれど、今のところ亘が美鶴に誇れるものの一つとなっている。 おにぎりたくさん作ったんだよ、などと言いながら、亘も継ぎ足されたグラスを手に居間に戻った。 甘いドーナツはアヤに大好評だった。小さな両手でドーナツを掴み、満面の笑みで頬張っている。ボロボロ零すことはないけれど砂糖が少しずつ落ちて、その度に美鶴がティッシュで拭いてあげている。お兄ちゃんだなぁ、なんて思いながら亘もドーナツを食べていたら、そっちに注意が行き過ぎたのか、アヤでなく亘がぼろっとドーナツの欠片を落っことしてしまった。 「うわ、ごめん!」 慌ててフローリングに落ちたドーナツを拾う。絨毯とかソファじゃなくてよかった、と思っていると、美鶴がどうした、とティッシュの箱を差し出してくれた。 「うん、なんかちょっとボーっとしてた」 「何でもないならいいけど。ああ、ゴミ箱こっちだから………ついてる」 「え?」 聞き返す暇もなく、美鶴がアヤにするのと同じように亘の口元を指先で拭う。美鶴のきれいな指先の感触が唇の上を滑って、亘は思わずフリーズしてしまった。予想していなかった事態に亘があのその、ええと、と口ごもっていると、自分が何をしたのか気づいたらしい美鶴も慌てて手のひらを引っ込める。 「…これは、癖で…つい…」 「ああうん、なんか僕恥ずかしいね、アヤちゃんだってきれいに食べられるのに!」 二人してわたわたしてしまったのは、もちろんアヤへの言い訳のためだ。けれど幸いと言うのだろうか、アヤはドーナツに夢中で兄と兄の友人の間に何が起こったのかは気づいていなかったらしい。もし気づいていたとしても、多分疑問にも思わなかっただろう。挙動不審になってしまうのは、お互いに疚しいものを心の中に持っているからだった。 美鶴は不自然にカルピスをがぶ飲みし、亘は亘で、美鶴に触れられた唇がじんと熱を持つのを感じていた。アヤがいるのに、何をやっているんだろう。でも不意の接触に思わず変な気分になってしまったのも事実だ。収まれー、収まれー、と心の中で唱えながら、亘は二個目のドーナツに手を伸ばした。指先についた砂糖のざらりとした感触が、やけに気になる。 どうやってごまかそう。アヤが何も分からないとしても、亘があんまり挙動不審になっていては変に思わないとも限らない。ちらりと美鶴を盗み見ると、そっちはもうなんでもないような顔をしていて、少し憎らしくなる。好きで仕方がない人と一緒にいるのは、時々大変だ。気を抜くと体中が好きだと伝えてしまいそうになる。 こんなふうに美鶴と一緒にいられることは、すごく嬉しいことなんだけれど、幸せな悩みだって、確かに悩みではあるのだ。 どんなに甘ったるくて、きらきら輝いていても。 20060809 [グループ][ナビ] [HPリング] [管理] |