愛し君へ
スザク、と呼ぶ声がする。
随分長く聞くことのなかった本当の自分。
この名で呼んでくれるのはもう誰もいないのに。
スザク、と再び耳朶に響くのは、快い少女の声だった。
今度は少し不服そうな。
それでいて悪戯めいた。
今は遠く、けれど確かに覚えている声。
「ユフィ?」
これもまた長く口に出さなかった名前だ。
けれど、スザクにとっては、とても大きな意味と価値を持つ言葉。
言うなれば、大事にし過ぎて滅多に開けない箱にしまわれた宝物のような。
ゆっくり振り向くと、予想に違わずまだ幼さを残したままの、記憶の中と少しも変わらない彼女がくすくすと笑っていた。
あの日と同じように、風を孕んだ長い髪がふわりと揺れていた。
「ずっと呼んでいたのよ、あなたのこと」
「俺を?」
「そうよ。なのにちっとも気付いてくれないんだから」
自分の名前を忘れてしまったわけではないのでしょう? と無邪気に問いかけるユーフェミアに、スザクは少しだけ困ったように笑う。
「うん、忘れてない。俺は、スザクだよ」
例え、もうその名を呼んでくれる人がいなくなったとしても。
『枢木スザク』というのは、確かに自分の名前で、確かに彼女はこの名で自分を呼んでいたのだ。
「よかった。また私はあなたのこと呼べるわね」
ユーフェミアが安心したかのように、柔らかな表情を見せる。
それが少しだけ眩しくて。
「ユフィ……」
スザクが何かを言いかけると同時に、足元から、にゃおん、と鳴く声がした。
「アーサー」
ああ、いなくなったと思ったらユフィのところにいたんだな、とスザクはようやくそれを受け入れることができた。
「アーサーもスザクに会いたかったんですって」
ね? と抱き上げるユーフェミアに、にゃあ、と応え、アーサーはその金の瞳をスザクに向けた。
「そうか。ユフィと居るなら寂しくないよな?」
にゃうー、という鳴き声は、たぶん「そうだ」ということなのだろう。
撫でようとしたスザクに、アーサーはもう牙を向けなかった。
生き物の体温がそのまま手のひらに伝わった。
「ね、スザク……」
ユーフェミアが何か言っている。
けれどもう声は聞こえなかった。
もうここに居てはいけない。
そう告げられた気がした。
「ユフィ……!」
必死に手を伸ばす。
こんなに何かを求めることなんて、もう無いと思っていたのに。
「ユフィ!」
せめてもう一度だけ、触れるだけでもいいから。
声の代わりにスザクに与えられたのは、泣きたくなる程のあたたかさだった。
それが頬に添えられたユーフェミアの手だとわかると、何も言えずにそれに触れることしかできなかった。
かつて握り締めた熱を失っていく手ではなくて、それは自分と同じだけの温度を持っていた。
そして、耳に寄せられた唇から零れたのは――
急速に覚醒に向かう脳とは反対に、目はなかなか開かなかった。
ただ目蓋を刺激する光が、朝の訪れを告げていた。
スザクは目蓋を左手で覆う。
何と甘美な夢か。
あるいは残酷な、だろうか。
現実の自分は、もう彼女と過ごした少年ではないというのに。
背は伸び、声も低くなった。
この手もまた、大きく、そして堅くなった。
それなのに夢の中の自分は、変わらぬ彼女と同じような少年だった。
まるであの日の続きのように。
そんなこと、あるはずもないのに。
やはり残酷だ。
それが夢でしかないのだと、突きつけられたのだから。
ただ、残された頬の温かさに、泣いた。
たとえ、それが幻だとしても。
「ユフィ」
もう一度彼女の名を呼ぶ。
起き出したばかりの体から発せられた声は少し掠れていた。
(また、会えるわ)
最後に囁かれた言葉が耳に残っている。
そう聞こえたのは、脳が知覚しただけの、いたずらに過ぎないというのに。
それでも。
「そうだね。……また、会えるよ」
応えずにはいられなかった。
スザクはようやく目を見開く。
思ったとおり、今朝はいい天気だ。
鳥の鳴き声もどこか賑やかだった。
彼は、今日も仮面を手に取る。
すっかり手に馴染んでしまったそれ。
そうして『ゼロ』の一日は始まった。
090105 陸
「猫と英雄」の続き。
実はとっても好きなんだぜ、というスザユフィ。すっかり大人になってしまった彼の話。
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