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晒し中







「別に俺は、アンタの一番じゃなくてもいいぜ」
 妙にはっきりした、通る声だった。
 暗がりの中、窓外のネオンに照らされて真っ黒い瞳が光る。馬鹿馬鹿しい、とどうにかあしらおうとして、その馬鹿馬鹿しい事を言わせているのは自分だと気付いた。いつから九澄がこんな目をするようになったのか、柊にはわからない。
 狭い車内で、デジタル時計が小さく音を上げる。10時半。ドアの一枚向こうは閑静な住宅街だ。
 掴まれたシャツの指先を外す事も出来ず、その指を取ることも出来ず、柊はただ九澄の挑戦的な瞳を見つめた。


 始まりがいつだったのか、それは柊にも、九澄にもよくわからない。
 甘い、あまりに青い好意に柊は気付いていたし、それを受けて自分の中に沈殿する濁った感情の存在も自覚していた。
 九澄も同じように感じていたらしい。一度、九澄の方から確認された事がある。その時柊はなるべく冷静に淡々と事実だけを、つまり柊と九澄の感情はよく似た、しかし決定的に違うものだということを九澄に説いてみせた。だが九澄は「そうだよなー」と気のない返事を返しただけで、特に気にもせず受け入れてしまった。
 それはいかにも子供らしい、盲目的な感情故だ。愛恋以外の事を際限なく考えてしまう大人にはない純粋さ故だ。こと恋愛において、恐らく九澄はまだ手酷い傷を受けたことがないのだろう。
 傷付く事を恐れないと言えば聞こえはいいが、九澄のそれは無知から来るものである。そこまで考えていながら、柊は九澄を拒めなかった。九澄も。
 かくして、コップに注ぎ続けられるぬるま湯を遮るものはすべて消え去った。日常は二人の間をたらたらと流れ続け、コップは満ち満ちて、やがて当然のように決壊した。
 一体何がきっかけだったのか、今となってはその要因があまりに多すぎて特定は不可能に思える。ただ最後の一滴を注いだのが九澄だとしたら、それを許したのは柊である。間違いなく。
 そうして責任も後悔も平等に二人にのし掛かり、互いを苛んだ。だが代え難い充実を得られるのも確かな事実で、それがまた新たな背徳感を産む。
 重りは日々増え、手足の自由を確実に奪い、やがて沈むしかなくなる事が明白になりはじめた頃。
 先に切り出したのは柊だった。


 九澄の体は、唇も耳も足も、指さえもが未完成だ。
 柊の手のひらに包まれると、大きく見える九澄の手は本来の形を取り戻す。未だほのかに柔らかさを残すそれらは、本来庇護されるべき対象だ。決して醜い欲を受け入れる為の物ではない。
 流れる光の筋を眺めながら、柊は何度も考える。九澄には将来があって、柊には家族がいる。それらは誰にも奪う事など許されない物だ。大切な物だ。優先すべき物だ。それを、九澄は知らない。柊にはそれを教えてやる義務がある。人間として、この関係に不純を持ち込んだ大人として。
 車に乗っている間、九澄はずっとサイドミラーを見つめている。
 熱に浮かされた後の、静かで冷たい何かが詰まってしまったような空気を、二人は決して壊そうとしない。あるいはこの不快感こそが、自分達の行為を許すものだと信じているからかもしれない。それも今日で終わりだ。
「九澄」
 呼ばれた九澄が、窓際からシートへ体重を移す。柊はただフロントガラスを見据えて、唇を開いた。
「もう俺に近付くな。この関係を続けても無意味だということはお前にもわかるだろう」
 黄色から赤へ変わろうとする信号に、柊がブレーキを踏む。
 車体が完全に止まる頃、九澄はあっさりと「そうだな」と答えた。


 一方通行の多い住宅街を車は進む。いつもと同じ広めの車道で車は停止した。角を曲がればすぐそこが九澄家だ。
 本来なら玄関前まで送る所なのだが、生憎この車道からは進入禁止となっている。回り道をしようとしたら九澄が無駄な手間だと拒んだので、以来この角で二人は別れることになった。
 九澄が車を出て、角を曲がり、門をくぐるのをバックミラーで確認してから自宅へ向かう。そんな習慣がいつしかついていた事に柊は笑った。隣では九澄がシートベルトを解除している。後部座席に放り出した鞄を持たせてやるのも最後だ。

「柊父」

 鞄を抱えて九澄を向くと、胸倉を掴まれた。それから強く引かれて口付けられる。何が起こったのか、理解し難かった。
 呆然としている間に口内に九澄の舌が進入し、好き勝手に荒らしてゆく。我に返った柊が引き剥がそうと試みても、九澄はびくともしなかった。普段なら簡単に離れる体の一体どこにこんな力があったというのか。
 その合間も九澄は歯列をなぞり、舌を合わせて、甘い吐息を零す。
 サヨナラのキスと言うにはあまりに激しい、性的な口付けだった。
 唇を解放すると、九澄はもう一度、音を立てて触れ合わせるだけのキスをした。そして深く眉間に皺を寄せる柊が何か言うより早く、口を開く。
「別に俺は、アンタの一番じゃなくてもいいぜ」
 妙にハッキリと響くその言葉に、柊は驚きを隠せない。通りの向こう側、繁華街の灯りが九澄の濡れ羽のような瞳を照らす。挑戦的な瞳が、柊を見抜いている。九澄は言った。
「アンタが一番大切なのが俺じゃなくても、いいって。そのかわり俺も、一番はアンタじゃない。俺が一番好きなのは、柊愛花、アンタの娘だ」
「なに……」
 唐突に出てきた娘の名前に、柊は目を細めた。空気を走る緊迫感をものともせず、九澄は続ける。
「でも俺は、アンタも好きだよ。どうしようもなく好きだ。だから、一番じゃなくてもいい。今までと同じでいいよ。お互い一番大事な物を大切にして、この関係を続ければいい」
 無理だ、とどこかで声がする。
 さも当たり前の事のように口にする九澄を眺めながら、柊は何度も九澄を否定しようとした。けれど出来ない。九澄の言うことは、まるでなんの問題もないように見える。けれど何かが違うのだ。では何が違うのか。柊にはわからない。頭の奥がグラグラと揺れている。
 柊のシャツを握って、酷く真面目に、九澄は柊を見つめている。
「俺は、アンタが好きだよ。アンタだってもう、俺がいなきゃ、駄目なんだろ」
 まっすぐに、九澄は躊躇いもせずに、呟く。
 確かにそうだ。もう柊は、九澄を忘れたり出来ないだろう。すべてなかった事になど、できるはずもない。
 だが違う。それは違う、九澄。
 肯定も否定もしない柊をしばらく見つめてから、九澄は柊の膝の上を占領していた鞄を掴む。短く「じゃあ」と告げて、九澄は車を出た。九澄の指や声が僅かに震えていたのに柊はようやく気付いて、慌てて車を出る。「九澄!」
 呼び止めても九澄は振り返らなかった。角を曲がり、あっという間に九澄家の玄関まで走り、門をくぐる。追いつく筈もなく、柊は初めて、車外からその光景を見た。
 ただいま、と、遠くで声が聞こえる。デジタル時計はもうすぐ11時の知らせを告げようとしていた。



END.




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