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 教室を出て部室へ到着する道程で、
冷えきった空気に体温を幾何か奪われた古泉一樹が扉を軽く叩く。
応答は有らず、しかし、この薄い板一枚を隔てた向こうが無人だとは彼は思わなかった。
ドアノブを捻り、扉を開く。
「こんにちは。他の皆さんはまだいらして無い様ですね」
そこに手を掛けたまま、彼はそう言った。
唯一彼より先にこちらに来ていた長門有希は、窓際に置かれた常時の指定席に座り、
書物の世界に身を投じ、無言のままに頁を捲る。
元より彼女に答え等当てにしていなかった彼は適当な机に鞄を置き、
棚からボードゲーム一式を引き抜いた。
これまた適当なパイプ椅子を引き出し、何時でもゲームが始められる様に下準備をする。
珍しい。自分が二番乗りとは。
他の団員三名は何に足を止めているのだろうか、
と頭の隅で考えながら、彼は暇な時間を潰すべく一人ゲームを開始した。
同じ仕切られた部屋には自分以外に人がいると言うのに、
盤を挟んだ向こう側、そこに座る事が可能な存在が有ると言うのに、
誘いの言葉すら掛けず、彼は駒を進める。
彼女もまた、駒が置かれる音を気にも留めず、ここでは無い別の世界に想いを寄せる。
隔て離し、言葉も視線も交える事無く、二人きりの場で独りきりの時間を過ごす。
傍から見れば気まずい関係かと思われそうだが、これが彼等彼女等の常であった。
気まずくは無いが、ぎすぎすと言う表現に及ぶには十分だ。
お互いの領域に踏み込まず、興味さえも持たず、
時が進むと共に、物語もゲームも進展を見せる。
彼女の冒険がいよいよ舞台の大詰めに差し掛かった時、
誰の陰謀も介していない、全くの偶然の出来事が起こった。
彼が手を滑らせ、中に駒が入った箱を卓上から落としたのだ。
あ、と思わず口からそう零し、彼は駒が床に叩き付けられるのを目で追う。
台形に三角形を繋ぎ合わせた姿の手駒達の一つが、
床を跳ねて彼女の足元にまで転がった。
彼は椅子から立ち上がり、屈んで駒を拾い始めた。
両手で掻き集めたりはせずに、一つ一つ、丁寧に摘んで手の平に押し込む。
ぱたり、と分厚い割には軽い音を立てて書物は閉じられた。
物語の世界に取り付かれていた彼女が自ら響かせた音に、
彼は些か驚きが滲んだ顔を床から上げた。
彼女は彼の行動をなぞり、視界に飛び込んで来た足元の駒を指先で摘み、手に握る。
そして、彼の真上に握り拳を突き出し、彼を見下ろす様に立つ。
「……」
膝を折る手間も惜しいのか、立ったまま彼女は握った手を開いた。
両の手の平を上にして、彼は彼女の手の中から落とされた物を受け止める。
かちゃ、とプラスチックの山が、新たな駒がぶつかった際に音を立てた。
「ありがとうございます」
こくりと頷き、彼女は背を向けて椅子へと向かう。中断された物語が待つ窓辺へと。
その背中に、彼は声を投げた。
「一局、お相手をお願いできますか」
書物を見据えつつも、彼女の歩みは揺るやかになった。
彼と彼女が対局をした場合、勝敗は初手を見ずとも明らか。
自分が負けると見え透かされた勝負への誘いだなんて、
彼の気紛れ以外に何の意味も持たない。
その気紛れで今、彼は、彼女の領域に爪先を浸していた。

果して彼女は振り返るのか否か。
常、に対してほんのささやかな反抗心を抱いた、この彼を。


終わり。


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