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コカ・コーラとの戦況は、日を追うごとに苦しくなる一方だった。
相手方を赤とするならば、私たちペプシ・コーラは青だ。そんな二極化の構図の中で、世界は回転を続けている。私たちは生きている。

始まりはいつで広がりはどこからだったか、なんて問いかけるのはもうナンセンスとさえ言われている。誰も思い出せないし、誰も辿り着けない。というか、今さら根元まで辿り着いたところで、そんなのはもう意味なんてないのだ。草の根を辿って行き着いた先が白い細い糸だったとして、今さら芽が出る前には戻れない。そういうこと。

私は大学の講義を抜け出して街に降りる。都市郊外山の上にあるキャンパスを去って公共交通機関を乗り継ぎ、幹線道路にようやく足を着けた時、いつかどこかで見た大きな液晶画面のことを思い出した。番組内で談笑するコメンテーターと有識者。軽く笑いながら交わされる会話が、いつの瞬間か妙な具合に混ざって、不協和音になった。固まった大人の男性、二人の顔。
思うにあれが、私が戦争をこの目で認識した瞬間だった。あれが一切の始まりだったのだ。

話題はそう、コーラの話。
ただの清涼飲料水の話が、どうしてこんなことに。

確かそもそもの話は広大なアメリカ大陸を襲ったハリケーンの被害についての話だった。
何の具合か、視聴者も、そしておそらくは話をしている本人たちさえもあずかり知らぬところに置いてけぼりにして、その言葉は持ち出されて、じわりと、けれどあっという間に広がっていった。まるで洋服についた不吉な染みみたいに。

コメンテーターか、有識者か、どちらかが言った。

「いやあ、これについては言及をまず避けますが、それはともかくとして、やっぱりコーラはコカですよね。あの赤いコーラ。あれこそが実に本物のコーラだ」

 それを聞いて急に顔に雨雲を浮かべたのはコメンテーターか、有識者か、やはりどちらかだった。

「いやいや、冗談言っちゃあ困りますよ。コーラはペプシ、神代の昔からそう決まっているのです。ご存じないのですか?」

その後スタジオを包んだ奇妙な一瞬の沈黙を、きっと私は今後の人生死ぬまで忘れないだろう。
嵐の前の静けさ、言葉でこそよく目にするが、それを目の前で体験したのはまったくもって初めてだった。

どちらかが「おい、もっぺん言ってみろ」と言い、どちらかが「なんだとてめえ」と言う。
急に椅子から立ち上がる二人、周りのほうから「やめろ」「とめろ」とマイクに入らない声がする。

黒とブルーグレーのスーツが向かい合う瞬間「回線を切れ!」の叫びを合図に、画面はぱっと砂嵐に変わった。
放送休止の画面が定時以外に現れたのを見たのは、あれが初めてだった。
おそらく今後もないだろう。



次の日のテレビ新聞各種メディアはどこからかの圧力か、こぞって件の放送事故には無視を決め込んでいたが、インターネット時代のこのご時世、この完全なるドキュメンタリーを匿名の暇人たちは放っておいてくれなかった。

瞬く間の動画の拡散に始まり、匿名での批判、中傷、反論、討論が繰り広げられた。恐るべきことに、当事者の有識者とコメンテーターに宛てつけたものはほぼ無く、そのほとんどが、二つのコーラに言及するものだった。
広いようで小さな世界に火の粉を容赦なく振りまかれ、あちこちに飛び火して、その影響を広げていった。大炎上だった。

このようにして小さな世界は広い世界を徐々に乗っ取っていったのだ。


私の通う大学も乗っ取られたもののひとつだった。というか、乗っ取られるべくしてそうなったのかもしれない。
二十歳を超えるか超えないか、越えてから少し経つか、そのくらいの浮足立った、というか半分浮いているような人々に益体のない論争は最適な自己表現手段だった。

それはひそひそ話から始まった。
講義のあいだ、ゼミのあいだ、誰かの部屋で毎晩開かれる飲み会のあいだで「そういえばさあ」なんて出だしから始まる、一瞬の緊張をはらんだ攻撃。まるでキャッチボールでもするみたいにふわりと放り投げられる、ピンの抜かれた手榴弾。

「コーラ、赤と青の、どっちのほうが好き?」

ささやきはある日ざわめきに変わり、いつしか罵声と怒号に変わった。自分とは違うもの、自分たち(と思っているもの)とは違うものを糾弾/排除する大きなうねり。

例え、それがコーラの銘柄どちらを選ぶかということだったとしても。だって、みんな暇なのだから。



今日も一応大学には足を運んでみたけれど、講義開始五分前、講義大ホールのドアを開けた瞬間私の足元に紙ヒコーキが落ちた。
ルーズリーフを折って作ったものだった。
それで全ての状況を悟った。
紙飛行機は右の翼に、赤いサインペンで「青派鎮圧」と書かれている。国学の××教授は時間に大変厳しくて、開講五分前にはプリントを配っているタイプの教授だった。
おそらく彼は、もうここにはいない。

ごめんごめんなんてホール内どこからか投げかけられる誠意のない謝罪を聞き流して、私はドアの前でくるりと振り返った。
そして、今来たばかりの大学を即刻後にした。
廊下から玄関に辿りつくまで、誰とも会わなかった。


灰色の雲が流れる街は薄暗い。
そういえばしばらく青い空を見ていない気がする。いつから曇っていたのだろう。

無意識のうちに薄いコートのポケットから携帯端末を取り出そうとしていたのを、慌てて止める。昨日の天気を調べて、何の役に立つんだ。
調べるならせめて明日の天気だろうと思ったが、本当は自分はそんなことに一切関心が無いのだということに気がついて、やめた。

ポケットから手を取り出して、所在もなく空気に遊ばせる。湿った空気が指先に触れる。

街はまるで普段と変わらないように見える。よくある雨の日の午後の風景だ。まだ夜には早い時間ではあるけれど、薄い暗さに車はライトを煌々と光らせて通り過ぎる。信号機の赤いLEDが、獣の目のように辺りを睨みつけていた。


人通りはさほど多くないけれど、天候から考えれば妥当な量であるといえる。
けれど以前とは何かが違う。

大通りの交差点にそびえるタワービル、巨大な液晶ビジョンは白い子犬が走り回る風景だとか、珊瑚礁と熱帯魚だとか、何の益体もない映像を流し続けているけれど、それでさえ、たまに「しばらくお待ちください」の字幕とともにへたくそなCGイラストの画像に変わる。
それがさらに切り替わったあとには、先ほどとは違う映像が流されている。
きっとどこかが「不適切」だったのだろう。
一体どこの視聴者に対するアピールなのだろうか。不適切と適切の境目さえ、私にはわからなかった。
他の人たち、例えば今この街を歩いている人たちはわかるのだろうか。
少なくとも、字幕を流した本人、液晶ビジョンの向こう側にいる人には、わかっているのだろう。適切さに関する何かしらの基準が。

交差点で歩行者用信号が切り替わるのを待ちながら、私は街を眺める。
街はまるで何でもないという風に、全く私には何も関係ないんですよというような澄ました顔をしながら、いつも通りの午後を過ごしているように見える。
そこには建物があり、自然が少しあり、人々がいて、生活の風景がある。確実に何かが変化しているということなんて、街はそんなのしらんぷりだ。なかなか信号が変わらない。


少し喉が渇いた気がして、私はバッグからペットボトルを取ろうとした。なかに飲み物を入れて来ているのだ。目の前を大型の運送トラックが通り過ぎる。荷台には「赤色反対〜守ろう青色、守ろう私たちの嗜好〜××運送労働組合」とデザインされたステッカーが貼ってあった。
車が行ってしまったあとで、向こう側の横断歩道に小学生の女の子の姿を見つけた。彼女は、信号が変わるのを辛抱強く待っていた。

私の心臓が、まるで射ぬかれたみたいに跳ね上がる。
赤色が見える。

私は慌ててバッグから手を引き抜いた。そして何事もなかったかのようにバッグのチャックをしっかりと閉めて、遠いところを見つめた。

私のバッグの中には何もない。ペプシコーラのペットボトルなんて入っていない。そういうふりをするのだ。
だから赤色なんて、今の私には何の関係もない。
罵声を浴びせられることも、浴びせることも、一切関係はないのだ。

私は強く目をつむった。
仲が良いと思っていた友人との会話、彼女のことを考える。彼女は赤いコカ・コーラ派だった。

私が何かの加減でたまたま、つい自分はペプシ派なのだとうっかり零してしまった時の、彼女の表情。
口元のゆがみ。
綺麗な瞳の裏側に燃えた、暗い炎のこと。

零してしまったのは、私の不注意でしかない。無意識のうちに甘えていたのかもしれない。
彼女とは入学式にちょっとしたことで声をかけあって以来、ずっと仲良くしていた。一緒に講義を受けたり、お互いの家に遊びに行ったり。
だからいつの間にか彼女は自分と同じ考えの人間であるという希望的観測を持ってしまっていたのだ。まったく同じでなかったにしても、ほとんど同じ、というくらいには。

彼女の白いブランドバッグからほんの少しはみ出たペットボトルの赤い蓋、つるりとしただかざらりとしただか、その奇妙な視覚的情報が今も目の裏側から離れない。

でもそれが起こったのはいつのことだろう、どうしても思い出せない。

白い縞々、横断歩道の向こう側で女の子が風景のなかに何かを見つけて、体を揺らす。背負っているランドセルが見えた。色は赤だ。カラフルな時代に今時珍しい、つるりとした赤いランドセル。
さっきの動悸の原因はこれだったのか。
私は首を振る。駄目だ。神経が過敏になり過ぎている。

歩行者用の信号が変わって、バリアフリーのための鳥のさえずりが流れる。私は向こう側に向かって歩き出す。中ほどまで進んだとき、小学生の女の子とすれ違った。赤いランドセルに、雨の滴がぽろぽろと乗っている。

「それ」

声を掛けられて、私は横断歩道の真ん中で立ち止った。

「いけないんだ」

女の子が細い指でこちらをさす。その先は、私の鞄を指していた。

しっかり閉じたはずのチャックが端の数センチだけ開いている。きっと引っ張る途中でひっかかたのだ。
そこからペプシの青い蓋が見えている。

私が何か言う前に、彼女はこれまで私がいたところに向かって走り去っていった。彼女のランドセルにはキーホルダーがついていて、それが走り際にじゃらじゃらと音を立てた。

いくつかぶら下げられた中のひとつ、白いうさぎのキャラクターが握っているのは、にんじんではなくて、コカ・コーラの小さな赤いボトルだった。


信号のLEDが点滅して、警告ブザーが鳴り出す。
私は向こう側を目指して、走り出した。
渡り切った先、どこへいくあても本当は特になかった。
だから私は商店街を目指した。なるべく人の多いところがよかった。
往来の中で、人々が見ている中で、ペプシが飲みたい。
誰からかどれだけの罵声を浴びようと、冷えた視線をなげかけられようと、見て見ぬふりをされたとしても、私はそれを成し遂げたい。

だって私はペプシが好きなのだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
というか、ただそれだけのことなのだ。
誰かが何かを好きだったところで、誰かが何かを信じたところで、ほかの誰かにはそれは全く関係ない。
きっと、本来そうであるべきなのだ。多分。

私がわざわざペットボトルでペプシを持ち歩いているのも、そんな理由からだった。
ほかのペプシ派がやっているように、例えばサーモマグやタンブラーに入れて持ち歩けば、非難にさらされる心配はない。誰もそこまでは執拗にチェックなんてしない。
それに確かめたところで、これはコカ・コーラだ、これはペプシだと正確に判断できる人間が、この世にどれだけの数いるだろう。ラベルを取っ払ってしまえばただの黒い炭酸になる、それだけの、たったそれだけの液体であるはずだったのに。

タンブラーやサーモマグで飲むペプシは味がしない。それはただの匿名の黒い炭酸でしかない。
私はその匿名性を憎む。
匿名にせざるを得なかった状況を憎む。
それとも、私のこういった考えは、どこかが間違っているのだろうか。


商店街、アーケードの入り口は見事なほどにきれいにふさがっていた。
非常時しか降ろされない巨大なシャッターが降り、道路工事に使うオレンジの柵と朱色の三角コーンがその前を彩っている。つまり今は非常時なのだろう。食料と飲料を扱う小さな商店か、喫茶店か、おそらくそのあたりが、赤か青かどちらかの派閥の暴徒に襲われたのだろう。

営業をしていない商店街には誰も用はないようで、以前の賑わいが嘘のようにただ小雨に濡れている。
あたりに人は全くいない。
私は、用があったのに。
例え店の冷蔵庫にある瓶や、喫茶店の洒落たグラスに注がれるのがどんなコーラであったとしても、私がこの商店街を嫌いになることなんてなかったのに。

背中を預けた錆びたオレンジの柵からは、むせるような鉄のにおいが立ち上っている。あたり一帯は、なんだか見捨てられた犬みたいにさびしく見えた。


小雨の降るさらさらという音が聞こえる。今まで聞こえなかったそれが耳に届くようになったのは、他に何も音を出すものがないからだ。まだニュースにもなっていない商店街の破壊活動(それともニュースにしないように誰かが留めているのかもしれない)を見るたび、ひどく陰鬱な気持ちになった。私は今きっと苦虫を噛み潰したような顔をしていると思う。鏡がないから、確かめるすべはないけれど。水にインクを零したときのように静かに、しかし確実に広がっていく憂鬱さの正体はなんだろう。

足元にあったコンクリート片を商店街のほうに軽く蹴る。ひびが入り、半ば砕けたアスファルトの隙間から、緑の草がぼそぼそと所在なさげに生えている。
コンクリートの風化具合からいって、このくだらない戦争が始まる前から壊れていたのだろう。

スニーカーの裏で細かい欠片をじゃりじゃりところがしながら、はっと答えに気が付く。

私は破壊された日常が嫌なのではなく、日常を破壊しようとするなにかが嫌なのだ。
根源の、目に見えない大きなうねり。
認識はされるが、知覚はされない透明な悪意。

それはまるで、アメリカ大陸を蹂躙していったハリケーンのようだ。
テレビのコメンテーターと有識者は、今ではそのことに気が付いているだろうか?
それは例えばたまたまコーラだっただけで、本当は――

そこまで考えて、私はいつの間にか手をバッグに突っ込んでいた。
ペットボトルをほとんど無理やりみたいにして取り出して、急いでプラスチックのキャップをひねる。ぱきりぱきりと部品が壊れる音。
あともう少し。


開けて、くちびるをつけようとしたその時だった。

勢いよく飛んできた何かが、ペットボトルのに真横から当たってボトルを弾き飛ばした。
私の手を離れたペットボトルは地上の法則に従って、地面へと落下していく。それは不思議にスローモーションで見えた。けれど、それを止めたいはずの体は一切動かない。

砕けるコンクリートの上、落ちたペットボトルは奇妙な音を立てる。横向きにころりと転がって初めて、丸い口元から大量の泡と黒い炭酸を吐き出した。ひび割れた大地にペプシのコーラが沁み渡っていく。

私はとっさに辺りを見回した。
商店街のシャッターの影、少しだけ歪んで開いた暗がりで何かが素早く動いたのが見えた。それから、ボトルが転がった先を見る。ビー玉くらいの大きさの白い弾が、草の陰に隠れて転がっていた。
野蛮な犯行だった。私は鋭く舌打ちをする。今が非常時でも通常時でも、他人に対して武器を向けるなんて、どう考えても警察沙汰だ。

私は一瞬本当に警察を訪ねようかと思って足を踏み出したが、口の中で歯を軋ませ、結局もう一度舌打ちをした。悪意を悪意で返してなんていられない。そんなことをしたら、やつらの思うつぼだ。

私は講義ホールの前でそうしたみたいにまたくるりと振り返って、今来た道を戻ることにした。
踏み出した足で、飛び散ったペプシの泡を踏み消した。今日のぶんのペプシはなくなってしまった。それでも私の喉は、まだペプシを求めている。家にはまだ箱で在庫があるが、家に帰るまでには、まだ距離と時間がありすぎる。

私は小雨の降るなか道路を辿って、再び大通りへと戻ってきた。先ほどよりも、通る車や、行き交う人々の数は減っていた。
女の子とすれ違った横断歩道を通り過ぎて、ビルの隙間をいくつか抜けて裏道に出る。今の状況を差し引いても、十分にうらぶれた小路だった。

自動販売機のネオンが、雨に濡れた道端で寒々しく光っている。あたたかいのとつめたいのが半々に並ぶウィンドウの中は、コーラ以外の飲み物で埋め尽くされていた。

飲料会社は一連の騒動が自社の評価に及ぶのを避けて、断固沈黙の姿勢を取っている。
だから販売機のラインナップから、コーラはどんな種類のものも撤収された。販売促進に流れる人懐っこい機械のアナウンスは、きっとそのうち尋ねれば「え、コーラ?そんなもの、ありましたかなあ?」なんて応答するようになるのかもしれない。

形骸化した自販機の列を通り過ぎ、もう人の集まらない居酒屋を横目に、私はひとつの建物に辿りついた。
「××シネマ」と書かれた小さな看板は、壊れた電光掲示板の裏にひっそりと隠れるようにして掲げられていた。

掲示板の映画ポスターはどれも赤か青のペンキで不器用に塗りつぶされていて、いったい何を上映しているものだかわからない。
けれど古いドアのノブに「上映中」の板がかけてあるので、きっと中では何かしら上映してはいるのだろう。私は重たいドアをそっと押して、固められた暗闇の中に身体を滑り込ませた。

やっている映画は何だっていい。この映画館では、ドリンクのコーラにペプシを出すのだ。


中に入ると待合室には誰もおらず、古い蛍光灯が羽虫が飛ぶような音を立ててぼんやりと点いていた。その光はあまりにもぼんやりすぎて、白と言うよりほとんど緑色に室内を照らしていた。一部が丸と四角にくりぬかれたガラスの板の向こうで、カウンターに座った女性が、蛍光灯に負けないくらいぼんやりとした目でチケットの数を数えている。

「あの、大人一枚」

と声をかけると、彼女は口の中で何かをもごもごと呟いた後、手に持っていたチケットの中から一枚を切り離して、私に差し出してくれた。
結局何を言っているのかは聞き取れなかったので、チケットに印刷されている価格を見て、定額の料金を支払った。
「ドリンクも」と付け足すと、錆びの浮いた事務机の引き出しを引いて、大きな紙コップを手渡してくれた。映画のお釣りから料金を払って、私は上映室に向かう。

入り口付近で足を止め、大きなドリンクサーバーを確認する。三つ並ぶうち、中身はどれが何とも書いてはいないが、私は一番右端のサーバーを選んで、コックを引いた。
こういうのはだいたいのカンでわかるのだ。
予想通り、甘い黒い炭酸が、紙コップの中を満たしていく。コップに描かれた企業広告は、ペプシコーラだった。


中に入ると、予想しなかったことに先客がいた。ひとりだけ、座席の真ん中を独占してスクリーンの文字の羅列を眺めている。そこで私は気がついた。

文字の羅列?

よく見ると、映画はたった今終わりを迎えたばかりであるらしかった。画面に流れる文字列はエンドロールだ。
さらに言えば、流れてきたテーマ曲には聞き覚えがあった。上映されていたのは、私の好きな映画だった。古い映画だが、リバイバル上映をしているらしい。何度も繰り返して見ていたので、筋も結末も手に取るように覚えている。

私はふうと溜め息を吐いた。まあいいや、よければこのまま座って待って次の回の上映を見れば良いわけだし、繰り返し見て筋を知っているとはいえ好きな映画であることに変わりはない。好きな映画は何度見ても良いものだ。それに重要なのは、映画というよりペプシである。料金だってペプシ代だと思えば、さほど問題にはならない。

私は座席の真ん中まで歩いていって、先客の斜め後ろに席を取った。私のごそごそという動きに対して、先客はちらりと興味深げな視線を向けてきた。そのまま無視するのも気がひけたので、軽く会釈を返して席に腰を落ち着けた。

先客は若い男性だった。私と同じくらいか、少し上くらいかだろう。
青っぽいライトに照らされた肌の色は白くて、それはほんとうに彼が色白なのか、それとも光に照らされて白いのか、判断がつかなかった。
手には大きな紙コップを持っている。柄は勿論ペプシ。もしかしたら、仲間かもしれなかった。
私は少し嬉しくなって、スクリーンに目を向ける。
カントリーミュージックをバックに、青い空の下、男性が自転車に乗って乾いた土の道を走っている。その上を、白い文字列がゆっくりと流れていく。
カメラのレンズは男性を真上から追っていく。

ペプシを少し口に含んだ。泡は舌の上で踊った後、すぐに消えていく。

白い文字を目で追っていると、男性が振り向いて私と目を合わせた。

「こんにちは」

言葉を返さない理由はない。

「こんにちは」
「君も派閥から逃げてきたの?」
「いいえ。特にそういうわけでは……ちょっとペプシが飲みたくって。あなたは?」
「僕は映画の研究。ゼミの課題なんだ」

彼の大学では、こんなご時世でも関わらずしっかりとカリキュラムが進行しているらしかった。大学から逃げてきた私は、それをちょっとだけうらやましく思う。
きっと何事もない平常時なら、そんなこと思いもしなかっただろう。

「でもなんでわざわざこんな人気のない映画館に。もしかして古典映画が専門なのですか」

私が聞くと、男性は苦笑して、少し困ったみたいに言った。

「いや、そういうわけじゃないんだけど……俺のほうのあたりじゃあ映画館なんてどこもやってなくってさ。過激派に破壊されて、閉鎖されたんだ。まったく、ただ館内で出してるドリンクの種類が何だってだけの話なのにさ、みんな目の色を変えて右往左往している。みっともないよな、こんなの」
「私もそう思う」

自然と私は彼の言葉に頷いていた。私がこの戦争についてだれかと何かしらの意見を交わすのは、勃発以来、かつての親友と言葉を交わして以来初めてのことだった。
私の感覚が間違っていなければ、私はなんとなく彼と打ち解けた気がした。硬い氷が、静かに溶けて丸みを帯びていく感覚。こんな気持ちになったのは、本当に久しぶりだ

カメラはまだ自転車に乗る男の姿を追っている。なだらかな地面と太陽に揺れる木々の影が動くのを別にすれば、画面には何の変化もない。その要素が無かったら、ずっと同じシーンを見せられているように思えただろう。

「これ、最後まで見てくんですか」
「うん。どうして?」
「いや、良い映画だから」

彼は私の顔を面白そうに見返す。

「ということは君は、この映画を見たことがあるんだね?」
「何回か。好きな映画なんです」
「そっか」

ひとつ頷いてすぐに、彼は続けて言う。

「君はクレジットは全て見る派?」

私は少し考えて答えた。

「ものに寄りますね。本編のラストシーンにちょっと余韻があったら、粘ってみます。もう十分かな、という時は文字が流れ出したらすぐ席を立つこともあります。基本堪え性がないんです」
「なるほどね」

彼は瞳を閉じてゆっくりと頷いた。あまりにも自然な仕草だったので一瞬眠ってしまったのではとさえ思ったが、それからすぐに目を開けて、光の明度を測るように何度か瞬きをした。

「俺は最後まで見る派。クレジットの後に、ほんの少しだけオマケみたいな映像が流れることがあるでしょ。あれを見逃すのが嫌なんだ」

なるほどな、と先ほどの彼のように、私も心の中で相槌を打つ。世の中にはいろいろなタイプの人間がいる。むしろ、タイプという言葉で表す事さえ本当はつまらないことなのかもしれない。

そう考えると、私は急に、無意識のうちに彼と私をなにがしかの型に仕分けて蓋をしようとした自分が嫌になった。

私はスクリーンを見る。映画はエンディングを流し続けていた。
紙コップにくちびるを付ける。今度はもちろん、どこからもプラスチック弾丸なんて飛んでこなかった。舌先を痛めつけるコーラは甘い。

「映画の研究って、具体的にどんなことをするのですか?」

と私は彼に尋ねてみた。

「視覚研究とかいろいろあるけどね、僕の場合は脚本なんだ。ものがたり。さらに言えば、ものがたりを形作っているはずの何か。映画を見て内容を整理して、傾向を推し量って、サンプルとしてファイルに留める。ある程度の数を集めた後、制作された国の当時の歴史や情勢と照らし合わせたりして、人々の心の傾向や群衆の心理を探るんだ」
「なんだか壮大な研究みたいですね」

私も映画は好きで結構見る方だけれど、今までに思いもしなかったアプローチだ。
私が感心してそう言うと、彼は「それほどでもないよ」と苦笑する。顔は暗がりでよく見えなかったが、声の感じで苦笑しているのだということが分かった。

「本当は脚本家になりたいんだ。だからその練習みたいなものだと思ってる。何の役に立つかはわからないけど、まあ一切役に立たないってこともまずないだろうから」
「脚本を書いているんですか」
「まだ、少しだけね」

そう言って、彼は言葉を切った。手にした紙コップを口元に運ぶ。一口飲んで、手の甲でくちびるを拭った。
スクリーンはなおも単調なサイクリングを映し続けている。木の派の影が揺れている。
彼が言った。

「実は去年、脚本を二つ書いたんだ。誰に頼まれたわけじゃない。コンクールに出すわけでもなかった。ただどうしても書かなければと思って書いたんだ」
「無事に完成はしましたか?」

私は聞いてみた。彼は何度目か、暗がりでカップに口をつける。映画のテーマソングに被せて、森に住んでいる小鳥たちの声が聞こえた。画面が単調なぶん、SEで飽きさせないようにしているのだ。

「完成したよ、二本ともね。でもそれが最後だった。それから何も書けなくなった」

彼の口元が柔らかく弧を描いているのが、かすかな光の加減でわかった。
私は「どうして?」と聞けずにいる。
手に力を込めると、不規則に歪んだ紙コップから雫が伝って指先を濡らした。

スクリーンが一瞬切り替わる。青空の下、海沿いの道路を駆け抜けていく青年と自転車。そしてまた乾いた土の上のサイクリングに戻る。まだエンディングは終わらない。

「どうしても書き切らなきゃならないと思うものを書きあげたらね、そのあとがどうにもうまくいかなくなった。力が抜けたんだね、きっと。
でも書くことを辞めるつもりはない。こう言うのはちょっと恥ずかしいけど、まだ俺は若いから時間だけはたっぷりある。それに別に書くことを嫌いになったわけでもない。時さえ巡って来れば、また何かしらは書けるだろうという気はしているんだ。干潟に潮が満ちてくるみたいにね」

斜め後ろから見える彼の顔が、青に、黄色に、緑に照らされる。
アコースティックギターの音。
引き延ばされて、頭の中に反響する。


でもね、と彼は言った。

「でもね。たまに思うんだ。俺はただ、夢を見ているだけなんじゃないかって。本当はもう、何も書く力は残されていないんじゃないかってさ。
全ての力を二作に全部注ぎこんじまったんだね。まるで映画館でエンドロールを見るみたいにさ、長々と続くその先にあるおまけを見ようと、尻が痛いのを我慢して安いびろうどの座席にしがみついている。

でも本当は、おまけの映像なんてないんだよ。白抜きでジ・エンド、それで本当に終わりなのさ。
それを知らないで、ただずっとずっとクレジットを見続けている。
そんな気がするんだ」

そう言って、彼はスクリーンに向きなおった。
画面は天気のいい午後のサイクリングをただひたすらに追っている。画面にもう文字の列はない。
言いたいことは言いつくしてしまったのだ。

主人公の彼に落ちるあたたかな陽射しを見ていると、まるで自分が彼と同じ世界に居るみたいに感じられた。映画館から外に出れば、眩しい太陽の光が身体に降り注ぐ。映画ポスターに変なペンキなんか塗られていなくて、商店街はシャッターなんか下ろされていなくて、どこで、誰がどんなコーラを飲んでいても認められる世界。
自販機があって、喫茶店があって、大学では講義が行われて、古い映画館はマニアックな人々でそれなりに賑わっている、そんな世界。

でもそれは私の妄想に過ぎない。

私は手にした紙コップの中身を見た。大きく飲んであとひとくちというくらいの量が残っている。ここで完全にペプシを飲み干してしまわなければ。もしこれを手にしたまま外に出ようものなら、またきっとどこからかプラスチックの弾が飛んでくることだろう。
小雨はもう止んだだろうか。

前の列の彼は、まだまっすぐにスクリーンを見続けている。よほど真剣に見ているのか、頭はもう私のほうには動かない。

私は席を立った。
腕時計を見ると、席に着いてから十分くらいしか経っていなかった。

「帰るの?」彼が聞く。
「うん、ちょっと用事を思い出したものだから」私は嘘を吐く。

気をつけてね、と言ってくれる彼に、私はありがとう、と返す。座席から去る前に、ペプシを飲み干した。最後の一滴は、溶けた氷のせいで薄い味がした。
私は彼に聞いてみた。

「私ペプシが好きなんです。あなたは何を飲んでいるの?」

彼はほんの少し首をこちらへ動かす。顔までは見えない。目の端だけが少ない光源にちかっと反射する。自転車の車輪の回る音。音楽が不用意に途切れる。

彼は笑って答えた。

「カナダ・ドライのジンジャエール。これ、ここでしかもう飲めないんだ」

彼は紙コップを掲げて、軽く私に振って見せた。ペプシコーラの印刷の下では、薄い金色の液体が静かに泡立っているのだろう。

私はとても久しぶりに、なんだか笑いたくなった。

恐らく、彼はこの世界では生きにくい人だ。けれど、それなりに、生きにくいなりに、しっかりと生きていける人だ。そう思った。

彼の書いた脚本の映画を、私は見てみたくなった。彼はまた脚本を書けるようになるだろうか?それは彼次第だ。私にはつまるところ、分かり得るものではない。それでも私は可能性を信じる。
この馬鹿げた喧騒の世界で、たった一つ真実があるとすれば、それは自分を信じること。
彼にはそれが出来るだろう。


「さようなら」

重たいドアの前で最後にそう言うと、彼は薄暗がりの中で軽やかに手を挙げた。



上映室を出ると、待合室は相変わらず緑色の光に溢れて、蛍光灯のノイズを響かせていた。カウンターに先ほどの女性はいない。椅子の背にひざ掛けが引っ掛けられている。休憩に出て行ったのかもしれない。

私は古いソファに腰掛けた。古い皮が軋んだ音を立てる。背もたれに背中を預けて、目を閉じる。

あの映画には、エンディングあとにおまけの映像なんて付いていないのだ。ただただ長いエンドロールが繰り広げられるだけ。最後のシーンは左下にエンドマークが出てきて、ただそれだけで終わる。

彼はその事を知ったらどう思うだろうか。時間を無駄にしたと悔しがるだろうか?それか、やはり自分には何も書けないのではないかと怯えるだろうか?


遠くで何かが破裂するような音がした。続けてもう一度。誰かが何かを叫んでいる。パトカーのサイレンが、素早く通り過ぎる。

私は右手に掴んだままの紙コップを見た。長い間握りしめていたためか、少し歪んでいる。


私はもう一度目を閉じて、次の回の上映までしばらく眠ろうと思った。



*webで見やすくするため横書きに表示しています。実際は縦書きです。



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