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雨が降り出したのは、いつもと違う駅で降りてからすぐのことだった。

一週間前に引っ越してきたのは、街の中心部から、電車で二駅ばかり離れた場所だった。
最寄り駅とその次の駅の名前は立地している地名の頭に「新」がつくかつかないかだけで区別されていて、表示板や車内放送をちょっと確認しただけでは、慣れていないとちょっと間違えてしまうような駅だった。
だから越してきて以来気をつけて注意していたはずだった。
けれど、様々なことが折り重なって疲れきっていた帰り道、電車の心地よい揺れについ意識を預けてしまったばかりに、最寄りから一つ手前の(つまりは中間地点の)駅でうっかり降りてしまったのだった。

 アパートを出るときから低く垂れこめていた雲は次第にその色の濃さを増し、人けのない昼下がりのホームに陰を落としている。

 参ったな、と思った。駅を降り間違えるなんて、生まれて初めてのことだった。ホームに降り立って気がついたときには、もうすでに電車は次の駅――つまり本来降りるはずだった駅へと走り出していた。
次の電車まで、時間のつぶし方を考えなくてはならない。

 とにかくホームを出ることにする。初めて見る駅の風景に、どの方向に足を運ぶべきか、一瞬足が止まる。あたりを見渡すと、電車の進行方向と反対に駅舎へと続く階段を見つけた。
上着のポケットに手を入れて歩き出す。知らない駅で降りるというのは、しかるべき場所にまるでそぐわない服を着て過ごしているような不慣れさがある。
 途中にあった時刻表を確認すると、次の電車まではだいたい一時間あった。持っていた雑誌を読んで待っていても良かったが、それだけで時間をつぶすのは気が進まなかった。少し考えて、とりあえず駅前を少し歩いてみることにする。これを機にこのあたりの土地勘を養うのも悪くないと思ったし、何より一時間も駅で過ごすのは退屈だったからだ。

降りたばかりのホームを振り返る。大きな駅ではない。近隣の住民だけが利用する、ひっそりとした駅だ。街へ行く途中の駅だということを抜きにしても中間地点という言葉がよく似合う駅だった。退屈そうな若い駅員に定期券を見せ、待合室を通り抜ける。待合室は妙にがらんとしていた。利用している人間は、自分以外に見当たらなかった。時間の経過を思わせるガラス窓の隙間から外の湿った空気がにじみ、人影のない午後の駅を冷やしていた。

サッシの端々が劣化した扉は重く、押して外へ出ると、ひどくいびつな音が待合室に残った。


 踏み出したコンクリートが、ところどころまだらに黒い。
雨が降り出していた。

 本来降りるはずだった駅からアパートまでは徒歩で少しの距離だったので、今朝出がけに天気予報の雨マークを目にしても特に傘を持って出ることは無かった。アパートに帰れば傘はあるのだから、今のこの時間のためだけに傘を買うのも惜しい気がした。
駅から遠く離れなければ大丈夫だろう。多少濡れるのは諦めればいい。
着ていた上着のジッパーを上まで閉めて、一番近い交差点まで歩き出す。

 駅の正面にあるバスプールの向こうに、ちょうどTをさかさまにしたようなかたちで、前方と左右に向かって道路が延びている。広場を横切って交差点に立って観察してみると、右の道にはちょっとした宿泊施設や比較的新しいアパートが並び、左の道にはこぢんまりとした古くからの商店たちがいくつか軒を連ね、ちょっとしたアーケードを形成しているのが分かった。前方には、道路に面して建つ歯科医院やクリーニング店などの隙間に、雨上がりの木々の間から生えるきのこのように個人住宅がぽつぽつと顔を覗かせている。
どの道へ足を向けるべきか、少し迷う。
数秒の後、目の前の歩行者用信号が青へ変わったのをきっかけに前の通りを歩くことにした。

 はっきりとした雨の音が、耳に届くようになった。

 通りに人影はほとんどなかった。自分のほかには、冷たい雨をよけるように身をちぢめた老人が反対側の歩道を歩いているだけだった。何分かに一度、思い出したように車が水を跳ねあげながら追い越していく。
アスファルトの微妙な沈みにできた水たまりの水面に、絶え間なく大小の輪が作られては消えていった。
雨に濡れた建物たちは、雨に建築物としての必要な要素をすべて吸い込まれてしまったかのように、ひどく平面的に見えた。もし美容院で客用の椅子に腰かけ暇そうに午後のワイドショーを眺めている美容師や、どこかの家の窓にレースのカーテンが引かれるのを見かけなければ、自分が積み木の街に来てしまったのかと思ってしまったかもしれない。

 通りは向かってまっすぐに延びていたが、奥に行くにしたがって、建物の群れにまぎれ込む枝別れの道が増えてくる。少し考えて、手前から数えて二番目の道に入ることにした。

水分を含んだ前髪から、額に雨粒が垂れる。目に入りそうになって慌てて手でぬぐった。鞄を漁れば何か拭くものは入っているだろうが、ここで鞄を開けても濡れる物が増えるだけなのは目に見えていたので、そのまま歩き続ける。

青い道路標識を目印に角を曲がると、車の音が薄い膜を隔てたように遠く聞こえるようになった。大きな通りに比べて一般住宅がずいぶん数を増やしている。道端にあったバス停は、名前の部分が錆びていてうまく読み取れなかった。住宅と道路、読み取れない名前。それ以外に説明できるようなものは何もなかった。通りは、その全てを内側に閉じ込めてしまったように見えた。
晴れた日のこの通りの風景を思い浮かべようとした。白い太陽の光の下で、あらゆるものが輝いている風景。しかし、上手く想像出来なかった。

 もう雨の音しか聞こえなくなっていた。額をぬぐう回数が多くなる。

 急な視界の広がりに、不意に足が止まった。

歩道にはみ出す間際に停められた車の先、なにもない空間が目に留まる。歩道を歩く人々の視線を避けるように列を成していたフェンスやブロック塀の向こうが、誰かに切り取られたようにいきなり無くなっている。そこは車二台ぶんくらいのスペースが確保された駐車場だった。ひとつ引っ込んだ所に、周囲にある住宅を一回り程度広げた大きさの平屋の建物が建っている。何かの事務所だろうか。それが一般の住宅でないことは、雰囲気でわかる。
薄いブルーに塗られた外壁に、案内板が取りつけられていた。診療時間が書かれていた。病院なのだ。建物の規模からすると「×××医院」や「×××クリニック」と呼ばれるような個人病院なのだろう。

何かの入れ物を思わせる直方体の建物は、最後にはめるピースをなくしたパズルのように一部分が真四角に欠けていて、そこが入り口になっていた。
駐車場を通って玄関へ続くゆるやかなステップを一段上がり、建物の軒下に体を滑り込ませた。厚いガラスの扉越しに中を覗うと、雨の日の午後の淡い闇が、掲示板に貼り付けられた健康診断の案内のプリントや「おだいじに」と書かれたカードを持ったくまのぬいぐるみをぼんやりと包んでいた。

 人のいる気配はなかった。休診日なのだろうか。

雨は強くも弱くもならなかったが、遠くに見える雲の一部がだいぶほころんできているのがわかった。そうかからないうちに止むだろう。
 
扉にもたれて、雨垂れが屋根から地面へ流れ落ちていくのを眺めた。湿気を存分に含んだジーンズが気持ち悪い。上着を脱げば上半身はほとんど濡れてはいないだろうが、髪の毛はもう諦めざるを得なかった。鞄についた水滴を手で拭った。大人しく駅でじっとしているか、最初に傘を買っておけばよかったのかもしれない。そもそものことを言えば、今朝部屋を出るときに折りたたみでもいいから傘を持って出るべきだったのだ。天気予報だって見ていたのに。それならばもっと早起きをして、荷物の検分をして、鞄のスペースを空けて……とを辿っていって、やめた。過ぎたことを考えるのは、それもこんな雨の午後に考えるのは、とても馬鹿らしい気がした。


 空気が、不自然に凝固した。
 視線を感じた。


 反射的に振り向くと、ガラス扉の中の女性と目が合った。心臓が急に跳ね上がる。瞬間、頭の中が白く塗りつぶされる。

彼女の方も驚いたらしく、目を見開いてわずかに体をこわばらせた後、すぐに中の方へ消えていった。
 
誰もいないと思っていたが、人がいたのだ。そしておそらく彼女も外には(少なくとも病院の敷地内には)誰もいないと思っていたのだろう。
 
診療に来た人間だと思われても困るので、軒下を伝って駐車場の方へと移動する。車は一台も停まっていない。駐車場と外壁の間の狭いスペースには、間仕切り代わりにつつましい花壇が設けられていた。特に何も生えておらず、花の名前が書かれたプラスチックの細い板が一定の間隔で土に差してあった。きっとこれから芽が出るのだろう。

診療時間の看板を見た。多くの病院がそうであるように、診療時間は午前と午後の二部制で、水曜日の午後と日曜祝日が休診日だった。腕時計を見ると、駅を出てから十五分と少しが経過していた。時刻の隣には、今日が木曜日であることを示す「木」マークが表示されていた。


「あの」

 一瞬周りを見回したが、人影はない。気のせいだと思ったが、もう一度「あの」と声をかけられて、ようやく自分が声をかけられているということに気がついた。

「よかったら、中にお入りください」

声の方向を見ると、数センチ開いた扉の向こうから、先程の女性がこちらを見つめていた。
少し慌てたように、言葉を返す。

「診てもらいに来た訳じゃないんです。雨宿りしようと思って」

女性は白いワンピースのような服を着ていた。見た目から正確な年齢はわからなかったが、ずいぶん若い。細く開けていたドアを押して、建物のなかへと続く隙間を広げる。

「構いませんよ。雨が上がるまで、中に入っていてください。多分、まだしばらくは降っているでしょうから」

もう一度腕時計の文字盤を見た。先程見た時刻から、数十秒の時間が経過している。電車の発車時刻までは、駅まで戻る時間を差し引いてもまだだいぶ余裕がある。

雨はまだ止みそうになかった。

「風邪をひきますよ。そうしたら、本当に病院に来なくちゃなりません」

扉を押さえる細い手に雨垂れが落ち、ひとすじ跡を残して消えた。
彼女の真っ白い服が、灰色の風景の中で目を射る。
彼女の声は小さく、呟くような調子だったが、不思議と風景を抜けてよく通る声だった。

「……お世話になります」

吹き付けてくる雨に当たらないように入り口に向かった。彼女は客人を玄関へ通した後、あたりを見回して、最後にそっと扉を閉めた。



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