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》似合うのは夜だと


もう来る気はなかった。
ふうと息をつくと、目の前に聳え立つ大きなマンションを見上げた。
来る気はなかったが、夜を過ごす場所がここしかなかった。
制服ではいろいろと都合が悪い。
カバンはつい忘れてきてしまった。
縋り付くように、あたしはまたここへ来てしまった。
自動ドアをくぐって、1406の部屋の番号をおすと、きっかり10秒で相手は出た。
はい、と相手はめんどくさいをあらわにしている。
あの…
なんて言おう、あたしが彼の名前を知っていても、相手はあたしを知らない。
しばらくの沈黙の後に相手はふっと笑いを零す。
「死なないのか?」
そうインターフォンから聞こえたと思うと、カチッとドアが開く。
わかってくれたんだ、あたしは素直に1406号室、杉田さんの部屋に向かった。

死なないのか、ドアを開けると同時に杉田さんは呟いた。
死にません。
そうか。
杉田さんはあたしを部屋に通した。

家出少女、
呼ばれて、あたしは振り向く。
砂糖はいるか?
あたしは少し考えて、少し、と言った。
少しか。
少しです。

しばらくして杉田さんが持ってきたマグカップの中にはこの間と同じように牛乳入りのコーヒー。
「ヤエです」
杉田さんはあたしと同じように夜11時の夜景を見下ろしていた。
そしてあたしを怪訝な目付きで睨む。
「名前、家出少女じゃなくて、ヤエです」
「…偽名」
あたしが笑うと、やっぱな、と彼は口角をあげた。
コーヒーに口をつける。甘かった。
激甘。
「杉田さん」

ありがとうございます。
いや、来るとは思っていた。
え?
なんとなくだが。
そうですか。


杉田さんは温くなったコーヒーを一気に飲み干すと、煙草いいか、と聞いてきた。
はい、大丈夫です、ぎちちが吸っていたので。
ぎちち?
ぎちちです。
杉田さんはしばらく考え込むように黙ってから、ぎふか、と問う。
そうともいいますね。
ぎふ、かぁ。
あたしはぎふに漢字を当てて、義と父と思い描く。
そうともいうけど、やっぱり、ぎちちです。


あたしに煙を浴びせないための考慮なのか、空を見上げて吸うのが好きなのか。
窓を開けて、煙草を吸い始めた。
ありがとうございます。
杉田さんは、何が、と言ったが、あたしが答えずにいると、興味など最初からなかったかのように煙を吐き出した。

その晩も杉田さんの部屋で、杉田さんのパジャマを着て寝た。
杉田さんはベッドの横にある窓からやっぱり夜景を見ていて、
あたしはやっぱり寝たふりをしていた。
今度はドキドキなんかしていない。
ただ眠れなかった。

杉田さんがぽつりと呟いた言葉を聞かないふりした。
あまりにも悲しくて、そこは触れてはいけない場所だと、あたしは深く理解する。

杉田さんがあたしに対して何度も聞いた、死なないのか、とう言葉が頭に浮かんでから消えない。




あきゅろす。
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