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また来た。あたしは、大きく息を吸うと瞼を閉じる。消えろ消えろ、そう心の中で何度も呟き、だけど目の前からその気配が消えることはない。彼の息遣いまで聞こえる。
「美沙、目を開けて、俺は幻なんかじゃない、ちゃんとここにいる、今言ったことも事実だ、本当のことなんだよ。幻でもなんでもない。美沙にとって酷な事だとはわかってる、だけど事実なんだ、それが俺の本当の気持ちなんだ。」
あたしは彼の優しい声に惹かれるように目を開ける。彼の苦しそうに歪めた顔が目に入る。
「本当の、こと?」
「そう、本当のこと。俺の気持ちに変わりはない。」
「別れたいってこと?」
「そう。」
「あたしのことが嫌いになった?」
彼はゆっくり顔を横に振ると、違う、と言った。
何が違うんだろう。あたしは彼の顔を睨み付ける、彼はバツが悪そうに目を伏せる。
ほらそうやって視線を逸らす。彼は幻なんかじゃないと言った。俺はここにいるとも言った。では別れたいだなんて何故言うのだ。酷なことだとわかっているのなら何故そんなことを言うのだ。これが本当のことならば、あたしのことが嫌いになったと言ってくれたほうがどれだけ楽だろうか。彼は結局何もわかっていなかったのだ。あたしのことをわかったふりしていただけだ。あたしのこの不思議な力のことを結局何も理解などしていなかった、わかったふりをしていて、結局あたしを傷つけただけ。あたしは今更この力のことなど苦に思ってはいない、彼は何もわかってはいない、あたしを傷つけてしまったという罪悪感に自惚れて、苦しんだふりをしているだけだ。
「じゃあ何?なんで別れたいだなんて言うの?嫌いになったのならそう言えばいいじゃない。あたしなんかといるのが疲れたって、あたしといるのが苦痛でたまらないって、お前なんかよりずっと良い女を見つけたって言えばいいじゃない。今更何を怖がってるの、これ以上惨めにさせないで、もう傷つきなんかしないから、これ以上どうやって傷つけなんていうの?わかる?わかるわけないよね、そうだよね」
「美沙・・・」
「何?」
「違うんだ」
「違うって何が?本当のことでしょう?もういい」
あたしは立ち上がると、困っているように目を泳がす彼を見下ろす。
彼の情けない顔見て、あたしの中で感情が冷えていくのを感じた。あたしはこんな人に今まで何で縋って生きてきたのだろう、この人がいないと生きていけないだなんて、どうしかしていたのだ。彼じゃない、あたしがおかしかったのだ。
「今までありがとう。どうかお幸せに」
頭を下げると玄関に向かいサンダルをひっかけ、勢いよくドアを閉める。バンと大きな音が静かな廊下に響く。
ここに来ることはもう二度とないのね、あたしは息をつくと、今閉めたばかりのドアを見つめる。彼は追いかけてはこない。部屋の中で誰かが動いている気配もない。きっと彼はやれやれと肩を竦め、あたしが場所を取っていたソファに寝転がり、終わった、と新しい彼女にでもメールをするのだろう。悔しい、と心の中で悪態をつく。彼をもっと罵ってやればよかった。もっと傷つけてやればよかった。ドアに八つ当たりで一蹴りしてやりたかったが、そんなことしても何もならない。精一杯ドア越しにソファに寝転がっているのであろう彼を睨み付けると、転がるように階段を駆け下りる。あたしが馬鹿だった、あたしが全て悪い、あたしが悪いのだ。
アパートを飛び出して走り続けて、気づいたら駅前の人混みの中に居た。ひとりで歩いている人もいれば、友達同士で楽しそうにして歩いている人もいる、カップルで手を繋いで仲睦まじく歩いている人もいるのに、あたしはなんだろう。こんな一人で惨めな。友達なんかいない。信じていた、たったひとりの希望だった彼にも「いらない」と言われて、あたしはどうしたらいいのだ。もう何もない。
音がやけに耳につく。人の喋り声やら店から流れ出るうるさいほどの音楽、駅に入ってくる電車の音だとか、全てが騒々しい、耳に入ってくる、うるさい、あたしの頭の中に押し入ってくる。耳をいくら押さえてもそれがなくなることはなくて、反対に指の隙間から入ってきては、あたしを馬鹿にしているかのように聞こえる。眩暈がする、視界がふらふらしてきて、視点が定まらない。思わずしゃがみこむと、人の視線がいたい。「大丈夫?」誰かの手があたしの肩に触れた。それさえもが気持ち悪い。
あたしは立ち上がると、そこから逃れようと再び走り出す。すぐに息が切れる。あたしに行く当てなどどこにもない。とにかくここから逃げ出したかった。無我夢中に走る。音は執拗に追いかけて来た。



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