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糸のカケラ

生暖かい風があたしの頬にぶつかり、髪の毛を空に散らす。自慢の長い髪が顔にかかり、一瞬前が見えなくなるが、すぐに同じ風景が目の前に戻ってくる。そこにある川沿いの桜並木は満開に咲き乱れていた。
息をつくと、桜の花びらが一枚散って落ちていく。はらりはらりと落ちる花びらは、どこか悲しげだけどそれは美しかった。もう春が終わるな、なんて普段は思ったりしないことで、少し切なくなってみる。もう、春が終わる。
踏み潰されて黒ずんだピンクの絨毯の少し先に、一足の赤いスニーカーが置かれていた。雑貨屋で980円で似たようなスニーカーが売られているのを見たことがある。そのスニーカーは桜並木のある歩道から掘り下げられた川に向かって、整えられて置かれていた。川とスニーカーの間には胸の高さまである柵があり、川に向かって置かれたそのスニーカーは、屋上からの飛び降り自殺を思い浮かべさせた。
本当に飛び降りていたらどうしよう。
不謹慎なことにあたしの胸はわくわく高鳴り、好奇心誘うままに柵に駆け寄り川を見下ろした。そこには生えたままの雑草があるだけで人の姿はどこにも見当たらない。歩道から川原まではたかだか3メートルあるかないか。ここから飛び降りたって致命傷どころか、下手したらかすり傷ひとつ負わないということもありえない。要はこのスニーカーは誰かの性質の悪い悪戯なのだろう、悪戯としか考えられない。
結果がわかってしまえば、好奇心も溜め息へ変わり、力もすっと抜けてしまった。
あたしはへなへなと座り込むと、左手の薬指に嵌まった指輪を空にかざした。太めのシルバーリングにダイヤひとつ埋め込まれていて、その指輪の向こうに夕暮れに照らされた桜があたしに降り懸かってくるように聳えていた。時折思いついたように花びらが舞い、ゆっくりと落ちていく。
春が終わろうとしてる今も、彼から貰った指輪はあたしの薬指に誇らしげに輝いていた。あの人は、今でもあたしのたった一人の愛しい人。しょうがない、もともとこんなことになるのはわかりきっていたことだったのに、のめり込んでしまったあたしがいけないのだから。
あの人はあたしの兄の上司だった。彼にはあたしよりも何倍も綺麗な奥さんと二歳になる息子がいて、あたしは彼の愛人で。いつ捨てられるかわからない、たった一本の糸で繋がっているようなそんな関係だった。
電話はいつも彼からで、あたしからの電話は許されない、何より彼の番号はあたしは知らなかったし、いつも非通知でかけてきていたから、あたしはかけ直すことも出来ない。
寂しさに潰されそうな夜も、彼に会いたいと思うこともあたしには許されない。あたしは毎晩彼からの電話を待つ、健気な女を演じることしか出来なかった。
やっと会えたとしても、いつも決まってラブホテルで、支払いはあたし、彼はあたしの体を求めるだけ求めて、果てたあたしを尻目に支度を済ませて帰ってしまう。
それでも、そんな関係だけでもよかったのに、彼の家庭を壊すつもりも、これ以上の何かを求めることもそんな気はなかったのに。
「ごめん、君とはもう会えない」
プツリと切られた電話のもとに残ったのは無機質な機械音と、あっさりと切れてしまった糸のかけらだけ。
あたしは立ち上がると、指からゆっくりと彼の面影を抜き取り、川底に向かって投げる。夕暮れに照らされ、指輪は光りながら落ち、ポチャリと水は音を立てた。
ぎゅっと強く唇を噛みながら、赤いスニーカーの横に履いていた自分のパンプスを置く。




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