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歌い姫

教室の窓からさんさんと降り注ぐ陽の光の下に、矢口妃呂はいつも眩しそうに座っていた。
眩しそうに目を細めるくせして、カーテンを閉めようともせずに、陽の光をただただなすがままに浴びていた。そしてウォークマンで何か聞きながら、休み時間の煩い喧騒の中、小さな声で歌を歌い続ける。
それはなんの曲を歌っているのかわからないのだけど、一度だけ近くに寄って聞いてみようとしたら、すぐに私の存在に気付かれてしまって「何?」と冷たく言われてしまった。「何聞いてるの?」みたいなことを聞いてみればいいのだけど、私を見る矢口妃呂の目から逃げるように「なんでもない」と言って逃げ去ってしまった。あとから考えてみたら、ものすごい不審者だったかもしれない、と深く落ち込んだ。
後ろ姿から見える矢口妃呂はボーイッシュな感じを、無造作に散らせたショートカットの髪の毛がそれを感じさせていた。しかしそれに対して前から見るとなんとも女の子っぽく、真ん丸の大きい目に小さい鼻、桃色に染まった頬が印象的だっだ。彼女の真ん丸の目は小さい目をする私からは憧れで、ウェーブがかった髪の毛も、直毛の私からはとても羨ましいものだった。
そして矢口妃呂は授業中に前にとった私の行動以上に不審な行動を取る。毎日9時になると同時に大きく手をあげ、「先生」と言うのだ。「トイレに行っていいでしょうか」
席から立つ彼女はポケットにするりと携帯を滑り込ませ、なんでもないふうに教室を出ていった。しばらくしてから、大体5分弱ぐらいで、矢口妃呂は軽い足取りで帰ってくる。それから、とろ〜りとした目で眩しい空を見上げる。その時の彼女は幸せいっぱいのオーラに包まれていて、それが私のところまで流れ来て、私も心が幸福感で満たされていく。
それを毎日欠かさず行い、たまに幸せオーラだけではなくて、怒りオーラや戸惑いオーラを放ち、必ず空を見て、小さく微笑むのだ。彼女はあの空を見ているように見えるが、目はそこを見てはいなかった。空を何かに見立てて、もしくは空の向こう側にある何かを見つめていた。
放課後、矢口妃呂はホームルームが終わるとゴムに引っ張られてでもいるように、教室を勢い良く飛び出して行く。部活に所属してない彼女はまっすぐに家にでも帰るのか、物凄い急ぎようだった。
それを幾日も続ける彼女を、私は後をつけてしまいたい衝動に狩られていたが、放課後に部活がある私はそれを諦めるしかなかった。
ある日急に、矢口妃呂が私に話し掛けてきた。
「あんたさ、なんなの」
私はあまりにも急に言われたので、意味を理解できずに口を阿呆のように開けたまま矢口妃呂を見上げた。
「だから、あんたなんなの?って聞いてんだけど」矢口妃呂は呆れたふうに、一語一語を切って噛んで含めるように言った。
「あ、あのう、よく話が見えない…」
そう言う私を馬鹿にするような目付きで見た。「あんた馬鹿?」
「でも」
「あんさ、毎日毎日そうやってじ〜っと見られるのって、あんたにとって快感な訳?」
私はまだぽかんと放心して矢口妃呂を見つめた。声が物凄くかっこいいと思った。低く安定した、滑らかに耳に届く声。ほかの教室の人たちは、きんきん声で耳をつんざくような疎ましさがあるのに、なんなんだろう、この差は。矢口妃呂が異様に大人びて見える。
「ねぇ、あんた聞いてんの?」
「湯沢早紀」
「は?」
数秒前の私のように矢口妃呂は口をぽかんと開け放っていて、私はもう一度自分の名前をフルネームで名乗った。
「あんたの名前ぐらい知ってるって」
「なら、あんたじゃなくて名前で呼んで?」
「な、何言ってんの、気持ち悪い」
矢口妃呂は私に軽蔑の眼差しをくれ、きびすを返して教室を出て行ってしまった。
やばい。咄嗟に私はそう思った。絶対に変態に思われた。聞かれた質問にも答えないで、私の名前呼んで、なんて絶対に変だ。自分がされたら、まず相手を軽蔑する。それに、矢口妃呂の言っていたことを思い出すと、彼女は私にいつも見られていることに気付いていて、さらに不快だと感じていたらしい。そんなところにこんな事が重なれば、私は変態決定だ。別に嫌われるのはかまわない、別に嫌う、嫌わないは個人の勝手だ。でも変態と思われたら、それを教室中に広められたりなどしたら、私はこの教室に居づらくなるだろうに。
そんな私の憂欝を知ってか知らずか、数日後に何もなかったかのように、9時5分頃に自分の席の後ろの私を見て微笑んだ。それは例の如く、幸せオーラに包まれていて、私は目を丸くした。
矢口妃呂は休み時間になると、満面の笑みで私を振り返り、私をさらに驚かした。
「早紀はさぁ、彼氏とかいんの?」
いきなりのことに私は言葉を失った。早紀っていきなり呼び捨てってことに。しかも矢口妃呂は本当に数日前のことをすっかり忘れてでもいるのか、口調は長年の友達を思わし、それは少し私を戸惑わせた。
「え、いないけど」
「そっかぁ、そだよねぇ」
前言撤回。矢口妃呂はやっぱり数日前の事を覚えているのかもしれない。戸惑いついでに、矢口妃呂に対して恐怖感を覚えた。
「う、うん」
私がそう相づちをうつと、矢口妃呂は、あの大きな目を好奇に溢れさせて私を見た。緊張が走る。頬が紅潮でもしてしまうのではないかと思うぐらいに、体中が熱くなっていた。
「早紀はなんであたしをあんなに見てた訳?あたし、おかしい?」
「違うよ。いや、なんかね、矢口さん」
「妃呂」
「え?」
「妃呂って呼んで」
「あ、妃、妃呂っておもしろいなって思って」
「イコールおかしいと同じじゃんか」
「え?あ、そうなのかなぁ。ただね、ただ興味を持ったってだけで、決しておかしいと思った訳じゃないよ。気になったら、いつのまにか目で追ってたっていうか。おかしいのは私だよ〜ごめん」
「うん、確かに早紀はおかしい」
矢口妃呂は笑いを堪えるように顔をニヤつかせて、何度も首を縦に振った。やっぱり私をおかしいと思ったらしい。変態と思ったかどうかはわからないけど。けど、矢口妃呂の態度に、少しほっとしたような軽い安堵感を持った。
「あたしもね、早紀に興味持った」
矢口妃呂は歯を出してにっと笑うと、前を向いた。
胸のそこのほうから、何かが沸き上がってきた。嬉しさか、はたまた喜びか。どちらにしろ同じようなものだ。嫌われていないし、矢口妃呂が自分に興味を持っている、なんて嬉しいのか。なかなか懐かなかった犬が、やっと懐いてくれたような、そんな気分だった。
矢口妃呂が前の席で、歌を歌っていた。いつもより大きい声で。歌詞はわからないけれど、メロディーは聞いてとれた。少し悲しめな、いや寂しげなバラードって感じ。しばらくするとゆっくりと小さな、よっぽど耳を傾けなきゃ聞こえないぐらいの音量になっていた。
それ以来、矢口妃呂はときたま気が向いたとき、私に話し掛けてくれるようになった。
9時になるとトイレに行くのや、放課後に猛ダッシュで帰るのは相変わらずで、休み時間なんかに、たまに私に歌を聞かせてくれた。と言っても、鼻歌の音量がいつもより大きくなった程度だったけれど、それは私は矢口妃呂と一緒に歌を聞いている、そんな気分に浸れた。
矢口妃呂は私にさまざまな質問をした。家はどこにあるのか、何人兄弟か、意味のないことばかり聞いていた。果てには、今日の朝、何時に家を出たかとか、くだらないことだった。
そんな矢口妃呂の言動は、さらに私の興味を引き、離れられなくなっていた。くだらない質問ひとつひとつに返事を返し、彼女が満足そうにするのを見て私も満足する。矢口妃呂の興味は私と違って、あちこちに目移りし、それを私が後から追う。日に日に、視界が広くなって行く。
私は飽きずに矢口妃呂を観察し続ける。
月曜の朝、もう9時だというのに矢口妃呂は朝9時のトイレに行かなかった。彼女は先生に向かって手を挙げる素振りを見せずに、ただ黒板を凝視して動かなかった。先生も9時なのに手を挙げることをしない矢口妃呂を見ては、しきりに首を傾げていた。それに嫌気が差したのか、矢口妃呂は窓の外を眺めた。私からは顔の半分が見え、見る限り、あの大きな目が腫れていて赤くなっていた。泣いた、というのが丸分かりで、私は少し心配になった。
休み時間になっても私を振り向いて、くだらない質問をしてこなかった。今日は私から話題を準備してきたのに。「烏に11回馬鹿にされた。」それは放課後まで続き、結局、その日一日中、私と矢口妃呂は会話を交わさなかった。
放課後になっても、彼女はおかしかった。いつもならホームルームが終わったら、すぐに教室を飛び出していたのに、矢口妃呂は礼もせずに椅子に座り込むと、ぼけっと教室のみんなを眺めていたけど、その瞳には何も映ってはいなかった。その瞳はまるで死人のようだった。
私が部活に行って帰ってきても、矢口妃呂はそこに座り、ぼけっとしていた。私は思った。死人ではなくて、お人形。
そうだ、あれはお人形。矢口妃呂じゃぁない、全然違うじゃないか。彼女はきつい、私を圧倒させるような口調で言葉を放ち、低い滑らかな声で歌い、いっつも幸せなオーラを醸し出した。それがなんだ、いまの矢口妃呂は。そんな幸せなオーラなんか微塵もなくて、代わりに纏っているのは不幸せオーラ。まったく違うじゃん、何を思い違いしていたんだ。
矢口妃呂はどこへ行ってしまったのだろう。私はお人形の矢口妃呂を真似て、晴れ渡る空を見上げた。空はお人形が矢口妃呂だった頃と変わらない空で、相変わらず休み時間の教室は喧騒に満ちている。いつか矢口妃呂は戻ってくるのだろうか。いつかのように、歌を歌ってくれるのだろうか。
ふと鼻をすする音が聞こえた。それを追うように鼻歌が聞こえたのは、私の気のせいなのかもしれない。


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