[携帯モード] [URL送信]

リュテが動いたことで生まれた僅かな真空を埋めるように、羊水は閉じられていく。重い液体は仄かに明るい腹の底で、朽ちた木の大扉のような鈍い音を立てた。彼女は揺れる胎内のリズムに合わせて、大人しく鼓膜を叩くそれを聴いていた。時折ごうごう優しい音で響くのは、ザフィアの声であろう。今日は満月だから、彼女は嬉しくて仕方がないのだ。だからああして唄を唄っている。

リュテはザフィアのはらわたに住んでいる。月魚は月桂樹の胎内で育ち、二十三度目の満月の日に巣立つ。その時に初めて、自分の揺りかごであるその樹を出るのだ。

「リュテ、ごらん。今日の月のなんと丸いこと。見えるかしら、あなたを祝福しているような潔白の色が」

リュテは羊水の中で伸び上がる。そうして薄く透けたザフィアの樹皮の向こう側に、爛々と輝く球体を見た。今日のそれは確かに美しく、色白に光る様は貪欲ささえ感じさせるものだった。月はいつもよりザフィアの梢に近い。

風がザフィアの枝を乱暴に引っ張って、無理矢理に握手を交わしていった。不器用な風は、愛を分けるにはこの方法より他を知らないのだ。物悲しい風景を残して行くため皆には喜ばれないが、そのことを誰より悲しんだのは、他でもない風自身だった。ザフィアは彼に手を振る。この風は木枯らしという名だ。

リュテは小さく身を竦める。そして始終黙ったまま、月と同じ黄身色の尾ひれを駄々をこねるように揺らめかせていた。しかし彼女は失語症ではないし、むしろ唄うことをこよなく愛するザフィアの胎内で育ったため、言葉は豊富に持っていた。黙り込むリュテを見て、ザフィアが窺うように枝を揺らす。それでもしばらく逡巡し、しかし最後にはリュテも口を開いた。

「…大したことじゃないけどね、少し怖いの。何が、とはっきりは分からないけど」

ザフィアは考え込むように葉を鳴らす。リュテはまた黙り込んで膝を抱えた。
月はますます大きく白く光る。病的で妖艶なその美しさにふたりは目を細め、白亜の球体を見るともなく見つめた。

「――あ、」

ふと、その上をひとつの影が跳ねた。今日巣立ちを迎えた月魚だ。リュテは思わず息を詰めてそれを見る。空を泳ぐ月魚は尾ひれを懸命に揺らめかせ、まっすぐ月へと向かっていく。ゆっくり、しかし懸命に、拙さの残る泳ぎでのぼっていくその姿を、リュテは黙って見つめていた。見えなくなるまでずっと、黙って見つめていた。

そんなリュテを、ザフィアは愛しそうに抱えた。小さく体を揺らしながら、リュテの眠りを誘うように、夜の風を纏って優しい歌を歌った。リュテはザフィアの胎内で、いつの間にか眠りに就いた。

来月に巣立ちを迎える、幼い月魚の話。



月魚
































第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[グループ][ナビ]
[HPリング]
[管理]

無料HPエムペ!