相崎くんと市川くん
家に着くなり相崎はまずパソコンの電源を入れる。たぶん、あれはもう習慣だ。
俺が来ている時は、メールの返事を急いで書かなければいけない時以外は、起動させたきり近寄ろうともしない。 だけど、その日は珍しく相崎はなかなかパソコンの前から離れようとしなかった。 見れば相崎は椅子に座ったままで、手はキーボードには置かれておらず、だらんと下にたれている。 何か良くないことでもあったのかと傍に行くと、相崎はだるそうにゆっくりと腕をあげて、モニタについているボタンを押しはじめた。 「どうかしたの?」 「字がぼやけてる」 言われてモニタを見てみても、俺の目にはそこに映ったものは文字も画像もくっきりと色鮮やかに見えた。いつもとなにも変わらない。 「いつもと変わらないと思うけど……」 俺が言うと、相崎は手を止めて俺を見上げた。 どこか戸惑ったような表情と、綺麗な瞳がいつもよりさらに煌いているように感じて、すこしドキッとする。 だけどすぐに、彼の目が煌いて感じるのは、俺が相崎を好きだからという単純かつ主観的な理由ではないことに気づいた。 相崎の目が煌いているように見えるのは、単に潤んでいるからだ。 彼の額に手を当てると、やっぱりすごく熱くて、自分と比べるととんでもない差だった。 「熱い…。相崎、熱あるよ」 焦る俺に反して、相崎はのんきに言った。 「…お前にのぼせあがってるだけだろ。たいしたことねえよ」 つまらない冗談は無視して、俺は相崎を寝室に押し込めた。 風邪だと言う相崎の言葉にしたがって、市販の風邪薬を相崎に飲ませることにした。 病院に行くことはもちろん勧めたが、それは相崎の断固たる拒否にあってしまった。少し寝れば平気、だそうだ。どのみち診療時間は過ぎているだろうし、今日は無理だろう。 本来なら俺は遠慮してすぐに帰るべきなのだろうが、相崎が一人暮らしだということを考えるとそうするわけにもいかない。 せめて出来ることはしていってやろうと、とりあえず相崎に夕食をとらせることにした。 相崎に何か食べるものはあるかと聞くと案の定なにもないといわれたので、鍵を借りてマンションの前にコンビニに行った。 風邪をひいたときの定番のものを買って、相崎の部屋にもどって台所を借りて食事の支度をする。 支度といっても、レトルトのおかゆを電子レンジであっためて梅干をのせるくらいだけど。 居間に皿を並べ、寝室の相崎に声を掛けた。 「相崎、飯食えよ。起きられる?」 「…ん?ああ、平気。…起きる」 いつもは凛としているのに、どこかぼうっとしたような表情と口調の相崎がちょっと可愛くて、申し訳ないけど頬が緩むのを抑えられなかった。 俺が用意したものを、あっというまに相崎は全部平らげた。 どうやら食欲はあるようで、ひとまずは安心する。市販の風邪薬を飲ませてから相崎をまた寝かせた。 ベッドに入れて布団をかけてやると、相崎は礼を言ってから、辛いのかすぐに目を閉じた。 結構相崎の家には来てるけど、寝室に入ったのは初めてだ。 少し大きめのベッドの横のサイドテーブルにはスタンドと時計と、本が積み重なっている。ほとんどコンピュータの技術書や雑誌で、だけどよくみるとその本の山の中には、相崎が比較的苦手な日本史の参考書も何冊かあった。本当に、努力家だと思う。 気づけば、相崎はいつの間にか微かに寝息を立てていた。薬が効いたのかもしれない。 相崎を起こさないように、そっと寝室を後にして、居間にもどった。 これから俺はどうしよう。 鍵は返してしまったし、もしも預かったままだったとしても、何も言わずに勝手に帰るわけにはいかない。だけどいま眠ったばかりの相崎を起こすのもどうだろう。 いろいろ考えて、とりあえずもうしばらくいさせてもらうことにした。 少ししたら相崎が目を覚ますかもしれないし、そうでなかったら悪いけどそのときは起こせばいい。 そう決めて俺はソファに腰を下ろした。 一時間ほど経ったところで、相崎の様子を見に再び寝室に行った。 そっとドアを開けて暗い室内を覗いても、相崎が起きる気配はない。もう少し寝かせておいたほうがいいかもしれない。 暑いのか相崎は布団を半ば払いのけて寝ており、起こさないようにと気を配りつつ部屋の中に入って布団を体に掛けなおす。 すると、小さく咳払いをしてから、相崎が目を覚ました。 「……市川?」 「あ、ごめん。起こしちゃった?」 相崎は寝返りを打つと目を眇めて時計を見た。いつもはものすごく寝起きがいいのに、やっぱり具合が悪いからか、表情も動作もどこか気だるそうだ。 「……悪い。ずいぶん眠ってた」 「具合悪いんだからしかたないよ。薬飲んだんだし。具合どう?」 「だいぶ良くなった」 その答えを聞いて、安心した。 この分なら帰ってもよさそうだと思い、暇を告げようとすると相崎がじっと俺を見ていることに気づいた。 なんていうか、俺は相崎が向けてくる視線に、いつまでたっても慣れることができない。こんな風に突然見つめられると、びっくりするというか、落ち着かなくなるというか、そんな感じで。 「な、何?」 動揺をどうにか隠して視線の意味を尋ねると、相崎は笑った。 「……いや、誰かが家にいるっていうのはいいなって思って。安心する」 言いながら相崎は手を伸ばして俺の髪を梳くように撫でた。時折、顔に触れる相崎の手はやっぱり熱い。 らしくない彼の弱気な言葉とどこか儚げな表情に、胸が締め付けられた。 相崎はご両親が海外に行ってしまったせいでここで独り暮らしをしている。それは相崎自身が望んだことだと聞いているけど、それでもこんな風に具合が悪くなったときは、やっぱり心細くなるのかもしれない。 「あ、あの…相崎」 「うん?」 迷惑になるかもしれないけど。 それでも自分がこんな状態の相崎を独りにしておくのが嫌だった。 「良かったらっていうか、迷惑とか邪魔じゃなかったらっていうか、まずかったらあれなんだけど…俺さ、今日泊まってこうか?別に寝るのはソファとかで」 いいから、と続けようとした言葉は言えなかった。 相崎がいきなり起き上がり、ベッドから出ようとしたからだ。 「な、なにしてんだよ。おとなしく寝てろよ」 慌てて押しとどめる。 「電話」 「え?」 「電話。連絡しないと」 「俺の家?そんなの後でしとくよ」 別に遅い時間というわけでもないのに、ここまで相崎が焦る理由がわからない。 「違う。そうじゃない」 そのとき、背後でドサっと何かを落とすような音がした。 「お前……。カズキ君ベッドルームに連れ込んで何やってんの…。そんな…。そんなふしだらな子に育てた覚えは……!!!」 芝居がかった声に振り返るとそこには、いかにも驚いたといったような表情を浮かべた佐々木誠司がいた。 なんで、なんで、この人が――。 驚きのあまり言葉を失くしてしまう。その横で相崎が低く舌打ちする音がした。 「お前に育てられた覚えはねえよ」 「…っていうか、そんないい展開になってんだったら、電話の一本でもよこせよなあ。もう少し遅かったら見逃すとこだったじゃん。……ん?もう少し遅かったほうがタイミング的には楽しかった…?ああ、もう失敗したわ。俺としたことが」 「今、来るなって電話するとこだったんだよ。さっさと店帰れ」 「ひっどいなあ。飯持ってくるように言っといてさあ。……まあ、俺のことは空気だとでも思って、さ、続けて。応援したるから」 そんな会話が繰り広げられている間も、俺はずっとひとつのことに捉われていた。 この人、どうして相崎の家の鍵を持っているんだろう――。 考えているうちになんだか変な考えが浮かんできそうで、それを振り切るように俺は立ち上がった。 「相崎、俺帰るよ。佐々木さんいるから平気だろ?じゃあ……」 相崎の顔は見ずに、それだけ言って部屋を出ようとする。 すると、佐々木誠司が通せんぼするようにドアの前に立ちはだかった。 俺の顔を見下ろして、にっこりと笑う。 申し訳ないが、嫌な予感しかしない笑顔だ。 「帰るの?車で送ってあげるよ」 「あ、あの、自転車なのでいいです……」 俺のことがあまり好きじゃなさそうなのに、佐々木誠司はどうしてこう俺を構おうとするんだろう。 やっぱり少し苦手だ。 「今日の車は自転車載せられるやつだから大丈夫。遠慮しないで。ね?」 そう言って、佐々木誠司は促すように俺の腕を掴んだ。 引っ張られて前のめりになりそうになったところを、突然後ろからひっぱられて、体勢を崩しそうになる。 「帰るな。こいつは今すぐ帰す」 なんとか踏みとどまって振り返ると、いつのまに起き上がったのか、反対の腕を相崎につかまれていた。 「お前ね、カズキ君のことが本当に大事なら、その手離せよ。知ってる?大岡裁き」 「俺は市川の母親じゃねえよ。お前が離せ」 「それを言うなら俺だってカズキ君のお母さんじゃないもーん」 微妙にずれた言い争いをする二人を、おろおろと交互に見た。 どうやら相崎はずいぶん元気になったようで、それは喜ぶべきことかもしれない。 だけど言い争いをする二人は、やっぱりなんだか仲良く見え、複雑な気分になってしまう。 この場をどう凌いだらいいのかわからず、俺の腕を掴んだまま言葉遊びのような言い合いを続ける二人に、俺はこっそりため息を吐いた。 おわり |