遙か 番外編のおまけ
食事と入浴を済ませて、俺の部屋に入るなり篠井は窓辺によって外を眺めた。
「あー、こっちはあまり眺めよくねえな」 うちのマンションはリビングが接している南は前が開けていて、遊園地が打ち上げているらしい豆粒くらいの大きさの花火が時々見えたりするのだが、俺の部屋に接した窓からは大通りとその向こうの住宅街が見えるくらいだ。 「そうだね」 答えながら、俺はどうにも落ち着かない気持ちをもてあましていた。 篠井が気にしているらしいので、二人きりになったらちょっと告白めいたことをしてみようと思っていたのだが、俺はとんでもない思い違いをしていたらしい。どうやらこういうことは周りの状況を考えてするものではなく、機会と雰囲気を見計らって勢いでするもののようだ。 なにしろ、この緊張感と気恥ずかしさは、昼間とは比べ物にならない。しかも自分から話を切り出さなければならず、こんなことなら公園で請われた時に勢いに任せて言っておけば良かったと後悔した。 ベッドに座り、これからどう会話を持っていけばいいのかとあれこれ算段をする。 「亮くん」 窓から離れて俺の部屋を見回していた篠井に呼ばれ、顔をあげると彼は本棚の前に立っていた。 「ああ、なんか気になるのあったら読んでいいよ」 「いやー…すっげえ気になるヤツがあるんですけど」 そう言って篠井が本棚から取り出したのは、以前、篠井が川を渡って家に来た時に買ってきた漫画だった。 俺は、もともと雑誌は未練なく捨ててしまうのだが、それだけはどうにも捨てられずにとっておいてあった。なんだかちょっと恥ずかしい。 「これさー、俺があげた奴だよね」 「…うん」 「とっておいてあるんだ」 「…うん」 「俺があげたヤツだから、だよね?」 「うん」 照れくさいが事実なので頷くと、篠井はしばらく押し黙った後つぶやくように言った。 「亮くん、ほんとに俺のこと好きなんだ」 「うん」 ふと、好きだと言うのに今がこの上なくいいタイミングなことに気づく。しかし、俺が口を開こうとすると、篠井は振り返り珍しくどこか遠慮がちに言った。 「つまんないこときくけどさ…」 「あ、えっと、何?」 問いかけた癖に篠井は口ごもり、彼のために敷かれた布団の上に腰をおろすと、改めて意を決したように俺を見上げてから言った。 「亮くんはさ、もともと男も好きになれる人なの?」 思いもかけないことを聞かれて驚いた。 俺の方は篠井はずっと遥のことを好きだったと知っていたし、女癖が悪いことも耳にしていたから、彼にとって俺のことは青天の霹靂だったのだろうと思っていた。だけど俺は女の子から一度だけ告白されたことがあるということしか色恋沙汰については彼に話したことはなかったから、篠井がその手の疑問をもってもしかたのないことかもしれない。 「いや…篠井だけだよ」 そう言ってから、なんだか少し気障な答え方だったような気がして、照れくさくなって俯いた。 「俺だけ…?」 篠井の声に頷く。篠井がそれきり何も言わないので、顔をあげると、篠井は拗ねたような顔をして俺を見ていた。 「何?」 「ほんとかなあと思って」 「え?なんで?ほんとだよ」 「…前も亮くん俺しか友達いないっつっといて、そんなこと全然なかったからさー…」 そういうと篠井は膝を抱えて顔を伏せた。あれは俺にしてみれば単なる齟齬だったわけだが、なんだか少し分が悪い。 「ほんとだよ。…篠井だけだよ」 俺がそう言っても、篠井は項垂れたままでまったくといっていいほど微動だにしないので、ベッドの上から降りて傍らに膝をつく。 顔を覗き込もうとすると、篠井がいきなり俺に勢い良く抱きついてきた。 バランスを崩して布団の上に倒れこむ。 「いってえ…」 布団とは言え、背中にそれなりの衝撃を受けて思わず目を瞑る。それから目を開いて、一転して変わった視界にぎくりと身が震えた。 俺の上にのしかかった篠井は妙に真面目な顔をしていた。そういう表情をすると端整な顔がいつもより大人びて見えて、まるで別人のように感じる。 彼の虹彩が淡い色をしていることに気づけるほどその距離は近くて、とたんに心臓が耳の側に移動してきたように激しくなり響く。 どうすることもできずただ篠井を見つめていると、彼は何も言わずに親指で俺の唇をなぞるように撫でた。 「…亮くん」 いつもと違うトーンの掠れた呼び声が耳を擽る。それに俺は答えたつもりだったが、情けないことにせりあがるような鼓動に負けて、唇が動いただけで音にはならなかった。それでも伝わったようで、篠井は囁くように言った。 「…そんなに見られてたらキスしにくい」 キス。 その単語に頭の中が一瞬真っ白になり心拍数もさらにあがり、このまま彼を見つめているわけにもいかず、だけどおとなしく目を閉じるのも恥ずかしくて、もうどうしたらいいのかわからずに俺は視線をさまよわせた。 視線を右にそらした時、左頬に篠井の唇が触れた。いよいよ来るかと唾を飲んでから観念して目をぎゅっと閉じる。 しかし待ちかまえても篠井は動かず、それどころか不意に気配が遠のいて、恐る恐る目を開けると、篠井は俺に背を向けて胡坐をかいていた。 「ど、どうしたの」 「んー…亮くん、すげーびびってんだもん…」 自分にとって未知のことに戸惑って緊張していただけで、決して怯えていたわけではないのだが、どうやら篠井にはそう映ったらしい。 とはいえ、今自分が心のどこかで安堵しているのは確かだった。篠井に気づかれないように息を吐く。 「ごめん。緊張しちゃって」 「なんかさー、自分が悪代官になった気がした…」 その言い方と例えがおかしくてつい笑いそうになったが、なんとかこらえる。 篠井は肩を落として息を長く吐き、項垂れるように頭を下げた。そのしょげているような背中がなんだか可愛くて、俺は起き上がって篠井の背中に触れる。 実を言えば、安堵したのも本当だが、この体が遠ざかった時、残念だと思ったのも本当のことだ。 こうなったら言葉よりも態度で伝えてみようかと、少し高い体温を湛えた背中が振り返るのを待ってから、俺は彼の頬に自分から唇を寄せた。 |