仕事に戻ります≠ニ、確かに彼はそう言った。 「──イヴ!!」 やっとの思いで見つけた彼の背中は、いつもより何倍も近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。 「……何ですか?」 「どこ行くの?」 折れそうになる心を叱咤しながら、エリゼは強い口調で問うた。 「仕事に、」 「あなたの仕事は、ここでしょう」 振り返ろうともしない彼の背中を、強く睨み付ける。 「あなたの仕事は、あたしの執事でしょう」 「……」 「だったら、あたしの隣にいるはずだわ…っ」 「……」 彼は、黙っていた。 けれど、それまで一度も寄越されなかった視線が、初めてエリゼを射た。 その強い満月色の輝きに、思わずエリゼはビクリと肩を竦める。 「解りました」 ゆっくりと踵を返し、近付いて来る彼の顔を見上げる。 「貴女がお望みとあらば、ずっとお側にまいりましょう」 胸元に手を当て、仰々しい態度を取る彼に、心がざわめいた。 違う、そんなのじゃない。そんな言葉を言って欲しいんじゃない。 「──もういい」 「…‥え?」 気付くと、そんな風に言っていた。 「もういいッ!!」 「エリゼ様…!?」 急に走り出そうとしたエリゼの腕を、イヴの大きな手のひらが、なんなく捕まえる。 「離して…っ!」 「すみません、俺…っ」 今にも泣き出しそうなエリゼの表情を見て、イヴの顔も苦しそうに歪む。 それにハッとして思わず暴れるのを止めたエリゼの肩を、それ以上逃げられないようにとイヴは掴んだ。 視線を合わせるように屈めば、自然と顔の距離も近くなった。 「すみません、今の俺のどこがいけなかったですか?」 「……全部」 真摯に瞳を覗き込んでくるイヴの顔が直視出来なくて、エリゼは気恥ずかしさから、そんなあまのじゃくな事を言ってしまう。 「例えば?」 「……‥」 思えば、彼の本当の性格はあまり辛抱強い方ではなかったかもしれない。 それでも、執事としてあるべき行動を取ろうと、ささくれだった自分の心を和らげようとしてくれているのが解り、ほんの少しだけ枷が解き放たれた。 「…さっきの言葉……」 「言葉?」 「あなたのお望みとあらば=cって…‥」 「………」 正直なところ、やっぱりさっきの彼の態度は、あまり面白くなかった。 それでいて、冷たい態度を取られる原因が解らなくて、不安で。だから、いつもなら気にならないはずのちょっとした言い草も、ひねくれて受け取ってしまったのだ。 「ずっとお側におりますよ」 そんな心の機微が、ちゃんと彼に伝わったのか解らない。 でも、まるで子供をあやすように髪の毛をすかれる優しい指の感触に、エリゼの鼓動は早くなった。 「例え、貴女が嫌だって言っても」 顔の形を確かめるように、ゆっくりと輪郭を辿って来たそれは、ぷっくりと膨らんだ春の果実のような彼女の唇を軽く押さえつける。 「俺が側にいたいから」 「──…っ、」 本当は、そのまま抱き締めて欲しかった。 けれど、見えない境界線が、執事と主人と言う越えられない壁が、二人の間に立ちはだかっているように思えた。 「お部屋に戻りましょう」 「──待って、」 静かに離れていこうとする温もりを、エリゼは咄嗟に引き留めた。 彼に、まだ聞いていない事があった。 「さっき、どうして怒っていたの?」 「……怒る?」 不思議そうに聞き返して来るイヴを、逆に不可思議に思いながらも、エリゼは頷く。 「…誰がですか?」 ところが、予想だにしない返答にエリゼは驚く。 「誰って…‥あなたに決まってるでしょ!」 「え……俺、怒ってなんかいませんけど」 「嘘!さっき冷たい態度取ったくせに!!」 あくまでシラを切るつもりかと憤慨して怒鳴るエリゼに、イヴはバツが悪そうに頭をかいた。 「あー…‥あれは、違うんです」 「…何が違うの」 自分の服の袖がシワになるくらい、ギュッと握り締めているエリゼの手をそっと外し、イヴは少しだけ目をそらして言った。 「…嫉妬していたんです」 「……しっ、と…?」 初めはキョトンとしていたエリゼだが、その言葉の意味を理解していく内に、みるみる顔が赤くなっていく。 「な、ん…‥しっ、となん…か……」 「アダムがエリゼ様の思い出話をしたんです」 「……おもいで話?」 苦々しくそう吐き捨てたイヴに、エリゼは必死に記憶を辿ろうとするが、いまいちどの思い出の事を言っているのか解らない。 途方に暮れるエリゼに、イヴは意を決したように白状した。 「アダムが、就寝前のエリゼ様によく絵本を読み聞かせていたとか」 「……ああ」 それで合点がいった。 そう言えば、あのライブラリーには当時の自分がお気に入りだった絵本がたくさんあるはずだ。 きっとそれを見つけたアダムが何の気なしに話したのを、イヴは大層気に入らなかったのだろう。 「…‥それで、嫉妬?」 「………そうですね」 少し意地悪く、堪えきれない含み笑いと共に聞いてみれば、イヴはこの上なく素っ気ない態度で目も合わさずに答えた。 その照れ隠しに、エリゼは何だか無性に嬉しくなってしまって、今にも小躍りしたい衝動を必死に堪える。 イヴが、自分の過去に嫉妬してくれている。 「…ありがとう」 「……?」 それが、とても愛しい事のように感じて、エリゼは小さくそう呟いた。 その瞬間、自分の手を握る彼の指先に、少しだけ力が入った気がした。 「戻りましょう」 「……うん」 優しく手を引かれ、窓から射し込む西日の眩しさに目を細めながら、エリゼはあるささやかな願いごとを口の端にのせる。 「……ねぇ、イヴ」 「はい」 「今度は、イヴが読んで聞かせてね」 そのセリフに、前を歩いていた彼の足が止まる。 「……私が?」 「だめ?」 少し戸惑ったように聞き返してくるイヴに、エリゼも不安になって見返す。 「いえ…‥でも私は、」 「いいの、そんなの気にしないから」 彼の言わんとしている事を察し、エリゼは緩く首を振った。 彼は気にしているのだ。自分があまり文字を読むのが得意でないのを──Genesisの組織の中で育って来た彼は、通常の教育を受けていない。だから、ほとんどの読み書きは、アスコットに来てから覚えた。 「読んでよ。あなたは、あたしの執事でしょう?」 それでも、たったそれだけで他の誰かと引け目を感じる事なんてして欲しくなくて。それでも、あなたは自分の立派な執事なのだからと、自信を持って欲しくて。 伝えたい言葉がたくさんあった。否、ありすぎてうまく言い表せない。 「…どんな、お話がいいですか?」 けれど、その想いだけは、十分に彼に伝わったらしい。 西日に包まれて輝く彼女の姿を愛しそうに眺めながら、イヴはやわらかく微笑んだ。 「……じゃあ…悪い魔女にかけられたお姫様の呪いが、王子さまのキスで解ける話…‥かな」 ほんの少しだけ淡い期待を抱いて、エリゼは答えた。 すると、イヴはその期待を裏切って、エリゼの額にキスを落とした。 「では──とびっきり甘いお話をご用意致します」 「……っ」 でも、それだけでエリゼの心は、泣きたいくらいに切なくなったのだ。 ─お姫様の呪いを王子様は、解く事が出来るのでしょうか─
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