いよいよ寒さが、本格的になろうかと言うこの季節──
慢性的な人手不足に悩んでいたアスコット家は、非常に厳しい状況下に置かれていた。
「参ったな」
遠ざかって行く婦人の後ろ姿を見つめ、イヴはポツリとそんな言葉をこぼした。
「奥様は、何て?」
その様子を少し離れた所から眺めていたスズネが、竹箒片手に小走りに駆け寄って来る。
ここ数日不在だった庭師の代わりに、地面に降り積もった落ち葉を掃除するのが、今日の彼女の仕事のひとつでもあった。
「しばらくの間は、大事を取って休みが欲しいって」
「…そんなに悪いの?」
心配そうに眉根を寄せる彼女の不安を取り除くように、イヴは小さく首を振ってみせる。
「そう言う訳じゃない。ただ年齢も年齢だし、あまり無茶はさせたくないんだ…って」
つい今しがた言われたばかりの言葉を復唱しつつ、イヴは何かを思案するように、扉の外の景色に目をやった。
長年、アスコット家の庭師として働いていたジェラルド氏の体調が芳しくないと言う報せが届いたのは、もう三日前の事。
齢60を超える高齢と言う事もあり、こちら側としてもあまり無理はさせたくないのだが、正直人手が足りなくて首が回らないのが現状だった。
「とりあえず、その間は俺とスズネで……ん?」
そう言って踵を返そうとした時、不意に塀の向こう側の大通りの方からガラガラと蹄の音が聞こえてきて、イヴは思わず動きを止める。
程なくして門扉が開かれ、一台の黒塗りの馬車が慣れた様子で敷地内に侵入して来るのに、スズネと顔を見合わせた。
そして、胸ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認してみれば、時刻はAM6:00ジャスト。
朝帰りに、相応しい時間だった。
「スズネは先に寝室に行ってて」
「…ええ、でも庭掃除は?」
「あとで俺がやるから、いいよ」
何か言いたそうなスズネを視線だけで押し止め、イヴは燕尾服の裾を翻して馬車へと向かう。
横殴りの風で乱れる髪筋を押さえながら、御者台にいる男と一言、三言、言葉を交わした後、頑丈に閉められているその扉に手をかけた。
「──ちょっ…、」
すると、それを勢い良く開け放った瞬間、まるでビックリ箱か何かのように、中から飛び出して来た人影に目を剥く。
慌てて抱き止めるも、その全身から漂ってくるキツいアルコール臭に、眉をしかめた。
「…‥ったく、」
一体どれだけの量を飲めば、こんなに泥酔する事が出来るのか。
そんな辟易する気持ちを押し殺しつつ、イヴは試しに彼の体を揺さぶってみる。
「…シェイル様、起きて下さい」
だが、やはり何の反応も示さないのに小さく嘆息し、仕方なくその体を抱えるように、脇の下に腕を通した。
邸内の方から、キャーと言う悲鳴めいた声が聞こえる気もするが、この際気にしない。
すると、まだ馬車の中に人の気配がある事に気付き、イヴはハッと身を強張らせた。
何だか嫌な予感を感じつつも、恐る恐る中を覗けば、どう見ても女物としか思えないブーツをはいた華奢な足先が見えて、言葉をなくす。
「……うー…ん…」
「…最悪だ」
暢気に寝言なんかを漏らす彼の横顔を射殺さんばかりに睨みつけ、酒の勢いと言う名の男の愚かさを呪った。
咄嗟に頭に思い浮かんだのは、あのいつも冷静沈着なメイド頭がみるみる内に大悪魔サタンのそれへと変貌していく有様。
…‥これは、まずい。
次に取るべき行動を熟考するまでもなく、イヴは馬車の中に半身をねじ込ませた。
「あのー、非常に申し訳ないんですが、今日の所はお引き取り頂いて…‥」
わざとらしく言いにくそうに振る舞いながらも、どうせだったらその姿を拝んでやろうと、躊躇なくその全容を目にし、違う意味で驚愕する。
「…お…とこ?」
「あ、あの…」
女物のブーツをはいているからして、てっきり女だと思い込んでいたのに、その変声期特有の掠れた低い声や、女にしてはやけにガタイのいい体つきに、開いた口が塞がらなかった。
「じ、実は、僕…‥」
気恥ずかしそうに頬を赤らめモジモジしている様子に、出来ればこのまま卒倒してしまいたいとさえ願う。
「………」
アンビリバボー。どうやら、彼は男色の道に目覚めてしまったようだった。
「帰って下さい。今すぐ。そして、この事は誰にも言わないで下さい」
「あ…っ‥、待って下さい…!ちょっとだけでいいんです!!僕を…」
くさいものには蓋をしろ精神で、限りなくハイスピードで扉を閉めようとしたイヴに、青年は追いすがる。
「ごめん、無理。本当に無理。何があろうと、それだけは絶対に無理」
真顔で激しく首を振り、何かを勘違いしている様子の彼に、青年は解ってもらおうと渾身の力で叫んだ。
「こ…ここで働かせて下さい…っ!」
「──…は?」
それは、意地悪な神様が用意した、青年を幸せに導くための手引き書のプロローグ。
2010.11.24
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