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さよなら、それはこの世で最も優しく、最も易しく





あの人は、いつだって泣いていた。

酒に溺れ、自分自身を見失いながらも、いつか誰かが助けに来てくれると信じていた。


それはひどく滑稽で、愚かで、哀しい光景だった。


あの人は世の中の総てを恨んでいたし、憎んでもいた。自分の力だけではどうする事も出来なかった運命を呪い、この世界を蔑んだ。

どうせこの世はちっぽけで、薄汚れていて、神様なんているはずもない場所。

だから、生きていたってつまらない。死んだ方がマシだって。


そのくせに、あの人は死ぬ勇気さえなかった。


『愛してるわ』
『一緒に逃げましょう』
『あたしには、あんたしかいないの』

毎晩、客の男たちに同じ言葉を吐き続け、ベッドの上の甘い嘘に浸り、現実から眼を逸らしていく。

逃げられるわけないのに。叶うわけないと分かっているのに。



「…ヤ、な…夢…」

目を開けて、真っ先に飛び込んできた見慣れた天井に、思わずそんな言葉が漏れ出た。

小さく溜め息を吐き、体勢を変えようと身じろげば、寝汗で肌にまとわりつくシャツの感覚が気持ち悪くて、しかたなく起き上がる。


時間を確かめようとベッド脇のサイドボードの置き時計に目をやれば、まだ寝入ってから1時間程しか経っていなくて、その眠りの浅さに再び嘆息した。


誰も、この悪夢から救ってくれない。

自嘲めいた独り言を胸の内でこぼし、倒れ込むようにまたベッドの上に寝転べば、窓の外の虚空にぽっかりと浮かぶ満月が見えた。


「…嫌な…色」

無意識に爪の先で唇を引っ掻き、網膜に焼けつくような眩しさに目を細める。


あの人と同じ色だ。
愛も希望も未来さえもなくしたあの人が、唯一輝きを失わなかった『色』

そして、自分に遺されたった一つの呪いの『色』


「……っ」

窓の外で揺れる折れた木の枝が、冷たい夜風に吹かれて振り子のように動いていた。

規則的に左右に振れるその枝は、まるで赤い薔薇のように散ったあの人の最期みたいで。
目蓋の裏にこびりついて離れない、今までで一番美しかったあの瞬間。


「──やめろ」

低く呻いて、噛んでいたひとさし指の関節から、口を離す。

くっきりと歯形の残ったそこを苛立つ感情で眺めた後、漆黒の空から降り注ぎベッドを丸く縁取る月光から逃れるように、素早く身を起こした。


そして、胸の内に込み上げて来る苦いものをごまかすように、サイドボードの上の水差しをひっ掴み、一気にあおる。

受け止めきれなかった透明な滴が口端を伝い、口内から胃へと滑り落ちていく水の冷たさが、悪夢にうなされた熱をさましてくれるようだった。


ほとんど息も吐かず容器を空にし、荒い呼吸のまま痛いくらいに口元を拭う。


『いらない』

それでも、拭い切れなかった夢の残滓(ざんし)が、透明なガラス瓶に映り込んだ自分の満月色の瞳と目があうことで、またこぼれ落ちた。


明日が来るなんて、誰が言ったんだろう。
明日なんて来なければいいと、何度も願ったのに。

たった一人ぽっちの無力なガキが生きていくには、現実はあまりにも残酷で。


両の手で顔を覆った指の隙間から、わずかな風の動きと人の気配を感じて、咄嗟に枕の下に隠した銃の感触を確かめる。


「……エリ…ゼ…様?」

だけど、そこにいたのが無害な少女だと知り、慌てて駆け寄った。


「どうして、ここに…‥」

普段なら、絶対に主が足を踏み入れることのない場所だからこそ、嫌な想像がかきたてられる。

不逞(ふてい)の輩が入り込んだのだろうか。それとも、彼女はもう何かされてしまったんだろうか。


「……いかないで…」

しかし、それらの妄想をことごとく打ち破る真実が、抱きついてきた彼女の華奢な肩に触れた途端、洪水のように頭の中に流れ込んで来た。


ああ──


「…怖い、夢を見たんですね」

なだめるようにそっと頭を撫でてやれば、指に絡み付いてくる細い銀糸の感触に、心まで捕らわれる。

自分の腰に回された細い腕に力が入ったのに、堪らなく愛しくなった。


もう離したくない。このまま鳥籠の中に閉じ込めておけたら、どんなにいいか。

卑怯な手なら、いくらでも使えるのに。



でも、もうそれは叶わない夢。



「エリゼ様、寝室に戻りましょう」

薄い夜着一枚で、寒さに震える子猫のような彼女の肩をそっと包み込んだ。

途端、それまでモノクロームだった世界に、鮮やかな『色』が混入して来たみたいに、体の奥底で激しい火花が飛び散った。


許さない。

自分の中に醜い爪痕を残すあの人も、彼女の中に強い「色」を残したままのあの男も。


「大丈夫、貴女が眠りに落ちるまで…ずっと側にいてあげますから」

深い吐息と共に直接耳朶(じだ)に吹き込んだ言葉が、彼女の中に「色」を残すことを願って。


──強い『月痕』は、まだ消えない。



2010.10.3


『楽園─EDEN─』
A巻〜C巻までの間の出来事。


おまけ
あとがき



Thanks.吐く精
風雅

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