「いいことを、しようか」



まだ幼さの残る顔を笑顔にして、男はそう言った。意味は解らなかったけれど、“いいこと”の単語に敏感な少女は目を輝かせて男に近寄る。



「何アルか、いいことって!」

「物凄くいいことだよ。とても楽しい。やる?」

「やるー!」



とても楽しくて、良いこと。
そう聞いた少女は特に何も考えず、ただこの先男がくれる楽しさに期待を膨らませた。
男はまた笑う。笑う。



「じゃあ、しようか」




そう言って男は、
少女の服に、
手を掛けて、










「………っ!」



ぞわりと鳥肌が立って、私は勢いよく跳び起きた。……汗が、止まらない。今日はまた、随分と嫌な夢を見たものだ。いや、この夢なら幾度となく見る。今日は何故か、酷く鮮明だった。


「っは、はあ、っ……」


何度か荒い呼吸を繰り返し、煩く響く心臓を黙らせる。すると今度は身体が震え出し、私は慰めるかのように自分自身を抱きしめた。
この夢を見た後は、いつもこう。


「………、」


時計を見ると、真夜中の三時。まだまだ起床時間まで余裕はある。だけど再び寝ようなんて気にはならなかった。なれなかった。段々と呼吸は穏やかになり、身体も落ち着きを取り戻した。
……少し、外にでも出ようか。
その辺の公園くらいまで歩きたい。何となく、そんな気分だった。


「………」


一人暮らし故、見送りも心配してくれる人も居ないけれど、特別淋しくはなかった。わかってる、私は笑顔で接しておいて、いつも他人を拒んでる。その理由を考えたところで、また気分が悪くなるだけ。唇を噛み締めて悪夢の繰り返しに堪えたところに、感情のない電子音が響いた。



「……」



携帯の着信音、こんなにださかったっけか。そんな事を考えながら、私は閉じられた機械を片手で開いた。ディスプレイには「非通知」の文字。



「………、はい」



いくらか迷って、私は通話ボタンを押した。こんな真夜中に通話を申し込んでくるといえば、大方酔っ払いの間違い電話か何かだろう。怒鳴りつけてストレスを発散するのも、悪くない。
そう思った、矢先。




『もしもし、神楽?』




響いた声に、先程の悪夢が蘇る。どくん、どくん、跳ねる心臓、震える身体。なんで、どうして、いまさら。
疑問と不安と恐怖が渦を巻く。




『もしもーし。寝呆けてる?』

「……おま、え」

『あ、起きてた。何か久しぶりに神楽の声聞きたくなっちゃったんだ、兄ちゃん』



その声色はあんまりにも愉快そうで。アイツは今もきっと、笑顔に違いない。あの時と、同じように。そう思うと、途方もない怒りがふつふつと奥底から沸き上がってきた。



「…ッお前…今更何の用アルか。もう二度と関わるなって言ったはずネ」

『用?兄ちゃんが妹に電話するのに用件が必要なの?』

「用件があってもお前なんかの声は聞きたくないアル!!お前は忘れたかもしれないけど、私は…っ」



お前はもう興味すら無いだろう、ましてや記憶になど残ってもないだろう。私はお前の遺した傷で、夜な夜な苦しんでいるというのに。



「私は……っ」

『誰が、忘れたなんて言ったの?』



いよいよ大声を張ってしまおうかと口を開いた瞬間、男の発言が耳を裂いた。その意外過ぎる発言に、開いた口が塞がらない。いま、おまえは、なんと?



『忘れてないよ、兄ちゃん。ちゃあんと覚えてる』

「…、…っ覚えてる癖に、今までよくのうのうと…!」

『怒らないで、神楽。俺、忘れてないから。忘れてないから、ちゃんと、』



がらがら、と漫画に有りがちな音がして、私は目を見開いた。違う、今のは電話の向こうからの音じゃない。じゃあ、まさか。のろのろと視線を窓の方へと遣れば、そこには何度も何度も何度も見た、あの笑顔、が。



「こうして、会いに来てやったんだろ?」

「…かむ、」



その忌まわしき名を呟く前に、奴は私の身体を床に押し付け、あろうことか自分はその上に乗った。心臓がこれでもかという程激しく打つ。やめてやめてやめて、これではあの時とまるでいっしょじゃないか。



「っ止めろッ、退け!!」

「うっさいな、お前に拒否権あると思ってんの?大体、責任取りに来てやった兄貴にそんな言葉はないんじゃない?」

「責、任…?」

「お前、まだあの事引きずってるんでしょ?でもさ、俺らがこうして愛し合っちゃえばいいだけじゃない?」

「……な、に」


「そうしたら神楽はただ単に、愛してる人に初めてを捧げただけになるんだから」



そう言って兄は、私の服に手を掛けた。あのときと、いっしょ。違うのは、私の態度、二人の身体。兄の笑顔は、まるで変わっていなかった。




「いいことを、しようか」








そうして今夜もまた、悪夢は蘇るのだ。



あきゅろす。
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