Blue org V
-1 夜に支配されたスラム街を歩く、一人の男性。 紅い三つ編みは、歩幅に合わせ、黒いコートの背を跳ねる。 それは、今日も彼に『仕事』の依頼があったことを示している。 そして、完璧に遂行したことも。 景色も建物も空気も汚れた中、甲高いブーツ音だけが反響する。 満足に舗装すらされていない、道と呼べない道を直進する。 砂地から粉塵が巻き上がり、埃っぽい。 ゴミか生物の遺骸か分からない汚物が、路傍に転がっている。 とても、不衛生だ。 「………」 ふいに、紅の三つ編みの男性──ゼロスの歩みが止まった。 いや、止めさせられたと言うべきか。 そして、彼は懐から抜き身のコンバットナイフを取り出す。 背中に突き刺さる、負の気配を感じ取ったのだ。 その正体は殺気。 背後からの『下手』な殺気であった。 それは錆びて、刃こぼれをした刃物のようなものだ。 鈍器にも使えない、能無しも同然。 そんなモノをゼロス相手に漂わせるなど、不帰を望んでいるとしか思えない。 殺気を抑えることも出来ない刺客は、おそらく三流だろう。 優れた得物と巧技が備わっていようが、目標に気付かれては、職名が廃るというもの。 目標が死を理解する前に、生命を断ち切ってやるのが一流の腕前。 死んだことすら分からないまま、引導を渡してやる。 つまりは、一瞬間の刻を用い、死神の下へと送るのがセオリーなのだ。 そう思うゼロス自身、自らの思考を嘲笑った。 真っ当な死神は、自嘲が大好きなようだ。 なぜならば、彼は死神だからだ。 「…死を望む者、死を畏れる」 ゼロスの呟きに、闇は畏敬する。 その静かなる迫力は、夜の暗黒すら霞むほどだ。 死神の気迫は、精神的に刺客を圧迫した。 敵の速度が少しだけ鈍るが、ゼロスにとって反撃に転じるには充分な時間であった。 ゼロスは口元に嘲笑を刻む。 「手加減は、ナシだ」 その呟きは、刺客の耳に入ったのだろうか。 聞こえたとしても、躊躇はしまい。 威圧感に大気が渦巻き、旋風(つむじかぜ)が起こる。 ゼロスは右回りに身体を半回転させ、右腕に重心を乗せた。 加速力を得た瞬間的なエネルギーは、彼が逆手に握るコンバットナイフへと伝わる。 その得物は鋭利さも相まって、凶刃と化した。 空を裂いた刃は、血肉を欲する。 鋭い輝きが黒に閃いたのは、一瞬。 ナイフは、背後の敵に食らいついた。 切っ先が相手のこめかみを捉えると、ゼロスは渾身の力で横方向に腕力を行使した。 粘膜の硬さなど、卵のようなもの。 こめかみの延長上にある、両目を横に引き裂く。 眼球と血雫を抉り出し、刺客をよろめかせた。 それでも、苦鳴すら発しなかったのは自尊心に対する意地か。 無論、これくらいの傷で相手が退くとは、ゼロスは思ってはいない。 また、姿を見られた以上、死神が目撃者を生かしておくはずがない。 三つ編みをなびかせ、ゼロスは間髪入れずに追撃する。 さらにもう半回転、計一回転し、下からナイフを振り上げる。 今度は、ノコギリ状の刃の側が追撃を担う。 さすがに、これは絶叫せざるを得なかった。 刺客の鎖骨の中心に肉没した刃は、食道と肺管を同時に外気に晒す。 そのままの勢いで上昇し、縦に喉を裂き、呼吸を断つ。 首の後ろ側から切っ先が顔を覗かせつつも、上へと上がっていったのは、鍔元深くにナイフが突き立てられているからだ。 その際、声帯も破壊した。 激痛の副産物である、耳障りな絶叫は無音に変じる。 しかし、喉笛を殺しても、人体裁断の手が休まることはない。 ナイフは下顎の骨をも真っ二つにし、刺客の分厚い唇と、鼻を二枚に卸した。 血脂の助けを借りたこともあり、ナイフの勢いは停止しない。 頭蓋骨の前方も同一にしてやる。 刃が眉間を走れば、血と脳髄が巻き上がった。 「下らねぇな…」 ゼロスと対峙するには、力量不足であった。 下方が突出した十字を顔面に刻まれ、刺客は倒れた。 動脈を切断されたのだろう。 喉の切り傷からは多量の鮮血を、口から血塊を吐き出した。 痙攣により、小刻みに血流が血溜まりが作られる。 致命傷ではあるが、致死には至っていない。 放置しておけば、やがて魂は還るだろうが、不安要素を残しておくほど、ゼロスに慈悲心はなかった。 しかし、半殺し状態で放置されるほうが、無慈悲で残酷だ。 苦痛というストレス下で、惨めにも朽ち果てるのだ。 だから、ゼロスは『優しい』のかもしれない。 ゼロスはサファイアの双眸で刺客を射抜いた。 この地上において、最高の凍氷をはめ込んだ眼光だ。 そこにあるのは、狂気に毒された残虐性のみ。 破壊を愉しむ狂獣そのもの。 その愉悦を行動に移す過程には、良心や躊躇いはありはしない。 ブーツの爪先で、ゼロスは刺客の喉元を踏みつける。 そこには、彼自身がかっ捌いた十字の深手。 全体重を傾け、強く深く圧迫する。 その様は、聖者の血に塗れた神聖なる十字架を否定するかのようだ。 圧され、刺客の口からは更なる血反吐が噴出した。 そんな彼から如実に漂う感情は、純粋な恐怖であった。 だから、重傷に苦痛を重ねられようが、痛覚は機能しない。 恐怖が、感覚を麻痺させている。 しかしながら、幸いなことに、それは長くは続かなかった。 恐怖心の消去の代償は、生命そのものだった。 「今、楽にしてやるよ」 振り下ろされたブーツの踵は、一発で刺客の頸骨を粉砕した。 一瞬だけ吹き上がる鮮血。 柔らかい肉と硬い骨が潰れる音の狭間には、脊髄も含まれる。 生死の判別など、明々白々だ。 常人ならば、肉類が口にできないような悽愴さだが、死神の感性にそれは欠落している。 「人間如きが…」 ゼロスは遺骸にひと蹴り入れ、死神に楯突いたことを後悔させてやる。 スラム街に入った途端、いきなりこうだ。 待ち伏せされていたらしい。 裏社会にて暗躍する職業に就いている以上、こういったことは別に珍しくもない。 仇討ちか、ゼロスの存在を疎む同業者か、裏を通じて軍に雇われた者か。 思い当たる原因は多い。 最近になってはその回数が異常だった。 依頼主の名前を吐くまで締め上げるのも、うんざりだ。 苛ついてしまうのも、仕方がない。 だから、ゼロスはこのまま野ざらしにしてやることにした。 良い『見せしめ』になるからだ。 死神に敵対するなど、馬鹿げているのだ。 ◇◇◇◇◇ 待つ者もいない、孤独の帰宅をゼロスが完了したのは、真夜中であった。 彼が真っ先に向かう先は、己の寝室。 シャワーを浴びる前に、確認しておきたいことがあったのだ。 窓を飾るのは、上弦の三日月。 その上下は、研ぎ澄まされた刃物のように鋭い。 月は欠けようとしており、新月が間近い。 蒼光の出逢いから、半月ほどが経過しようとしている。 しかし、天使が目覚める兆候は、一向に感じられなかった。 ゼロスの寝台を占領し、今もなお、昏々と眠り続けている。 その間、ゼロスはソファでの就寝を余儀なくされている。 寝違えるとか、肩が凝るとか、寝冷えするとか。 などと当人はぼやくが、怪我人を追い出すほどの、大人げなさはない。 「…ふぅ」 ゼロスはアンティーク風の椅子に、どっかりと腰を下ろした。 思い切り、背もたれに体重を預ければ、ぎぃ…と木製音が軋む。 しばらくは、その様子でぼぅ…としていた。 双眼だけが暗闇の中、僅かに身じろぐ。 呆けたサファイア色の視線をさ迷わせ、捉える対象を模索する。 コートやグローブを外すのすら、億劫そうな様相だ。 心なしか、自慢の三つ編みも萎えているようでもある。 「…ん〜…」 何気なく、ベッドのサイドテーブルが視界内に止まった。 そこに立てかけられているのは、一振りの刀剣。 立てかけられている、と表現するよりも、それ自らが自力で起立しているかのようだ。 そのような威厳を、剣は放っている。 そう為すのは、完全な設計が成された賜物であろう。 当然のことながら、それはゼロスの所有物ではない。 天使の腰に提げられていたものだ。 何度見ても、ゼロスは感嘆の溜め息を洩らしていた。 美人が持つものは、やはり美しいらしい。 これ以上の行動は必要とされていないため、ゼロスは刀剣の観察なんかを始めた。 最初に目が行くのは、鍔の部分であった。 境目のそこは二重に構成され、朱色と金色のコントラストが重ねられている。 非常に鮮やかだ。 そして、その全体には細密なレリーフがびっしりと彫られていた。 それほどの密度でないが、鞘にも同じようなものが刻まれている。 柄の2カ所には、澄んだ朱色の宝石が施されていた。 色から判別するには、ガーネットの類だろう。 かなりの高純度であるのだろう。 気泡すら見られない。 まるで、血液を凝固させたかのように真っ赤である。 もはや、この刀剣は片刃の装飾刀に等しい。 実戦を想定した真剣とは、とても思えたものではない。 しかし、鞘の内に収められている刃からは、神々しい何かが察せられた。 『ヤバいもの』であることは察しが付く。 得体の知れない何かを、感じる。 触れるだけで呪われてしまいそうな…、そんな感じがする。 関わらない限り、安全と言えるだろう。 自身の考えを付け加え、客観的にまとめると、観察は終わった。 「…」 再度、視線を泳がせた。 次に目に止まったのは、朱色の剣の持ち主。 蒼い翼の天使。 ゼロスは席を立つ。 そして、天使の私物と化した、かつての自分のベッドの傍らに所定した。 天使は白いシーツに身を埋め、今なお、瞼を伏せている。 当初よりも顔の血行は良くなったが、しかしながら、やつれているのは否めない。 目の下には、うっすらと黒い痣が浮き出ている。 慢性的な『くま』であろう。 人工の照明がなくとも、ゼロスには視認できる。 死神の暗順応は秀でているからだ。 傷については、背中以外、ほぼ完治している。 やはり、人間のそれとは比較すらできない、高い治癒能力を有していた。 手当ては最初の数日間だけ、包帯を取り替えただけだ。 背中は手当てを必要としているにせよ、全体には手の施しようがない。 NEXT [グループ][ナビ] [HPリング] [管理] |