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<命の水>は疲れたこころのケアをする活動をします。
大切なあなたが元気を取り戻すための一滴の水となれることを願っています。
いつでも乾いたこころを癒しに来てください。
小さな話を書いてみました。これはフィクションです。お楽しみください。



「サンチャンタン・三皿灯」                

人の流れについていく。人波はあちらからもこちらからも、やってきては四方へ拡散し、そしてまた、どこからともなく寄って固まっては、うねりを作り流れていた。その波に飲まれぬようにとボニーの靴の動きを追っていく私。
あたりはうす暗く、暮れ始めた街に街灯がともる。その灯りを合図にするように露店商の客引きの声が大きくなり、道の中央を占領してささやかな店が立ち並んでいく。暗黙の了解で、人は左右に分かれ、秩序を作り、露店商の両端を歩いていくのだった。

サンチャンタン。五叉路に三つの灯がともっているここは、生きていくのに必要な物のすべてをまかなうことができた。
そして、マカオの喧噪の影に隠れた小世界。

道の左右にいくつもの狭い路地が交差し、迷路は深く沈んだと思えば、どこかで地上に繋がっていた。建物の後ろや横に隠れるように沈み、とぐろを巻いた爬虫類のようにうねっているのは、パイプや電気の配線だ。少しでも振動が加われば、いとも簡単に崩壊しそうな瓦礫の山のように重なってみえるビルとビル。

ボニーは暗い階段を手で指し示した。
階段の脇には住人のポストが並ぶこの細長いビルに、いったいどれほどの人がいるというのか、ポストは潰れ、折れまがり、しなだれかかって、やっと互いを支えていた。

ボニーは用心深く辺りを見回し、誰もいないことを確認するとバックから鍵を取り出し鍵穴に入れた。
さびた音を鳴らし、鍵が開く。暗い階段を上っていくともうひとつの鍵をポケットから出した。ドアが静かに開くと同時に湿った空気が首にからまってきた。
海からのべたついた風と、うだるような昼間の熱風が混ざって、空気はくたびれた犬のように息をひそめ、たゆっていた。
三つの小部屋があり、二つの部屋には二段ベットが置かれていた。ひとつの部屋にベットはなく、床に畳まれた藁と寝具があり、衣類と一緒に鍋や釜が整然と並べられていた。

床には女が寝ていた。
ボニーの顔を見ると、体だけをこちらに向けて微笑む女はボニーの母親だった。母親は中国語とビルマ語しかできない。仕事をしているのかとボニーに聞いたことはない。ボニーにしてもホテルの売店からなかなか昇格できないことを嘆いていたからだ。英語と中国語にビルマ訛があるから、あるいはマカニーズではないから、とさまざまな納得できる理由と、理不尽な理由がからまっていた。私とボニーはここでは異邦人どうしとして、だから、親しくなっていった。

肌を刺す昼間の光線にあっても、この部屋だけは太陽が顔をのぞかせることはなく、暗い部屋は熱だけが異様に上昇し、あらゆるものから神経を麻痺させていくように重さだけが残っていた。鋭角に尖った感覚を鈍化させ、沈澱させ、上澄みだけを同化させていく。それでいい。それが、この街で上手に生きていくことなのだとボニーいう。

ドアが開いた。
リンダが入ってきた。
ボニーと同じ年の彼女は、同じようにビルマからやってきて工場で働いていた。彼女は故郷をミャンマーと呼ぶことに抵抗を持っていて、必ず「バーマ」と訂正して話すのだった。その「バーマ」には何年も帰っていないリンダは、この街で「バーマ」の男に恋をし、
このサンチャンタンで新しい命を宿したのだった。身重の体を重そうに揺らしてベットに倒れるリンダの髪は、汗と埃でべっとり頬に張り付いていた。オイルの匂いは男のバイクに乗って帰ってきたからだろうか。

ドアが開く。また誰か戻ってきたのか。
ボニーは唇に指をあて、黙っているように促す。
ドアの向こうから顔をのぞかせた小柄な老女は、背を屈め、杖をつき、怪訝そうな目で私を一瞥すると、何も言わずに、小さく鼻を鳴らし奥に消えていった。
この全部屋のオーナーだという彼女も、この空間にどこか体を休める場所を持っているのだ。
小部屋にはいくつものドアが存在し、幾人もの住人が入れ替わり、眠りをむさぼっては、また街のどこかに消えていくのだと思わせた。

ボニーの母親が呼んでいる。
共同のキッチンで彼女は料理を始めていた。
細かく刻まれたナマズをニンニクで炒める。
ピーナッツの粉と米粉をナンプラー、塩、胡椒、ターメリック、とうがらし、レモングラスなどで味をつけていく。
魚の出汁に複雑な香辛料がからみあい、それらは麺のなかにすべて閉じ込められる。
ポルトギース・ソーセージの辛い刺激ではなく、優しい滋味、慈愛のこもった温かい麺モヒンガーは、熱帯の国の優しく温かい青年たちの血や肉になっている。

麺はあくまで白くやわらかく喉を滑り落ちるスープ麺、モヒンガー。
魚と米とニンニクが、熱いスープの中で主張しあいながらも融合していく。好みでゆで卵、揚げ玉、もやしなどをあしらう。
ビルマの川が見え、緑に広がる田園風景が見え、黄金に輝く収穫の畑が見える。

サンチャンタン。三つの灯りのともる場所。三つの皿が出会う場所。マカオ、ポルトガル、ビルマを同時に食す所。

母親はなおも額に汗を浮かべ、スープを継ぎ足そうとして、モヒンガーの鍋をいつまでもかき回していた。






            

表紙ページ

「澳門日和」マカオびより
 
タイパ島の小さな集落を歩く。ポルトガル様式の家もここでは中国的な大家族主義に飲み込まれていく。時間をくぐりぬけてきた煉瓦の外壁になびいている洗濯物がそれを語っていた。
営まれているのは抑揚の激しい広東語の飛び交う日常であって、けっしてヨーロッパの静かな漁村の生活ではない。
左に中国大陸が見える内湾があり、右には小高い丘の上に立つ教会があった。
路地の中央にある一本の大木。100年以上そこに生き続けている太い幹を持つ木は、その存在だけでなく、坂道の古道を美しい絵画のように引き立てていた。
プールは確かこの辺りだったろうか。
公式の室内プールで黙々と一人で泳いだのは冬の澳門だった。
ここに居たこと、ここを歩いたこと、そして澳門で過ごしたすべての時間を忘れたくないと思っている。
街に流れていた炭や香辛料の匂いに包まれながら歩いた路地の隅々には、まだ柔らかな日差しの記憶が残っていた。


「喜蓮珈琲」は民家の軒先で軽食や茶などを出す店だ。安っぽいプラスチックの低いイスに不安定なテーブル。男たちは気ままに茶やコーヒーをすすり、肉汁のかかった白い飯を口に運ぶ。
日がな一日、この茶屋で時間をつぶす男もいれば、労働で流した汗のしずくを額ににじませて、駆け込んでくる男もいた。
一杯の珈琲を手にする。
ここでのスタンダードはインスタント・コーヒーを甘く味付する。痛むような甘さの感覚がぼやけていた記憶の断片を繋ぎ合わせて始める。
タイパ島で葡萄青菜湯と焼沙魚を食べ、非州鶏を味わい、コロアネ島で本酒を楽しんだ。
「龍記酒家」で菜遠八湯鮑を、「明苑粥麺」で鮮明鮑粥を、「順義牛乳」ではできたての朱古加鮮乳を飲んだ。



広場からセントポール大聖堂に向かう三叉路には毎日花売りの老婆が立っていたものだ。そのたたずまいは老婆ながら美しいものがあった。
とりわけ雨の日は美しい。
深緑色の厚手の雨合羽に雨の粒がしたたり、瑞々しい葉のように光っていた。花売りが運んでくるのは白い花と決まっていた。
大きな籠に入ったジャスミンのような香りを放つ白い花は。美花。メイファ。
前に濡れた合羽と白い花の記憶は時間を越えて現実感を持って迫ってくる。記憶の中に手を伸ばすと花はかすかに揺れ、緑の茎は反対側に背を反らせた。


年老いて痩せた男がリキシャを引く。リキシャの車輪が広場に敷き詰められた石畳にはまる。ふらつく男の足元には肩に掛っていた男の布が落ちてくる。慌てて男は布をすくい上げる男の横では、カップルが串にささったモツ煮を選んでいる。
そうだ。あの菓子を買いに行こう。
澳門はパンと菓子が上手い。
ポルトガルに中国が融合して、この土地でしか味わうことのできないものが生れた。粉と卵と砂糖の甘い誘惑。



タイパ島からさらに南へ向かってコロアネ島に着く。
村の中心にあるバス停の前はロータリーになっていて、小さな公園の前には村人の胃袋を満たすに十分な市場があった。その向かいである。
人だかりの入り口を覗くと「コーロストウズ・ベーカリー」という看板が見えた。
人ごみをかき分けると曇ったショーケースの中に並んでいたのは、丸く黄色い小さな菓子とドライフルーツを入れた焼き菓子だった。
人々は一様に黄色い菓子を求めた。そしてその場で口に運んでいった。
ケースから出ていた菓子は白い湯気をたて、卵とバターの匂いをふりまいて誘う。思わず一つ買い求め、口に運んでみた。
サクサクとしたパイ生地の中から甘いカスタードクリームが口に広がる。卵とバターの懐かしい優しさ。味覚の原点のような甘さだった。
胎内から飛び出し、まず口にしたものは母乳であったろうし、離乳食として口にした最初のものは卵ではなかっただろうか。卵やミルクを口にした時の口腹はその懐かしさからくるのかもしれない。



「ロードストウズ・ベーカリー」のエッグタルトはこの村から出発し、香港に渡り、日本に住み着いた。
銀座でみかけるこのエッグタルトが、あの小さな島の小さな店から始まったことを何人の客が興味を持つだろう。
たとえ名前が変わろうと、パッケージが変わろうと、エッグタルトと食べる日は澳門日和になる。
味覚の思い出は視覚の記憶より鮮明に心に残り、また甦る。味を頼りに懐かしい土地の記憶の風景をたぐりよせることができる。



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