※ユニオングラハム・CBニール
これほど地上へ目を向けたのは初めてのことだった。 人気のない広大な土地から、一点、黒煙が立ち上る。直前にあった一瞬の閃光とはまるで真逆に、漠と辺りに広がり、永遠のように後から後から、沸き起こる。それをただ、見ていた。 その煙は。地上から、あるいは地の底から、こちらを掴まんと伸ばされる手のようでもあったし、それとも逆に、まるでこちらの存在など無視して、ただ純粋、ひたすらに空へ向かっているようでもあった。事実、猛々しさにも関わらず、容易く青に溶けていく。 風上に飛びながら(それは無意識の行動だった)、煙の奥を覗こうとした。時々パチリと火花が弾けるその奥を。見てはならない気がした。見なくてはならない気もした。 モニターが熱検知を告げながらズームを重ねる。黒色のその中心へ。 何も見えないはずだった。 事実、見えないのだった。 しかし。 はっとグラハムは目を開けた。 薄暗い天井が視界を埋める。背後には柔らかなベッドの感触。 夢。 夢だった。 まばたきを重ねる。確かめるように息を吐く。 時間を見れば夕刻で、遮光カーテンの隙間からオレンジがかった陽光が滲んでいた。 夜間勤務を終え、宿舎で眠りに付いたのは正午前だった。本当はもう少し眠るつもりでいたのだが、冴えてしまったので起き上がる。 苦い気分だった。心なし体も強張っていて、自分にもまだこういう所があったかと思う。いや、あの夢では。いや、夢のことで考えても仕方がない。 切り替えようと顔を洗うことにする。 ついでにコーヒーを淹れ、啜りながら戻ると、プライベートの端末が光っていることに気付いた。仕事中か?、というテキストメッセージが10分程前に届いていた。ニールだった。 オフだと答えてみればすぐに返信が来た。通話してもいいかと、それも承諾すると音声通話が掛かってきた。無音だった部屋に声が響く。 「よう、グラハム、元気か」 「ああニール、もちろん、君はどうだ」 「元気だよ、タイミングがよくて良かったぜ」 「まったく同感だ。君から連絡が来て嬉しい」 耳馴染みのいい声を届ける端末を、スピーカーにしてグラハムは傍らに置く。 不本意な目覚めのおかげでこの機会を逃さずに済むとは、思わぬ幸運だった。変動的な職務の都合上、受信を数時間経ってから知り、ニールの返事もまた数時間後、ということもざらにある。もっとも、ニールの時間もばらばらで、いつ連絡が来るか予測はつかない。 「全然、大した用じゃねぇんだけど、なんか眠れなくてさ」 「私は先程起きたばかりだ」 「ほんとか、入れ替わりだな」 「つまり私の方は幾らでも君と話していて構わないわけだが」 「いや、んな長話しないけど。おれは寝る前なわけだし」 少しだけ、とニールは言う。グラハムはどれだけ引き伸ばせるか勘案したくなるが、休息を奪うのは望ましくないと改める。例え短時間でも会話できるだけで十分だった。我ながら容易にも、既に気分が上向いてくる。 「承知した。では今日は眠りにつく君の為に刺激的な話は控えるとしよう」 「どんな話持ってんだよ、ああ、やめろ、そうやって気を引くつもりだろ」 「控えると言った」 頼むぞ、とニールは笑う。身動いだのか、布連れの音が背後からした。グラハムの音も等しく拾われており、喉を湿らせにコーヒーを含むと聞きつけられる。 「何飲んでんだ?」 「コーヒーだ。さっき淹れてきた」 「そりゃ、おれが連絡したから冷めちまっただろ」 「いいや、丁度いいとも。保温マグでもある」 「さすがユニオン軍だな」 「さすがと言う程のことだろうか」 「適当に言った」 適当かとグラハムもつい笑った。 「君のような話しぶりをする人間は貴重だな」 「そうか?いや皮肉か?」 「好ましく思っている」 「まあ怒ってねぇなら何でもいいけど」 「適当だな。好意は受け取って欲しい。それで、君はどうしている」 「おれはパブで飲んでたんだ、さっきまで」 パブ、という名詞が出てきたことにグラハムは気を引かれる。珍しいと密かに思う。会話の内容自体は他愛無いが、大抵「店で」といった風に範囲の広い言葉しか、ニールは使わない。あるいはもしかすると、酔っているのか。 「どれくらい飲んだ」 「ちょっとだよ、2、3杯」 「あまり信用できない言い方だな」 「ほんとだって。つっても、どう答えても怪しむだろな、その感じ。むしろ大量にって言った方が嘘臭くていいのか」 「一理ある」 「まあとにかく、少しだけ、酔ってはない」 「分かった、信用することにしよう」 「ほどほどに信じてほどほどに疑っといてくれ」 「どちらなのだ」 今度はニールの方から、何かを飲む音がする。ペキリとボトルらしい反響がしたので、水だと思いたい。 「で、お前は、起きて今夜はどうすんだ。飲みにでも行くのか」 「特に何か決めている訳でもないが、飲みには行かないだろうな」 「健康なやつだな」 「昼夜逆転の最中だが」 「はは、ご苦労さん」 声の響き方が変わると共に軋む音が聞こえ、ニールが寝転んだと分かった。だいぶリラックスしている様子だった。 「仕事は忙しいか」 「ほどほどにと言っておこう。休みはきちんと取れている」 「連休?」 「今日、明日はそうだ」 「どこから計算して今日になるんだ」 「そうだな、50時間程休暇と言えばいいか」 「その言い方だとなんか消化っぽく聞こえるな」 「実際割と持て余しそうだ」 「お前、ここにいたらいいのに」 「どこにいる?」 「どっかのホテル」 どっか、とグラハムは復唱してみる。 ニールはいつも居所を明らかにしない。踏み込んでみてもこの調子で、いや、ホテルと出てきただけましなくらいだった。ベッドの上、だとか秘密、の一言で片付けられない分だけ。 先程のパブといい、やはり口が緩んでいるとグラハムは確信する。ニールが拒むのであからさまな詮索はしないが、覆われたものほど気になるのは性で、駆け引きは好きだ。何かもう少し引き出せないかとつい欲が湧く。 しかし続くニールの言葉に、画策は止められてしまった。 「お前、悪い夢を見ることあるか」 夢。 驚きながら、たちまち先程の残滓が、それこそ煙のようにグラハムの頭の中に広がる。 ニールが持ち出したのはただの偶然だ。絶対に。しかしあまりのタイミングに、思わず言葉に詰まる。 「……無論、私にもあるし、それは誰でもあるのではないか」 「誰でも、そうだな。ああ変な聞き方した。悪い」 「どうかしたのか」 「……そういう時、お前はどうする。いや、夢は夢か、現実的だもんなお前」 ニールの言葉は最後は独り言に近かった。答えを求めているというより、ただ話したいのだろう。なので否定も肯定も並べず、グラハムは続ける。多少話をずらしながら。 「どうして私に訊ねる気になったのだ」 「お前は軍人だからきっと色んなもの見てきただろ。だから、どうだろうと思って」 「そうだな。その為にカウンセリングも用意されている。しかし、それでも、悪夢を見ることは私にもある」 「そっか。そうだよな。人間なんだし」 「よもやそれで眠れないのか」 「そう、……いや、どうだろうな」 ニールは黙った。途端に静かになる。通信が切れてしまったのかと疑うほど。グラハムは思わず端末を手に取って寄せた。 「聞こえているか、ニール」 「……聞こえてるよ、よく聞こえる」 「あいにく夢の対処はできない。しかし私はこのまま話し続けて君を眠らせないことはできる」 「いや、お前本当に一晩喋り倒せそうだから、やめろよな。寝ないわけにもいかないし」 ニールの笑った気配がする。グラハムには表情が分からなかった。 「何にしても、お前の声が聞けてよかったよ。聞きたかったんだ。そう、それだけなんだ、連絡したの」 「これぐらいでいいのであれば私はいくらでも付き合う、都合が付けば」 「都合が付けばな。ほんとに今日はよかった。いい加減寝る。付き合ってくれてありがとうな」 「私の方こそ連絡をくれて感謝する。また話そう、ニール」 「じゃあな、グラハム」 今度こそ通話は切れた。時刻表示に切り替わった画面がグラハムを引き戻す。 部屋の中は何も変わっていないはずなのに、通話する前より静まり返ったように感じた。 目線を上げれば太陽の名残はどこにもなく、すっかり夜の帳が降りていた。誰しもよく知った夜の闇。 夢。 思い出す、までもない。あれは記憶に焼き付いた光景の延長だった。 人気のない大地。あれは戦場ではない。ユニオン軍の訓練指定区域。模擬戦中だった。 グラハムは両手で顔を覆う。 夢の不実な曖昧さと、現実の揺るがない顛末。 あの黒煙の奥。そこにあるのは墜落したモビルスーツだ。真新しい機体がどう歪に形を変えたか、グラハムは見た。乗っていたのは伝説的パイロット。戦場で散るのでもなく、しかし引退を良しともせず、若輩に自ら翼を切らせた。呼びかけに言葉が返ってくることはなかった。 夢は途切れたが、現実に起きたことはそうだ。いや、夢はその先に何を見せる気だっただろう。考えても仕方がないのに。 静寂を追いやるようにグラハムはニュースを点けた。どこかの破壊された街が映る。 これほど天を仰いだことは二度となかった。 整然とした市街地で膨大な黒煙が立ち上る。何度も何度もあちこちで赤い光が膨らんでは、轟と辺りに広がり、永遠のように後から後から、沸き起こる。それをただ、見ていた。 その煙は。地の底へ、この世の果てへ続く入口のようでもあったし、それとも逆に、まるでこちらの存在など無視して、すべてを届かない場所へ連れ去っていくようでもあった。事実、見えるのに掴ませず、あったものは消えて行く。 煤に巻かれ火の粉を浴びながら(それはもはや意識になかった)、煙の奥を覗こうとした。火花が弾け続けるその奥を。見るなと誰かが言った気がした。見ずにはいられなかった。目を離すことができなかった。 黒色のその中心へ。焦点を合わせ、標準を絞り、その奥へ。 何も見えないはずだった。 事実、見えなかった。 しかし。 はっとニールは目を開けた。 薄暗い天井が視界を埋める。背後には柔らかなベッドの感触。 夢。 [グループ][ナビ] [HPリング] [管理] |