※一期後 ※記憶喪失ニール ※CBメンバーだと明かさず/知らず交際→リボンズによって再会 ※暴力的なシーン含 ※シリアス ニール・ディランディが、ガンダムに乗っていた。 先刻リボンズ・アルマークに告げられた言葉が、グラハムの頭の中で何度も繰り返されている。 ガンダムの、パイロット。 ガンダム。その単語は、炎を焚き付ける風のように、様々な感情と衝動を掻き立てる。が、性急だ、確証を得ていないと、グラハムは理性をもってぐっと押し込めた。 本当にニールが乗っていたのか。 リボンズ、あの得体の知れない少年のまやかしである可能性を、グラハムは疑っていた。彼は自身の働きかけがどう作用するか、人の反応を楽しんでいる節がある。無心に信じればそれこそ彼の思う壺で、むざむざ踊らされるまいと思うくらいには、グラハムはまだ冷静だった。信じたくないという思いがそれを裏支えしてもいた。 「……ニール」 グラハムの呼び掛けに、所在なさげに立ち尽くしていたニールは、はっと顔を上げる。かち合った目をニールは一瞬逸らし、それから無理に合わせた。 記憶がないことだけは、どう見ても確かだ。今のニールにとってグラハムは「見知らぬ男」でしかない。それだけで胸を抉るような事実だが、しかし、更に苛烈な現実が、あると言うのか。嘆く余裕もなくグラハムは言葉を連ねる。 「君が私に問い質したいだろうことと同じくらい、私も君について知りたいことがある。『今の君』が分かっている範囲でいいのだ」 「……ああ」 ニールの緊張した声が耳を打つ。 顔を覆った面が尚更警戒感を抱かせているのだと分かっていながら、グラハムは外さない。 「君自身はリボンズ・アルマークから何をどう聞いている」 「……宇宙関係の仕事してて、事故に巻き込まれたって」 返ってきたのは疑惑を深める答えだった。それはグラハムがかつてニールに聞いたことと、辻褄が合った。 宇宙と地上を行き来してるから、頻繁には会えねぇけど。そうした条件で、グラハムはニールと逢瀬を重ねた。 それを、実はガンダムに乗っていたと、リボンズは言う。 リボンズの言うニールと、ニールの言うニール。齟齬が生じてしまう。 「……どちらが真実だ」 当然グラハムは後者を信じたい。 仮に本当にガンダムに乗っていたとして、いや、或いは作り上げた嘘を貫こうとしていて、何故リボンズはニール本人にはそれを隠匿している。あまりに大きすぎるからか。ガンダムという存在が。彼らのなした罪が。 そこまで考えて、しかし、この点でもリボンズは何か企てているのかと、また新しい疑念が生じる。次から次へと様々な可能性が浮かび、グラハムは疑心暗鬼の渦に捕らわれる。手のひらの上で転がされるような不快感と共に。 「……違うのか?」 ニールはグラハムに肯定を期待していた様子だった。グラハムが黙り込んでしまったのに、顔を曇らせる。 心もとなく、不安に揺れるニールの青い瞳は、今は右目が眼帯によって覆われていた。漆黒の暗幕のようなそれは、戦場にいた信憑性を持たせるようにも、かえって芝居の小道具めいても見える。 今度はグラハムが視線を外した。 拍子に、ふと、テーブルに置かれた塊が目に留まる。リボンズが届けたと言っていた、ニールの荷物だ。きっちりと畳まれた衣類、そこにある物を見つけ、グラハムは掴み取る。 周到なお膳立てと思えなくもなかったが、私は自分の目で見たものしか信じないと、反抗する気持ちで決める。 「君自身に確かめよう」 「え?」 グラハムはニールに押し付けるようにそれを渡した。ニール用にあつらえられた、パイロットスーツだ。そして戸惑うニールの腕を引き、歩き出した。 真実は、剣を交えれば分かるだろう。戦いの場にこそ真理が転がり、全てが剥き出しになるとグラハムは知っていた。 足早に廊下を抜けると、人気のないのを確認し、一室へと入る。 「なんだ、これ……?」 部屋の各所に置かれた機器を前に、ニールは恐る恐る訊ねた。 「モビルスーツのシミュレーターだ」 「シミュレーター?」 「これを使って私と対戦してもらう」 ニールが驚くのを傍目に、グラハムは慣れた手付きで機器を起動させる。ニールは遠慮がちに持っていたパイロットスーツをぎゅっと抱き寄せた。 「なんでそんなこと……」 わけが分からない、と当然の反応を示して、それからはたと無言になる。行き当たった推察は、ニールでも信じられないと思うものだった。 「……おれがモビルスーツに乗ってたとでも言うのか?」 「その真偽を見極める」 「まさか」 「嘘だと思うにしても、虚偽ならば虚偽で、君が証明するのだ。君自身の手で」 真剣な、いっそ思い詰めさえしているグラハムに、ニールはそれでも首を振った。無茶だと言い募る。 「いきなりこんなの、できねぇよ」 「これが最も明瞭な方法なのだ」 「でも、おれには無理だ」 「私も無理は承知だ」 「それに、対戦って、あんた強いんだろ、おれが太刀打ちできるわけが」 「それ以上言うな!」 グラハムは咄嗟に強く遮った。ニールが肩を跳ねさせ、唇を引き結んで俯く。 グラハムははっとして、苦々しい思いを抱いた。 焦っている。しかし、それ以上に。 それは「ニールがガンダムのパイロットならば」言われたくない台詞だった。渡り合って戦い、敬意を抱きさえした相手が、自分を卑下するのは許さないと。しかし本当に、「ガンダムのパイロットならば」の話だ。まだ確定などしていないのに、グラハムは反射的にその言葉を拒んでしまった。 どれだけガンダムに思いを募らせているのか、自分でも底の知れない気分になる。 ……あるいは、まさか、勘が告げているのか。ニールがあのパイロットだと。いや、そんなことはないはずだ。じわりと広がりそうな影を打ち消す。 「……向こうに更衣室がある。10分後に始める」 そう告げてグラハムは背中を向けた。 システムの都合上、機体はどちらともジンクスだ。ソレスタルビーイングの技術流用がなされた、擬似太陽炉搭載型機。ならばコクピットの構造も、ガンダムに近しいのだろうかと想像するが、それこそ答えはパイロットに訊かねば分からない。 グラハムは操縦幹の感触を確かめる。 いずれにせよ、ジンクスは旧三陣営のどのパイロットでも操縦しやすい設計であるから、勘があれば容易いと思われた。ソレスタルビーイングのパイロットとともなれば、いずれかの陣営の操縦は習得しているだろうからーーー本当にそうなら、実力を発揮できるはずだ。 グラハムは環境設定を決める。ニールにロングバレルライフルをあてがい、万全の状態にした。ニールの為にも、グラハム自身の為にも。 「なぁ、ほんとに、やるのか」 繋いだままの音声回線からニールの声が届く。 念のためチュートリアルはやらせた。勘は良かった。それを見てグラハムは、戦くような期待するような、複雑な気持ちになった。 「やると言った。覚悟を決めたまえ」 グラハムは自分に言い聞かせるように告げる。 全てはこれで明らかになる。 火蓋を、幕を、切る。 一瞬にして、視界に澄んだ青空と、茶けた大地が組み上がる。アザディスタン、タクラマカン。重ねた戦場と同じ光景。ーーー舞台の再演だ。グラハムは上空に、ニールは地上にいる。 「うわ、どうなってんだ」 異世界に迷い込んだような声を上げ、ニールは辺りを見回した。見覚えのある、記憶に引っ掛かるものはない様子だ。リボンズの前で、グラハムと顔を合わせた時と同じく。 「なんでお前だけ飛んでるんだよ」 「……機体制御が楽だろう。君はただ私に照準を合わせ、撃てばいい」 グラハムの胸は静かにざわついていた。 脳裏には、あの戦場が鮮やかに蘇る。乾いた地上に美しく映えた、緑のガンダム。不可侵の清らな森とばかりに、誰の接近も拒むガンダム。 それにニールが乗っていたと言うのか。 「簡単に言いやがって」 「そうだ、簡単なことではないとも。私も戦場に立つ者としてよくよく分かっている」 ジンクスの放った粒子が、駐空しているグラハムの斜め下を抜けていく。次弾も、斜め上へ。 端から見るより射撃は容易いものではない。それを、あのガンダムは、呼吸するような滑らかさでもって、全て意のままにしていた。驚異であり、グラハムは感嘆し、畏怖し、敬意を抱いた。 そして私は。グラハムは思い返す。 猛攻をかいくぐり、グラハムはガンダムに触れた。誰も寄せ付けない高潔な姫君に、茨を抜けて触れたのだ。あの高揚。初めて交わした抱擁。今でも劣情のような興奮が滲む。 あれが、ニールだったと言うのか。 グラハムは面の奥の目をぐっと凝らす。 ニールは当たれば終わると見込んでか、嫌がっていたわりに仕掛けてくるが、まったく「的外れ」だ。 いきなりモビルスーツの操縦をして当然だと思いながら、無茶と分かっていながら、しかしグラハムの中には、身勝手に苛立つ自分がいた。 ニールに対して、失望させるな、と思った。思って、自分は何を望んでいるのかと思い直す。何を求めているのか。 「…………」 「くそ、」 ニールはほとんど泣きそうな様子だった。不慣れなことをやらされている事実にも、リアリティーある戦場の光景にも、一方的なグラハムにも、分からない「自分」にも狼狽えていた。 それでいいのだ、とグラハムは呟く。 ニールはガンダムに乗っていないと、グラハムは信じたい。はずだ。 「私も撃つぞ」 「えっ」 グラハムは予告して構える。ステップも踏めない、正真の「一般人」ならば、バーチャルとはいえ当てるのは躊躇われた。だからニールの足元、地面に標準を合わせる。狙い通り当たると、案の定短い悲鳴が上がった。 攻撃はせず、間合いを詰めきったら終わりにしようかとグラハムは思う。これでいいのだ。 「君の元へゆく。的が大きくなるだろう。ただし、私の速さは折り紙付きだ」 「っ、」 心の内で5を数えた。それから擬似太陽炉の出力を上げ、グラハムは弓なりに降下した。 加速度が増す。重力が手伝う。 ニールは荒い息を吐いていた。コクピットの閉鎖的な空間に圧迫される。元々片目しかない視野が狭くなり、早鐘を打つ鼓動が異様に耳につく。恐怖のせいか。 グラハムは止まらない。 「待て、…っ!」 やられる。そう思った瞬間、鋭い痛みがニールの頭を襲った。火花の弾けるように一瞬だったが、ニールは思わず前のめりになる。はっと顔を上げると、眼前には、振り撒かれ、迫る、赤い光が広がっていた。焼き付く光だった。 「来るんじゃねぇっ!」 「!」 ニールの叫びと共に熱球が駆けた。ジンクスの胸部真正面に牙を剥き、グラハムは咄嗟に回避した。地面に切迫し、仮想の砂埃が舞う。グラハムの心臓が、一瞬冷えた後、盛り返すようにどくりと鳴る。 まぐれか。いや。まぐれではない。 警鐘のように心拍数が上がっていく。 まぐれにしてはーーー「正確すぎた」。 「っ!」 思う間に二閃目が襲う。やはり胸部に食らい付く。グラハムはシールドで弾く。光が破裂する。振動が響く。脳まで揺さぶられそうだ。 グラハムは操縦桿を強く握り締めた。 「……残念ながら、この機体のコクピットは胸部ではないのだよ」 知っている、この軌道を。知っている、グラハムは知っている。 「君にはまだ情報がなかったか、それとも、私のフラッグが見えたかね!」 火の点いたようにグラハムの全身に血が巡る。身体が熱くなる。心が沸き立つ。灼熱下の昂りが甦る。 グラハムは接地ぎりぎりの高度で加速した。 ニールの放つ弾丸が装甲を掠める。 「そうだ!そうだとも!」 グラハムはニールに喝采を送りたくなった。手当たり次第に物を投げ付けたくもなった。ビームライフルを撃つ。ニールのライフルに当たり、轟音を立てて爆ぜる。 「うわっ!」 「とんだ役者だな、私の姫!」 グラハムは自身のライフルを投げ捨て、ビームサーベルを取った。赤い剣が現出する。減速はしない。 煙と砂埃の中、灰色のジンクスが、グラハムの目には確かにガンダムに見えた。 今度こそ邪魔者はいない。誰も助けに入らない。 その胸に、グラハムはビームサーベルを突き立てる。貫き通す。血のように辺りに粒子が撒き散らされると、やがて暗闇が包み込んだ。 再び無機質な空間に戻る。まるですべてが幻だったかのようだが、バーチャル空間は完全なる幻ではない。そこにいた自分達は、「ニールは本物」なのだから。 「ふ…っ、ははっ」 グラハムは笑った。勝利の哄笑ではなかった。一度足りとて、ガンダムを相手に、晴れやかな笑い声を立てられたことはない。 ニールがパイロットなど嘘だと、信じていたのに。淡い期待は吹きさらわれた。そしてそう願っていたのに、真実が分かるや否や、「ガンダム」だと知ると、グラハムは夢中で、ニールを倒しにかかった。嬉々とすらして、そう、否定したかった事実を喜んだ。 ひどい現実だ。 ここまで私は捕らわれているか。そして、それなのに。 グラハムはシミュレーターから立ち上がると、ニールの元へ向かった。歩きながらパイロットスーツの上部を脱ぎ外す。「勝利」を収めても、戦闘の熱が抜けない。 「お前、手加減しろよ」 ヘルメットを取ったニールは、青ざめた、しかし不機嫌そうな顔をグラハムへ向けた。 あくまでも、記憶を取り戻したわけではないようだ。身体、本能が覚えていたというところか。グラハムが狩りに走ったように。 「君相手に手加減などするものか」 「はぁ? ……ちゃんと説明してくれ」 唇を尖らせるニールは、理不尽な仕打ちを受けたとでも言いたげだった。真に迫った攻撃に身が竦んだのか、立ち上がろうとしない。可愛らしいことだ。グラハムは手を伸ばす。 ニールが、恋人であった自分を覚えていないことは、胸を刺されるような痛みをグラハムに与えた。 ニールが、戦場で会った自分を覚えていないことは、頭を殴られるような衝撃をグラハムに与えた。 ガンダムとの戦いはグラハムの人生を変えた。 あの鮮烈な体験を、グラハムは確実に生涯心に刻み続ける。それなのに、それを、ニールは忘れたという。 なんという不義理だ。 身勝手だ、一方的に世界を変えておきながら、理不尽なのはニールの方だ。 その首元を掴み、グラハムはニールを引きずり下ろした。床に投げて転がす。砂地でないから痛いだろう。頭を打ち、呻いたニールに、グラハムはちょうどタクラマカンでしたように乗り上げる。 「いっ…、っ、なに、」 痛みに顔を歪めたニールは、それから影の覆うのに気付き、グラハムの行動に目を見張った。グラハムはニールのパイロットスーツを躊躇なく開け、アンダーウェアの下へ手を差し入れる。 熱い手が、しかしニールをぞっとさせた。 「なにして、っ、やめろ!」 ニールは両手でグラハムに掴みかかり、押し離そうとしたが、グラハムはびくともしなかった。這い上がった手のひらが乳房を掴み、明確な恐怖がニールの全身を包む。 「やめろ、おいっ!離せ!」 抵抗し、叫んでもグラハムは聞いていない。目元だけを覆う面の奥も見えず、ニールはなんで、と思う。グラハムの思考回路も動機も心理もまるで分からなかった。嘘だ、と思う。こんなのは嘘だ。 しかしいくら現実を否定しても、容赦のない手は止まらない。下半身の着衣も丸ごと剥ぎ取られるのに、とうとう涙がこぼれた。 「いやだ、くそ、やだ、なんで…っ」 強引に開かれた足の間に、戦闘の滾りを引きずった熱の杭が打ち込まれる。ひっ、とニールは悲鳴を上げる。 ニールの痩せ細った腰を力任せに掴み、グラハムは深々と己を突き立てた。ニールは仰け反りながら唇を噛む。 「ちくしょう、っ…、くそ、」 ぼろぼろと片目から涙を落とし、ニールは呪詛に似た言葉を繰り返した。 それをグラハムは遠く聞く。 グラハムの脳裏には、甘い声をこぼして抱かれていた、かつてのニールがよぎる。 グラハム、なぁ、好きだ。美しい両の瞳を細め、そう笑んだニールが。 グラハムはニールの眼帯を剥いだ。醜い傷跡が、根を張るように生々しくあった。戦いの傷だ。まぎれもなく、グラハムの身体に刻まれたのと同じ。 「……あれほど」 グラハムの口から唸るような声が出る。ひどく喉が渇いていた。 「あれほど愛を交わしたのに、君は」 グラハムの前にいたニールは。 嘘を吐いていた。騙した。裏切った。私ではないものを選んだ。私ではない者に屠られた。記憶を無くした。思い出さないでいる。私のことを。あの戦場を。犯した罪を。 様々な糾弾がグラハムの頭の中で渦巻く。 突き上げを受けながらニールが腕を伸ばす。グラハムを抱き締めるのではなく、眼帯を奪われたことに気付いたのだ。届かぬ所に投げてしまうと、ニールは自らの手で右目を覆った。何を隠す。何を、隠している。グラハムはその手を剥がして床に押し付ける。 確かに愛し合っていたはずだった。グラハムは心からそうだった。好きだとニールも言った。あの言葉を、真実だと思っていた。あの言葉は、真実だったはずだ。それなのに、果たして本当に真実だったのだろうか。どの言葉が真実だったのだろうか。もう何も分からない。 ニールは嘘を吐いていた。騙した。裏切った。家族の仇を選んだ。私ではない者に屠られた。記憶を無くした。思い出さないでいる。こんなことをしても。 一方的に蹂躙したのは、しているのは、ニールの方だ。グラハムの何もかもを踏みにじって。 「やだ、もう、いやだ」 過去と現在と、嘘と真実がぶつかり合い、せめぎ、濁流になる。 一心にニールを見つめているグラハムの下で、ショックもあってか、ニールは意識が混濁してきていた。抵抗は止めないものの、その目はもはやグラハムを捉えていない。 「『もう』、やめ、っ」 ニールが見ているのは今ではない。グラハムではない。ここにいるのに、いない。 「とうさ…っ、……か、さん…」 喉の奥からニールはそう吐き出した。記憶の、心の、最も先に行き着くのはそこだった。疑いようのない、心の底からの言葉だった。 グラハムは息を詰め、律動をやめた。身体を離した。突き放した。 果てしのない絶望と虚無と孤独が背後からグラハムを襲う。グラハムは肩で息をする。 「…………君は、私を、……私は、私は君にとって何だった」 ニールは答えなかった。聞いているのかいないのか、届いているのかいないのか、両手で顔を覆い、ただ嗚咽を漏らしている。後から後から頬を濡らす涙に溶けて、そのうち輪郭も分からなくなりそうだった。 私が見ていたニールは、何だったのだろう。 砕けたガラス片を握れば血が滴る。 私がニールに寄せていた、寄せている思いは。 唾液を飲み込んだ拍子に、ニールの白い首がうねる。微細な動作が、グラハムの目に生々しく映る。蛇のようだった。唆し、果実を齧らせ、男の喉へつかえさせた蛇。 今すぐこの手にかけて締め上げてしまいたいと思った。しかしニールにとってそれは、無慈悲にも、救済となるのだろう。そんなことをするものか。 「……君が、私を赦さないように、私も君を赦さない」 嘘を纏って近付いたかつてのニールは、どんな幕引きを考えていたのか、今となっては分からない。しかし決して望む通りにはさせないと誓う。グラハムは何重だろうとその幕を引き裂き、ベールを破り、ニールを引きずり出す。 そうだ、そうして、私は。 グラハムは笑おうとした。しかし、熱の代償とばかりに、半身の傷跡が引き攣れる。激しい痛みから逃れる術はない。いいや、逃れる気はない。自らそうした。なのに、今だけは、身体を燃やし尽くすようなそれに、叫び出してしまいそうだった。 すがる先も、救いも、どこにも何もなかった。投げ出された身体ふたつ。 「誰」のものか得体の知れない、産声にも断末魔にも似た声が木霊する。 * 話がある、とのリボンズ・アルマークの呼び出しに、グラハムは応じた。正直な所、彼とはあまり顔を合わせたくないのだが、近々創設される新組織での活動を便宜してもらっている都合上、無視は出来ない。ガンダムと再びまみえる為ならばと飲み込んで、グラハムは少年の前に立った。 「一連のガンダム掃討作戦で捕虜になったパイロットがいる」 挨拶はいいから用件をと望むと、リボンズはそう告げた。 「……セルゲイ・スミルノフ大佐とソーマ・ピーリス中尉らが戦果を上げた超兵だろう」 「そう、それと、もうひとり」 「もうひとり?」 グラハムは眉を潜める。そんな話は聞き及んでいなかった。超兵の捕虜の存在は明らかにされているにも関わらず、別にいるなど。 「超兵の存在を公にすることで、逆に隠していたのさ。皆そちらに気を取られて、まさか他にもいるなんて思わないだろう」 見透かしたようにリボンズは言う。 「……機体も鹵獲したのか」 「パイロットだけだよ。宇宙空間を漂流していたんだ」 そのパイロットは人知れず捕囚された、とリボンズは続ける。 「公の作戦」で捕らえられた「超兵のパイロット」は、ガンダム登場以来死力を尽くしてきた軍人達、ひいては死者達にとって、ようやく手に入れた、目に映る形での眩い戦果だった。ガンダム、ひいてはソレスタルビーイングの正体を知る希望の光だった。 一方でそれは制約を嫌う者にとって絶好の目眩ましとなり、濃い影を作った。 日の当たらない、人知れぬ場所に収容された、極秘の捕虜。 「そのパイロットは『ただの人間』だった。屈強な超兵よりずっと口を割るのに手っ取り早いと期待されたよ」 「……何か聞き出したのか、ガンダムの情報を」 ゆったりとしたリボンズの語り口を、グラハムは切った。呼び出した用件はそれかと思う。回りくどい真似をされたくないし、正直、そのパイロットにも興味がなかった。機体がなかったのなら、恐らくかの少年ではない。少年と少年のガンダムでないのなら、グラハムの求める対象ではなかった。 しかし、リボンズはグラハムの促しに首を振った。 「何も。彼らの手落ちさ。情報を聞き出す前に彼らはパイロットを壊してしまった。『ただの人間』に負荷を掛けすぎたんだよ」 面を着けているグラハムよりずっと能面のような顔を、リボンズはしている。 決して情報を漏らさず、訊問に耐えたパイロットは堪えきれず、そのまま闇に沈むように記憶をなくした。 「身体はいくら治せても記憶はどうにもならない。それこそ必要だったのに、愚かなことだよ」 「我々はガンダムに逃げられてばかりだな」 なかなか話が見えないのに、グラハムは少し挑発した。しかしリボンズはおや、と優雅に返し、乗らない。 「君はガンダムを掴まえたことがあるじゃないか」 怖じ気付かず、不遜ですらあるグラハムを、リボンズは悪く思っていない。そうでなくてはならないとすら、思っている。太陽に近付きすぎたばかりに翼を焼かれたイカロスが、傲慢な愚者とも果敢な勇者とも呼ばれるように。 本題はここからさ、とリボンズはグラハムを見据えた。 世に稀だというバイオレットの瞳が、人を惑わさんとばかりにグラハムに向けられる。 「情報が欲しいなら、君自身で聞き出せばいい。君なら記憶を呼び戻せると期待しているよ」 「……どういう意味だ」 入っていいかい、と扉の向こうから声がする。リボンズはそちらを見やることなく承諾した。 スライドしたドアから紫髪の、リジェネ・レジェッタが現れ、挨拶のつもりか微笑する。 その優美な仕草よりも、リジェネが伴ってきた人物に、グラハムは意識の全てを取られた。絶句する。 「ニール・ディランディ。『知っている』だろう?」 リボンズは笑った。 * 無機質な廊下をリジェネはゆっくりと歩いていた。宇宙の、ひとつ床を蹴れば済む移動に慣れてしまえば、わざわざ足を動かす歩行はひどく労力が掛かって感じられるが、リジェネは悪くないと思う。 後ろにはニールが付いてくる。一歩遅れた歩き方にも感情が滲む。 「なぁ、リジェネ」 「なんだい」 リジェネが視線を向けると、ニールは不安げな顔をしていた。「仲間達」はほぼ絶対に示さない表情であるから、リジェネの目には新鮮に映る。 「……ほんとに行くのか、その、グラハム・エーカーってやつのとこに」 ニールは小さな声で呟く。 彼に関するデータは事前に与えていたが、それだけでは安心材料にならなかったようだ。 「目を開けた時」から、ニールはまだリジェネ達と同じ居住の外へ出たことがない。まさか「親離れ」とは思っていないだろうが、追放されるような心地もどこかにあるのだろう。 今、リジェネが足を止めれば、ニールはそれに従いそうだった。しかし。 「少なくともここにいるよりはましだと、僕は思うけど」 諭すようにリジェネは言う。ニールは思い当たる節もあり、口を閉ざした。 ニールは、そしてリジェネも、既に歩き出したのだ。扉は次第に近付いてくる。 「この先にあるのは『新しい世界』だよ、ニール」 殺風景な廊下に真っ赤な絨毯でも敷かれていれば良かったのにとリジェネは思った。 はなむけのような言葉は、しかし決して希望を持たせる意味合いではない。連れ立つリジェネも「救い出す」のではない。この先にはもっと苛酷なことが、必ずニールを待ち受けている。けれど。 辿り着いた扉の前で、リジェネはニールに向き合った。 「僕の顔をよく見てくれるかい」 そう、ニールの目を覗き込む。ニールは瞬いて顔を上げ、リジェネの赤い瞳を同じように見つめた。 いくらそうしても、何も思い出さないのは、分かっている。もしかしたらと思ったが駄目だった。まったく同じ遺伝子で構築されていても、僕が彼ではないと、彼は僕ではないと、そう、ニールは「生来」分かっているからだろうか。 「ねぇ、人は何をもってそれが『その人』だと認識してるのかな」 「なんだ、いきなり」 「君を見ていて思ったんだよ」 「……おれには記憶がないから、端から見たらおれは『おれ』じゃないって言ってるのか」 リジェネが思っていたよりも、ニールは自分を責めているようだ。違うよ、とリジェネは訂正する。 「君は君だ。ニール・ディランディ。大丈夫、そのうち意味が分かるさ」 ニールの記憶の糸口になれないことが、リジェネは少し残念だった。けれど、真っ直ぐ向き合ってくれるニールに、少なくとも、リボンズよりは心を許されていると、思いたい。 そっと、リジェネはニールの右頬に手を当てる。指先に触れる、眼帯の布の感触に親しむ。 君は確かに救った。守ってくれた。狙撃手の目を引き換えにしても、ただ一心に、守るという行動を取ったのだ。それが、それも、君だ。 「取り戻すんだ、ニール。すべてをね」 囁き、リジェネはニールから手を離した。扉の向こうを見据える。 入っていいかい、と声を掛けた。 幕の開けるように扉はスライドし、ニールは息を吸った。 [グループ][ナビ] [HPリング] [管理] |