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目が覚めたらひとりだった。
当たり前だ、もう時刻は昼前もいいところだし共寝の人は早朝出勤のワーカーホリックの気のあるやつ。ひとりでない目覚めの方が実際少ない。
即ちいつも通りの目覚めだった。
けれど今日という日はニールにとってどうしたって意識せざるを得ない日であった。
なので今朝ばかりはいつものひとりが無性に際立ってひとりに感じられて、ニールは白い天井を見つめながら漠とした。
それから気付けば端末を引っ掴んでコールしていた。



「なぁ、会いてぇんだけど」

日頃素直でない恋人が開口一番そう告げたのに面食らいついグラハムは握る端末の画面をまじまじと見てしまった。高彩度の液晶には発信者Neil Dylandyの文字がはっきりと刻まれている。おい、聞いてるか、と届く声も紛れもなくニールであるのに、やはり耳を疑わざるを得なかった。
もちろん聞いている、と取り繕って返しながらグラハムは再び端末を耳に当てる。

「急にどうしたのだ」
「悪いかよ」

何だっていいだろ。ぶっきらぼうにニールが言う。
理由を答えることなく押し通そうとするのは悪い癖だと思う。グラハムは引き下がることなく更に問おうと口を開き、しかし先を越された。

「今すぐ会いたいつったらお前は来れるか」

言葉を飲み込んで思わず押し黙る。
機械越しに届く台詞は間違いなくグラハムを感嘆嬉々とさせたろうがそれは平常であった場合で、今のニールの声色はそう安直に反応させてくれなかった。
甘さ或いは憂いを含んだそれとは違う。かといって切羽詰まった緊急性も感じられない。単に怒ったような不快を訴えるような、そう、言わば駄々を捏ねる調子だった。

「……私の愛を試そうとでもいうつもりか」
「答えろよ」
「ニール、その言葉は嬉しいが私は今仕事中だ」
「知ってるっつの」

厄介だなと率直にグラハムは思った。いや、ある意味楽しくもあるのだけれど。ちらりと腕に巻いた時計を見る。愛は尊い。が、ともかく今は仕事だった。

「来れるかって訊いてんだろ」
「仕事が終わったらすぐに君の元へ行くとも。私も今すぐにでも姫に会いたいという気持ちはある」
「調子いいこと言いやがって」

騙されねぇぞ。それを最後にプツリと電話は切れた。
グラハムは一陣の風の去った心持ちでひとりホーム画面に戻った端末を見る。


恋人は時々勢い任せに行動する。
おそらく今回もそれだろうとグラハムは思う。
そして何を寂しく思ったのかと考えを巡らせる。満たされていないならば満たしたいと当然のように思ったしそれがグラハムのよろこびでもあった。
何かを欲するニールは繊細で、しかしかなりの熱を有している。こと情が絡んだ時のその苛烈と言ってもいい程の熱烈さにはグラハムさえも舌を巻いた。それはよほど怖いもの知らずだろうグラハムをもってしても、探求心と挑戦心を抱くと同時に本能的に逃亡したくもなる激しさだった。
対向車の蛇の目のようなサーチライトを視界の端に流しながらグラハムは堪らないなと思う。
あれほど恐ろしく、あれほどいとおしく思う存在は空に並んだ。
そしてグラハムは空の扱いを心得ているが故にまたニールとの関わりに熱中する。

帰りつくとニールは入浴しているらしく、廊下の奥から水音が聞こえた。



洗濯機にシャツと下着の別なく全て落とし入れて頭からシャワーを被る。
張り付く前髪をかき上げ、水飛沫に圧され俯いたままニールはため息を吐いた。
馬鹿らしいと思う。馬鹿がすることらしい。
日中の衝動も落ち着いてみれば滑稽だ。いくらなんでも無茶を言った。
そして自己嫌悪を覚えた。自分の行動に対してだけではない。グラハムの対応に少々傷付いた、いや裏切られたと思う身勝手な自分がいたのだ。
電話一つを通して、自分の願いなら叶えてくれるのではないかとどこかで甘えていた自分に気付いてしまった。日頃どんな振る舞いと台詞を吐いていてもグラハムはわきまえをしっかりとしているのに。

「…………」

ボディソープを手のひらに溢れるくらい出して身体を撫でる。
今日から25年目の付き合いに入る身体だった。
この身体に心は見合っているのだろうか。
そんなことを今更思う。
落ちるぬるま湯が雨のように響く。


髪を乾かすのもそこそこにリビングに戻るとグラハムがいた。ソファーに腰掛けてまるではじめからそこにいたかのようにいた。ずるいと思った。それはひどく嬉しいことであるのに。
いつも通りグラハムは挨拶をしてくる。ニールは小さく返しながら冷蔵庫に向かう。
何となくオレンジが食べたかった。空腹だっあのもあるし喉が渇いたのもある。
丸ごと一個それだけを掴んで力任せに皮を剥く。風呂上がりの指先がたちまち冷えた。
実を割る度だらだらと果汁が垂れるのにちらりとグラハムが視線を寄越す。こういうのをグラハムはあまり良く思っていない。シンクの上で溢れた先に何も問題は無くとも。気付きながらしかしニールは無視して齧り続ける。
良く思っていないと知りながらやり続けたらいつか愛想を尽かされるんじゃないかと思いながら、同時にどこかでこれくらいで嫌いはしないだろうとも思っている。嫌われる要素は他にも色々あることだし。でもやはり、これも甘えなのだろうか。

「美味しいか」

グラハムが声を飛ばしてくる。
本当は少し早かったらしく酸味の強かったが、食べ頃だとニールは皮肉で返す。グラハムは食べないために気付かないけれど。
丸々平らげて手を洗って、そこでニール、とグラハムが呼んだ。
少し応じたくないと思った。しかし応じなければならない所だった。仕方のない風を装って顔を上げる。
隣に座るよう促されて、ニールは何となく父さんに説教されるみたいだなと思った。


「電話の真意を訊いても?」

あくまで軽く天気でも訊く調子でグラハムは言った。ニールは取るべき態度を少し考えた挙げ句、いつもの癖で結局自嘲する。

「ただの悪戯電話だよ」

グラハムは少し嫌そうな顔をした。それは困ったことにニールが密かに好いている表情だった。或いは甘い蜜のような言葉を囁いている時よりも落ち着く。

「……少なくとも嘘の言葉ではなかっただろう」

ニールは少し間を開けてからそうだな、と返した。
それ以上グラハムは追及しない。
ニールも黙って目を伏せる。
グラハムは大人だ。
3つ開いた歳の差がもっとあるんじゃないかと時々思う。グラハムが世間一般の同じ歳の人間に比べて多少風格を有している所もあるのかもしれないが、感じるのは落差、自分がひどく幼く思えるのだ。
ニールは爪の間に挟まったオレンジの残骸を見付け、もう片手の爪を差し込んで取る。

「なぁ、おれ、今日お前に近付いたんだけど」

グラハムが瞬く。
何を言っているか意味が分からないのだろう。でもそれで良い。察して欲しいわけでもなかった。一方的に言いたいことだけ言う。

「寧ろ遠ざかった気がするぜ」

若いオレンジの香りをまとった手は石鹸を使わない限りしばらくそのままだろう。ニールは軽く握る。
鼻孔に届いているのかいないのか、グラハムはひとつ息を吸った。

「姫から遠ざかったなどという言葉は聞きたくないな」

言葉の距離を行動で取り戻すようにグラハムはニールを引き寄せる。抱きすくめられる瞬間はいつもニールは身構えた。
グラハムは端から見たよりずっと大きな身体をしている。例えばそう、父に抱きすくめられた時と同じ覆われ方をしていると思う。あの頃より随分身体は大きくなったはずなのに。或いは大きくなっていないのだろうか。

「何を寂しがっている」

耳元で聞こえる男の声にニールは目を閉じる。
指も腰も使わずに言葉だけでニールを暴いてしまうのはこの男だけだ。悔しくて嬉しくて泣きたくなる。

「別に、平気さ」

グラハムは天の邪鬼すら見透かしているのだろう。腕の力が籠る。ああ、ほんとに子供みたいだおれ、とニールは思う。
グラハムが身動ぐ。キスをしようとする。きっとひどく優しい宥めるようなキスだ。簡単に予想が付く。ニールはついと顔を背けて拒む。
グラハムは一度動きを止めて尚背けた首筋に唇を落とすのでやめろと言った。
キスも、とうに慣れたはずのセックスも時折ひどくちぐはぐに思える。自分がする行為なのかと。乖離して感じると言ってもいい。
拒まれたグラハムは困ったような様子で、しかしそう、抱擁自体は拒まれていないと抜け穴のような答えを見出だしてそのままでいる。

「……なぁ、グラハム」

ニールは背けた顔を戻し、今度は自らがグラハムの首筋にうずまった。この所作もまたわがままに映るのだろう。
平気と言いながらひとつ溢す。

「お前は会いたい時にいない」

グラハムは沈黙した。
それからロジックを解き明かすこともせず、そうだな、と認めた。
ニールはグラハムのシャツを握る。グラハムは背中をさするでもなくただ抱きとめている。それがグラハムだった。
大切な人が、グラハムが、どこにもいかず何もせず、こうしてずっとそばにいてくれればいいのにとニールは思う。けれどそれは子供の願いなのだろう。14の子供の強烈な願い。それを今も持ち続けている。それが会いたいというわがままの根本だ。その囚われから解放されて決して思い通りにならない世の中を受け入れられたならきっと時が進むのだ。けれど。

「……なんで大人にならなきゃいけねぇんだろな」

花びらの散るように零れたそれはとっくに問いだされるべき疑問だった。遅すぎる問いだった。この歳になって訊くなんて。けれど尋ねるべき大人がいなくなってしまったままここまで来たのだった。

「……私にも分からないな」

予想通りで期待外れの答えをグラハムはニールに寄越す。失望と安心をニールに与える。本当は分かっているのかもしれないと少しニールは疑い、同時に信じる。
しかし、とグラハムは続けた。

「それは君と時間を掛けて考えてもいい問いだ」

はっきりと微笑を浮かべてさえ言った。
分かった頃には年寄りになってるかもしれねぇよ、とニールは言い募ろうとしてやめた。それでもいいだろうと返ってきそうな気がしたからだ。
10年、一周した。今25になりながら恐らく15を刻もうとしている。時計の針が再び動こうとしている。グラハムが動かした。
目を閉じると涙が零れた。25周目の涙だった。







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