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思い付きだった。突発的で短絡的で楽観的な。夏の終わりの焦燥感、或いは寂寥感に駆られたのかもしれない。
夜通し交代で車を走らせ、東海岸に着いたのは日もゆるゆると昇った頃。
ニールの愛車から揃って降りるとたちまち海風が身を包んだ。
海岸の名はわからない。
ただどこまでも、目の前には大西洋が広がる。
アメリカから見るの初めてだな、とこの海を越えて来たニールは言う。それから、海だ、と何とはなしに一言呟いて、靡く髪を耳に掛けた。
海だ。
何の変哲もない海だった。
温暖な地域の、澄んだ、誰にでも美しいと賞賛されるものとは違う、いっそ暗いと形容してもいい深い青が広がる。
「お前最後に海来たのいつ?」
軽やかな声にしばし思考を巡らせ、さあ、とだけグラハムは応えた。軍用艦に乗ったのでは海に来たとは言わない気がして、しかしそれを差し引くと海に来たことなどあっただろうか。
一定のリズムを刻んで打ち付ける波を、深い青の隆起を、つい茫洋と眺めてしまえば、ニールも静かに見つめていた。
新鮮なようで、けれどどこか懐かしいような、不思議な感傷に襲われる。
よし、と意気込んだ声が隣から聞こえたのに見やると、ニールはぽいとサンダルを脱ぎ捨てていた。擦れたサンダルの裏が日光に晒される。
「入るのか」
「せっかくだしいいだろ」
腰に手を当て、悪巧みを思い付いたようなにっとした笑みを浮かべる。夏の間いつも履いているショートパンツの裾が、待ってましたと拍手せんばかりに風に揺れていた。
ニールは。常日頃どこか諦観混じりの達観した風で、年齢より大人びた立ち方をしているのに、時折子供のようになる。
今もまさに踵でくるりと無邪気に身を翻し、海に向かって歩み出した。白い、日に焼けていない足がきゅっと砂浜を踏む。進む度意外に小さな足跡が刻まれる。
太陽の熱を抱え始めた砂は飴色をしていた。
先を歩くニールを見るのはグラハムにとって珍しいことではない。けれど今、ひときわ特別なように見えるのは、彼女の向かう先が町の無機物の林ではないからだろうか。
十数歩の歩みの末、ニールは渚に立った。
立ち止まり、そっとまた足を上げる。
寄せる波に爪先が触れたと思えば、そのまま戻る波に導かれるように、ニールは海に入った。
「気持ちいいな」
波の音に声を乗せ、海の絡む足をゆるりと進める。触れた波は一瞬乱れては何事もなかったように打ち寄せる。
朝の日差しがニールを照らし、風に靡く髪の先はそのまま溶けていくようだった。
ひたひたとしんしんとニールは進んでゆく。
その姿はまるで禊ぎに見えた。厳かにすら感じられるのは彼女の立ち居が凛としているからなのだろうか。
グラハムはただその背中を立ち尽くして見つめていた。
ふいに、気付いた彼女が振り返る。
「来いよ」
目を細めて笑う。
「んな堅苦しい靴脱いでさ」
どうしたって彼女の言葉には、引力のようなものがあると思う。月の存在が波を生み出すように、心を波立たせるのだ。
「そうだな」
口先ばかり殊勝にしてグラハムは靴を脱いだ。思えば外で裸足になるのも随分と久しい。
ニールの残した足跡を消さないように、しかし辿るように歩き、波打ち際に立つ。
磯の匂いがいっそう濃くなった気がした。
顔を上げて窺えば、ニールは子供を見守る母親のような顔をして待っていた。例えば打ち寄せる波に怯えるならば、怖くないとでも言ってくれそうな様子で。
その様子に、そんな存在などついぞいないまま大人になってしまったと侘びしく思う。奇妙な話、己の勇気を己で奮い立たせることにばかり慣れてしまった。
一歩、拳を握って踏み込めば、指の間をするすると砂が抜ける。
「気持ちいいだろ」
「ああ」
見守るニールはグラハムよりずっと満足そうな顔をしていた。優しい顔だ。
夏の終わりの海は想像よりも暖かかった。ある程度身構えていた心がするする溶ける。
帰る童心もろくに持ち合わせていなかったが、たゆたう波の感触は目を細める程心地よかった。
「いいよな」
ニールはいつの間にかもう膝上まで浸かっていた。腕が届くかどうかの距離にまでグラハムが寄ると、ゆるりと歩き出す。
グラハムは半歩後ろに付き従った。
水を掻き分けるように進むとひとつ、高い波が膝に触れた。
「お前泳ぐの得意?」
気ままにニールが訊く。
「不得意ではないな」
「遠泳とかできる感じ?」
「ある程度は」
予想通りといった調子で笑う気配がした。彼女の中でグラハムはオールマイティーの像でいるらしい。
「姫はどうなのだ」
「泳げるぜ、もちろん」
ぱしゃりと水を蹴り、立ち止まる。沖へ顔を向け、水平線を見つめているらしかった。例えば陸に上がった人魚も、そんな佇まいをしたのだろうか。
「このまま泳いでいきゃ帰れるかね」
明らかに冗談の笑みが滲んでいるのに、その声色はどこか儚い。
まただと思う。
そんな風にして時折遠くなる彼女がグラハムは嫌いだった。彼女の憂苦に己も含まれているだろうことが嫌だった。
決して楽天的ではない思考を駆って、グラハムは彼女を引き戻す言葉をいつも探す。
「流れからするに、それは駆け落ちの誘いだろうか」
「まさか」
ニールは振り返った。逆光の為に輪郭ばかりきらきらと光る。
「100歩譲ってお前の亡命だろ」
影になった表情をグラハムは見極めあぐねた。故に返す言葉も見付けあぐね、一瞬間のできた隙に彼女はまた正面を向く。
再び歩み出す。会話の間を埋めるように音を立てて。
進む足によって分岐された水が再び合流する音は不思議な音色だ。海の歌声にも聞こえる。母なる海の、子守歌にも。
「……これほど心地良いのなら、もっと早い時期に来ていれば良かったな」
「もっと計画的にか?」
ニールはからかうように笑う。笑い声が波の音に似ているのだと気付く。ともすればここまでの会話の間、波だと錯覚して彼女の笑い声に気付いていないこともあったのだろうか。急に不安になりそうだ。
「私はそれほど計画性は重視しないがね」
今は、確かに、ニールは笑った。
「逞しいよなお前」
「そうか」
「逞しいし、勇気ある」
海上を滑って来た風に吹かれ、彼女は髪を寄せる。
「姫が私を誉めるなど珍しいな」
「……悪かったな」
わざと反応しそうな台詞を言えば予想通り彼女はつっけんどんに返す。そんな混ぜ返しも彼女とのやり取りの一興であり常套手段だった。
ただ今は、別にいいだろ、と彼女は続ける。
「例えば水平線の先は断崖だって言われても、お前は振り切って行くタイプだろ」
確証があるような口ぶりで彼女は言う。
「そんで思いがけず新大陸でも見付けるのさ」
グラハムは手を伸べた。伸べねばならない気がした。しかし咄嗟だとは悟られないよう、そっと優しくニールの手を掴む。
「その時はまた姫を呼ぼう」
彼女の指先は海と同じ温度をしていた。
彼女は振り返って、苦笑して、手を握り返す。
「またって、今もお前に呼ばれてここにいるのか、おれは」
「そうだな、赤い糸の導きだ」
「それここで言うと釣り人と魚みたいだぞ」
ぱしゃんとまた、水面を蹴った。
例えば7つの海や7つの大陸を統べるのと、陸も海も空も宇宙すらも自在にゆくのと、どちらが覇者足り得るのだろう。
縦的になったこの世界の向かう先など知らないけれど、或いは何かの繰り返しなのかもしれない。
彼方と此方を繋ぐ海でふたり手を繋ぐ。

それからとつとつと言葉を交わした。他愛なくて些細で繊細な言葉を。
互いの心に少し波を立たせたり潜ったり、時には錨を沈めてみたりする。
そして最後に、戻ろうか、と彼女が言ったのは、どれくらい時が経ってからのことだったかわからない。まるで打ち寄せる波の速度で時間が進んでいるようだったから。
彼女がどこに戻ろうと言ったのかはわからない。
ただ陸に上がってしまう前に、ひとつだけ、言いたかった。
「君は海が似合うな」
彼女はひとつ瞬いて、それからひどく柔和に笑った。
「お前は空が似合うよ」
細められた瞳の色を何に例えればいいのか、グラハムはまだわからない。絶えずその中にありたいと願うばかりで。

水平線の彼方で空と海が出会う。島影も大陸も遥か遠く。







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